ゲド戦記 [DVD]

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監督 : 宮崎吾朗 
  • ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント (2012年5月26日発売)
  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4959241981042

ゲド戦記 [DVD]の感想・レビュー・書評

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  • ジブリ作品は何回も見たほうが視点が変わるから面白い。
    この映画もまさにそう。

    子供のときにみても、竜とか魔法とか要素はあるのに、展開がハラハラしたりしないから面白くないように感じる。

    でも、モラトリアム中とか死生観を考えたことがあるとかそういう大人になりかけてる時とかにみるとまた印象が違う。

    ゲド戦記は、駄作だというイメージがつきすぎてる作品だと思う。思い込みで敬遠したりするのはもったいないから見てほしい。

  • ゲド戦記の主題歌を目的として見た。

    でも・・・。
    吾朗さん・・・。(宮崎駿さんの二男。)


    期待した分、だいぶ内容が「??」だらけでした。

    評価は・・・手島さんが歌っているのが好きなのでおまけで二つ。

    ・・・小説とあまりに違うといわれているので小説も読んでみる。

  • 小説を映画化する場合、必ずしも小説に忠実である必要はない。
    しかし、絶対に変えてはいけない部分というのは必ずある。
    信念のようなもの。これを訴えたくて筆者が筆を取ったテーマのようなもの。

    ゲド戦記の原作は5巻からなる。
    1巻は既にテレビドラマに使われていて使えない。
    ジブリは3巻をメインに話を作るという。
    それが公になったとき、ネットなどでは
    『美少女を出して空を飛ばなきゃ気が済まないジブリなんだから
    きっとテルーも竜も出すに違いない』
    と話題になっていた。
    残念ながらその予想が事実になり
    寧ろ予想以上の駄作となってしまった。

    原作者が激怒するのも無理はない。
    これではまったくゲド戦記ではない
    世界中の原作ファンに対して失礼極まりない出来。
    アニメとしても色がどぎつく作画が汚く
    ストーリーも意味不明でしりすぼみの自己完結で、成り立っていない。

    確かにゲドの魅力は過ちを犯してしまう1巻、
    それを乗り越えて人を助ける2巻、
    と経て、やっと死力を尽くして世界を救う3巻に至るので
    3巻だけとりあげて作るのは難しいことはわかる。
    だが、やりかたはいくらでもあったはずだ。
    小説を本当に読んだのか、面白いと思ったのか疑ってしまうほどの
    吾朗氏の作り方なのである。
    映画を見た人全員にゲド戦記の1~3巻を無償提供すべきと
    半ば本気で思う。でなければ、アーシュラの傷つけられた魂はどうなるのか。

    ほとんどはシュナの旅をモチーフに作っている、とまで言ってしまうくらいなら
    最初からゲド戦記ではなく、原案シュナの旅のオリジナル作品として
    作って発表すればよかったものを、なぜ世界的名作を捕まえて
    貶めるような真似をしたのだろう。
    amazonのレビューで犯罪、日本の恥とまで酷評されていた方がいたが
    私も全く同意見である。

    以下、詳細について論じる。

    そもそも3巻の『さいはての島へ』というのは
    エンラッドの王子アレンが世界の異変に気付き、大賢者にお伺いをたてに
    ロークの魔法学院に訪ねてくる物語である。
    1、2巻で活躍し、若気の至りで失敗もしたゲドが大賢人となり、学院長を務めている。
    学院のある島は非常に幻想的なところで、それにみとれている内
    ハイタカと出会い、国許だけでなく世界全体の均衡が崩れつつあることを知り
    その原因究明の為にハイタカとふたり、アレンは船旅に出る。
    その旅路で、魔法はおいそれと使っていいものではないことを学び
    ハイタカを尊敬し、ついに辿り着いたさいはての島で生と死を隔てる石垣を見つけ
    実はこの石垣にクモが穴をあけていて…
    というのがあらすじ。

    けして、突然無意味に父親を殺したアレンが逃亡中に会ったおっさんと旅をして
    情婦の家に転がり込んで、農作業を手伝わされて
    小生意気な少女の歌をきいて何故か心が洗われて
    急に仲良くなって、悪役を倒して国に帰って処刑されることにする、と決める物語
    ではないわけなのだ。

    そもそも、キャラデザからして酷過ぎる。
    ジブリが描く王子なので、アレンはまぁ良しとするが
    ゲドの傷とテルーの火傷の痕は物語上非常に重要であり
    直視できないほどひどいものでなければならない。
    当然子供向けアニメでそこまで描けないのはわかるが
    あれではただシミやアザになっているだけで、傷跡にすら見えない。
    ただでさえ3巻のゲドはラストシーンまではサポート役という感じで
    1、2巻のように派手な活躍はしないのに
    あれではただの肌の汚いおじさんにしか見えず、魅力の欠片もない。
    アーシュラのこだわりのひとつが、ゲドたちは有色人種であるということで
    テレビドラマ版も約束を破り白人を起用したことで彼女の怒りを買ったが
    ジブリもまた同じ轍を踏んでいる。
    (この点に関して、黄色人種から見ればあのゲドの肌の色でも
    有色人種に見えると聞いた、とアーシュラは一応の納得をしてくれているのだが)

