萩尾望都作品集〈6〉ポーの一族(1) (1977年) (プチコミックス)

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著者 : 萩尾望都
  • 小学館 (1977年11月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (239ページ)

萩尾望都作品集〈6〉ポーの一族(1) (1977年) (プチコミックス)の感想・レビュー・書評

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  • お母さんの本棚にあった70年代の少女漫画。

  • <最終巻までのネタバレを含みます>

    言わずと知れた少女漫画界の至高の傑作。いつかは通らなければならない道だと思い続けてきた。数にしてみればたった4冊なのに、その中でたゆたうように行き来する300年余の時間の激流。各人物、各国、各時代が絡み合うように一つの歴史を織り成していく構成が凄まじい。
    巻末解説はそれぞれ小野耕世、斎藤次郎、清水哲男、村上知彦(敬称略)。図書館で借りて読んだせいか、清水氏の解説のみ途中でページが破れてしまっていて、最後まで読めなかったのが残念だった。解説だけでも各巻10ページ以上あって、本編以外も読み応え有。この作品が当時の日本漫画界に与えた衝撃を窺い知ることができる。収録順はもちろん非掲載順(この並び替えは何か意味があってのことだろうか。自分は初読ということで抵抗なく読んだけれど)。図書館で普通に借りて読めることからも、萩尾望都を筆頭とするいわゆる「花の24年組」は、もはや日本文学の教養に数えられる存在だという感慨を新たにする。

    正直、読み終わった今も消化し切れている気がしない。★五つ評価でないのは、この作品が平凡な評価に終始するものだからでは決してなく、むしろこの作品を理解するにはあまりに経験値の不足している自らの至らなさを恥じてのことだ。感動したというよりは感銘を受けたといった方が正しく、表現の機微に涙するというよりは呆然としたことの方が多かった。全編に渡り緻密な計算と配慮によって構成された立体的な物語空間。これだけのものを、間にこれもまた『トーマの心臓』という傑作漫画の連載を挟みながら、少しも作品の軸をブレさせることなく描き上げた作者の技量にただただ圧倒される。何というエネルギー、何という感受性だろう。今や「少女漫画の神様」の名を欲しいままにする萩尾先生だけれど、ここには当時から既に何かが本当に「降りて」いたのではないかという畏怖の念さえ感じられてしまう。
    また技術的な問題としては、72年から76年にかけての作画の変遷も垣間見られて興味深い作品群。もはや「耽美」という以上の言葉が見つからないまでに優美かつ艶やかな萩尾先生の作風が、次第にその神髄を極めていく過程が順を追って体感できる。正直なことを言うと、私は『ポーの一族』に至るまでのややシンプルで無骨な印象のある(あくまで個人の感想として)彼女の筆のタッチが苦手で、それだけにクリフォード医師がメリーベルの正体を知って激昂するシーンなどは、まるで梅図かずおのホラー漫画を読んでいるに等しい恐怖感を覚えてしまった。けれども、そうした「不安」や「恐れ」もまたこの作品の重要なエッセンスとなっていることは言うまでもない。エドガーやアラン、メリーベル達バンパネラは、永遠の命を知らない私達人間にしてみれば、常に半分実在し、また半分は幻想として一笑に付される(まるで秘密のポーの村のように)霧に包まれた存在だ。あると思えばあり、ないと思えばなく…ラストの『エディス』でも、エドガーの影を追い続けたジョン・オ-ビンが「ああ あれらもまた―― すべてこの夕暮れの時がつくりだした もののけの影のような 実在しないまぼろしか」と呆然と佇むシーンが出てくるけれど、その通り彼が真実そう信じるならバンパネラなどおとぎ話の主人公にしか過ぎず、ある種エドガーに人生を狂わされたといえる彼の運命は、途端にその神秘的価値を失って長針と短針が巡るだけの空虚な「過去」となる。けれども、彼がその後すぐに思い直すように、エドガーは、アランは、確かにそこに「いた」のだ。彼の傍らに、私達の鼻先に、二人がさまよう各々の時代に打ち立てられた生きた墓標として。そうして、人間達の追手を逃れながら、それでもあと一歩を誘い出すように、常に彼らの前に残像をちらつかせる少年達の矛盾。余計な追跡をしようと謀る者共は残らず焼き尽くそうとする激しい怒りと残虐性とを備えていながら、同時にそうした人間達の「記憶」に自らを刻み込むことによって存在を保っているような二人の姿が哀しい。時を持たない彼らバンパネラは、それも永遠の少年時代という十字架に磔にされた二人は、生きていた頃の全ての時代を除いて、もはや自分達を「過去」の住人として処遇することができない。彼らの前に支配を失った「時」は項垂れ、少年達にとっての過去は今日に、今日は明日に、過去と未来とが一次元的に結ばれた淀む時空がそこには生み出されるのである。
    数奇な運命から永遠の命を得、人間とバンパネラという二つの種族の狭間で苦悩し続けていたエドガーが、最後燃え尽きる家屋の向こうに消えたアランを呼びながら、ようやく幸福な笑い声を上げるシーンは本当に印象的だ。あの時、私は「エドガーはやはり人間だったのだ」という解釈を持った。「ぼくの命」とまで言い放った最愛の妹・メリーベルの死を招いたバンパネラのさだめ、永劫の孤独とも言える停止した時空の中で、それでもエドガーは人間として生きた時代の喜びを、感情を、感覚を捨て去ることができなかった。自らの記憶がなければ存在さえ揺らいでしまう、か弱く不安定な人間の時を越えようとして、けれどもその中にこそ自分の全てがあることを知ったのだ。
    メリーベルは失われたのではなかった。エドガーの中に、そしてアランの中に彼女は「常に」存在していた。だからエドガーもようやく安らいで、「帰ろう 帰ろう 時を飛んで」、そう言ってメリーベルとアランの元へ旅立ったのだ。そこで、彼はそれまで欲しかった全てのものを手に入れた。そこで、エドガーの孤独はようやっと終わりを告げたのだ。記憶の只中へと立ち還ることにより、彼はもはやバンパネラではいられなくなったけれど、だからと言って私はあのラストを悲劇的とは感じなかった。少なくとも、そこで彼がようやくメリーベルとアランと一つになれたのならそれでいい。もう「ひとりではさびしすぎる」とつぶやいて、残酷な愛の別れに咽ぶこともないだろう。永遠の子ども達は、彼らが真に安らぐためには、最後まで永遠でいることはかなわなかった。そのぶん、彼らを見、聞き、触れた人々の中で三人は永遠になった。人間として生を受けた彼らと、永遠の命、少年時代。この相容れぬ二つのものが互いに調和してあるためには、やはり最後はああして消え行く定めをその身に受け入れるしかなかったのかもしれない。

    ずいぶん長くなってしまったけれど、最後にもう一つだけ。エドガーの相棒であり、忘れちゃならないもう一人の主人公アラン・トワイライトがとにかく可愛い。気に入らない奴に対しては「ぶち殺せば良かったのに」と平気で残虐な発言をしながら、行きずりの女の子達と恋を楽しみ、薄情なエドガーに癇癪を起こし、すねたり笑ったり、とにかく目まぐるしく変化する表情にいちいち虜にされた。『11人いる!』の時も思ったけれど、私は萩尾先生が描くちょっと子どもじみた可愛らしい男の子というのが大好きだ。無邪気であることは、時に正しさとは直接結びつかないものかもしれないけれど、無邪気であるがゆえに同居する残虐性とあどけなさのコントラストは、それだけでこの世で最も無垢なる存在を目にした時のような新鮮な感動を与えてくれる。

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