カミュ全集〈5〉戒厳令・正義の人びと (1973年)

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  • 本巻に収められているのは、二つの戯曲と諸論文である。特に戯曲は、どちらの作品もまことに興味深く読めるものである。ある意味では、小説よりも作者の意図が明らかに露出していると言えよう。

  • もうひとつのペストと反抗の物語。
    作家として脂ののってきた頃だろうか。初期の作品と比べて、ことばが活発で自身の外へと向かい始めているように感じられる。少しずつ論戦も増えてきて、日々苦労を重ねていたのではないだろうか。
    反抗とは、ニーチェの考えたような、既成価値の否定から生れるものではない。肯定的に否定するという逆説である。会見でも述べているが、未来に対して、理想に対して楽観的であり、何か行動するということに関して悲観的である、このことである。
    暴力というものは避けることができない。銃を向けられれば抵抗するし、襲いかかられば、相手の命を奪ったとしても抵抗してしまう。敵を皆殺しにしなければ安心などできない。カミュは知っている。しかし、そういった事実を正当化する価値など、いかなる場合でも持たずに生きることが人間はできるのだ。それが反抗なのだ。戦争はいたしかたない、しかし、戦争を正当化するいかなる価値や思想をわたしは拒否する、それが彼の反抗の在り方なのである。そうした拒否の姿勢は、アルジェの焼き尽くすことのない太陽と乾いた砂漠、果てのない茫漠とした海から彼が知ったことだ。
    人間性は、ナチやソ連のような強制収容所を生み出すと同時に、そうした価値に嫌悪し、拒否することもありうるのだ。この点に帰らずして、この感覚なくして、考えることが彼にはできない。確かな感覚に裏打ちされているからこそ、彼はきっといわれのない攻撃や的外れな手紙にああまで力強く答えるのだろう。
    ひとを殺すということは、自分の命をもってしなければ、殺してはならない。その覚悟と行動がない者に殺しなど許してはならない。正義の人びとをはじめ読んだ時は、ああいった自己犠牲やらテロによる死に関心があるのだと思って、正直驚き、カミュという人間を嫌悪した。しかし、カミュが死刑に反対した事実を知った時、確信した。あの劇はわざとシンプルにカミュ自身の余計な筆を入れずに描いたのだと気づく。その点であの劇はカミュの中でも未熟であるとともに、反抗の原型を確かに残している。
    カミュに問うべきは、理想主義者だとか観念論者だとかそんな細かいことを指摘するより前に、自分の命が、殺すべき他人の命と釣り合うという前提を彼はどのように考えているのか、このことではないか。釣り合うという経済的な考えというよりかは、相手を殺す時、自分が死ぬというこの逆説を、彼はいったいどのように考えていたか。彼の作品の中では、この不条理が少しの疑念なく、実現されている。どんなにあがいても、大公の死は大公の死だし、テロリストの青年の死は青年の死である。どちらがどちらのために死のうと、どちらもどちらのために死ぬことなんてできない。死んでいくのは、ひとりでしかないからだ。この事実を彼ほどの人物が見逃していたとはとうてい思えない。死ぬということと、殺すということは同じものの表と裏の関係にあるが、やはり同じではないのである。

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