    3巻メインではおじさんと王子の延々船旅なだけなので
    吾朗氏はこのままやってもつまらないと思ったようだ。
    その考え方も既に原作を全く読み込んでいないし、リスペクトもしていない。
    つまらないなら映画にしなければよかったものを。
    つまらないので、船旅は全くなしにして、4巻以降で出てくるテルーとテナー
    しかも2巻のエピソードはとってつけた「墓所にいると昔を思い出す」程度の台詞だけで
    全く描かれていない為、あれだけの物語の主人公であったはずのアルハも
    ただのおばさんとして無意味にテルーの母ポジションでいきなり出されてしまい
    彼女の家にころがりこむという、よっぽど動的でなくつまらない展開に変えてしまった。
    どころか、石垣の穴による世界の異変を、鬱屈した若者のストレスとイコールにしてしまい
    「もうこれ以上我慢できない。なんでそうしたかわからないが父親殺しをする」
    という吾朗氏の考え方から、突然のっけから父親を刺す(吾朗氏の考える)現代の若者に、
    王子であるアレンは仕立て上げられてしまう。
    更に、農作業をしながら「ゲドのようなおじさんに諭されて回復はできない」
    だからテルーが必要だった、という、
    ならなぜに『ゲド戦記』なのだ
    とつっこみたくなるような考えから、テルーは登場しゲドはただのおっさんにされてしまう。
    本当はアレンは前向きでゲドを尊敬する少年なのに、吾朗氏の思う若者は
    「積極性が無く後ろ向き」だそうで、アニメにあたりアレンは性格も改竄されてしまった。
    しかも吾朗氏はラストについて
    「原作では世界のバランスが崩れているのは、
    クモという魔法使いがあの世とこの世の境にある扉を開けたせいではないかと。
    それを塞げば均衡は戻るという書き方。でも、それはないだろうと感じたんです。」
    と、原作に納得がいかなかった、だから変えたと発言している。
    ここまで原作に納得がいかなかったのなら、なぜ原案シュナの旅のオリジナルで
    作らなかったのだろうか?
    原作者と原作ファンを馬鹿にしているとしか思えない。

    そこまでして訴えたいことは、
    「最近の若者は無気力で消極的でやる気が無く、ふいに人を殺したりして
    結局その罪を反省することもあるかもしれないが、処刑されます」
    というのがこのジブリ版ゲド戦記なのである。

    大賢人ハイタカが旅に出て、魔力の全てを投げ打って世界を救うのに
    「それはないだろう」と言うのは、物語がちゃんと読めていないし
    ハイタカの偉大さや素晴らしさがわからず、尊敬の念もまったくないという証拠だ。
    だから物語が意味がわからないし、訓戒も安っぽく
    取り敢えず竜だったり、不思議で変わった女の子に安易に頼ってしまう。
    クモがただの悪役になりさがり、なぜあんなことをしたのかがまったく描かれない。
    奴隷狩りについても唐突で、なぜあんなことが行われているのか説明がない。

    原作の竜というのは偉大な存在である。
    人は言葉を喋り、嘘をつくが
    動物は言葉を喋らず優しく寄り添う。
    しかし竜は言葉を話し、かつ嘘をつかない。
    なのに安っぽくのっけから竜が出て、しかも共食い。
    魔法学院の描写や世界の異変は台詞で誤魔化して描かれず
    突然アレンが父親殺し。
    魔法を使わない大賢人が、逃亡中の犯罪者を魔法で助け
    開始10分間我慢して見ても微塵も原作と被る部分がない。
    大体、アレンが既に侵されていたら 全て話にならないのに
    なぜ原作通り、アレンが世の中をなんとかしようとして ゲドを訪ねないのか。
    余りに酷い展開なので、ハイタカがよもやまさか
    ゲドだと普通に名乗るんじゃないかと思ったほど劣悪だった。

    とってつけたような奴隷が連れられていくシーンも、あれでは
    ゲドよりナウシカ(漫画版)でケチャがユパに止められるシーンを思い出す。
    人殺しのアレンが人が商品だなんて、と言いだしても説得力が無い。
    アレンとハイタカの旅が描かれず何の思い入れもないのに
    奴隷、そしてハジア云々言われても意味がわからない。
    そして何故だかポートタウンにテルーがひとりでいる。
    捕まったアレンを、またしてもゲドが魔法大安売りで使用し助けに来る。
    そして向かうのが何故かテナーの家。
    いきなりテルーとテナーを出されても、このふたりが背負っているものについて
    全く描かれておらず、意味がわからない。
    奴隷狩りがクモの家来というわかりやすいチープな設定で
    何故かハイタカとアレンがクモに狙われることになる。

    「私をいじめに?この子を殺しに?」
    このテルーの台詞は笑うしかなかった。酷過ぎた。滑稽だ。
    原作のテルーが聞いたら激怒するだろう。
    テルーはこんな自己中心的で、命懸けで助けられても礼も言わず
    自意識過剰で被害妄想な幼稚な小娘ではけしてない。

    延々と続く旅。
    ゲドの原作もそうだが、所謂ファンタジーというもの、
    指輪物語や、ファンタジー系ゲームに至るまで
    武器も食料も水も馬もマントも無しで旅をする者などめったに出てこないのだが。
    そのあたりも全く描かれない。長い旅の苦労も全く伝わらない。ファンタジー冒険活劇において重要な点にもかかわらずだ。
    たとえばラピュタでは目玉焼きののったパンとナイフ、ナウシカでもチコの実や鎖帷子あったのにである。

    自由の重み。
    魔法が完全なものでないこと。
    結局は全て人に託されるということ。
    これを語った2巻の主人公とも言えるアルハはどこ行ったのか。
    ただのおばさんでゲドの女にしか描かれないことが不憫すぎる。

    魔法は簡単に使えるものでも、使って良いものでもない。
    これと同じくらい重要なのが、誠の名についての話なのだが
    これについても殆ど描かれていない。
    重みも全くない。
    すっかりただの、悪い人を正義の味方がやっつける話になっている。
    闇が単なる駄目な物にされて、それに冒されて父親殺しをしたことになって、
    ゲド戦記の重要なところがなにも語られていない。
    ただのプライド、恨み、醜い悪役にされたクモ。
    テナーとテルーはただ女性成分補充で、肝心のゲドが役立たず。
    世界を救うはずのゲドが。テナーとよろしくやっているだけ。
    竜が出てきて、なぜかあっさりクモが燃え尽きる。

    償いの為に国に帰る、と軽く、父親殺しの意味が無い。
    (意味はないし理由はわからないものを吾朗氏が描こうとしていたらしいので
    そういう意味ではとてもよく出来たアニメなのかもしれないが。)

    そしてこんな中途半端なところで終わってしまう。
    ほのかなテルーへの恋心。しかしアレンは国許に帰って自首し処刑される。
    このどこが『ゲド』の『戦記』なのか。
    ハイタカ=ゲドときちんと語られたようにも見えない。


    アーシュラが懸命に、風景と歌はイメージ通りだったとか
    優しいことを言ってくれているが
    結局彼女の言う通り、これはアーシュラのゲド戦記ではなく
    『吾朗氏の映画』に過ぎない。
    ゲド戦記の欠片もないのに名前を引用した、同人誌未満の作品を
    ジブリの看板をかかげて無理矢理嘘をついて契約した詐欺師が
    金をかけてプロを名乗って作って公開し、原作ファンの怒りを買い
    読んでいない人も意味がわからない、というものになってしまった。
    こんなものを作ってておいて、どの面下げて作者に会えるのだろう。
    彼女の家に招かれた時の振る舞いから考えても
    やはり恥知らずなのだろう。
    ジブリという名前に溺れているのだ。

    プロがプロに対するリスぺクトもなく物を作ればこんな最低なものになる。
    しかし、ジブリの威光があるから罰せられず、面白いという人まで出てくる。
    こんなやり方でプロと名乗って映画を作れるなら
    プロを目指して必死になっている良い仕事をしている人たちはさぞかし悔しいだろうとさえ思う。

  • 2006年日本 ジブリ
    岡田准一、内藤剛志、菅原文太


    何なんでしょうかこのアニメは、、、、宮崎吾郎さんの監督デビュー作らしいですが、何を伝えたかったのでしょうか?
    ところどころで父親の作品の面影を感じたり、、でも、町並みはすごくきれいに描かれていて、、

    だけども、余りにも意味のない作品です。
    大体アレンはなぜ父親を刺したの?父親殺しのアレンがなぜのうのうと生き延びてるの?
    ストーリーの展開とかも全く意味不明、、、原作を読めば理解できるのかと思ったりもしたのですが、それならば映画という作品にならないですよね。

    本当に観ててばかばかしくなる作品でした。

  • ジブリらしさ とか そういうのはよくわからなかったけれど
    良い作品でした

    伝えたい言葉が多すぎて
    わたしの中に全部入りきれなかったのが残念です

    生きること と 死ぬこと
    誰もが通る道だけれど
    きっと深く考えたことは皆無いと思います
    わたし自身 死ぬことを考えたことはあるけれど
    命について考えたことがなかったので
    ちょっぴりハッとさせられました

    ジブリに出てくる人たちは
    皆何かしらの自分の役目を持っていて
    他人を影響させる何かを持っているので
    自分も頑張ろう と思わされます

    何年後かにまた見たい映画です

  • 思春期の男の子の「不安定さ」は、
    これからその時期にさしかかってゆく息子を持つ私に
    とっても大切なことです。

    この映画の伝えたいことのひとつにきっと
    「思春期の男の子の、成長への葛藤」があるように思いました。
    「精神的な父親殺しができにくい現代」だ、
    と解説に翻訳者の清水さんが書かれていますが、
    本当に殺すというよりは
    「象徴的に与えられているエピソード」だという印象がありました。

    若いみずみずしい感性は、同時にそれゆえの不安定さを抱えています。
    普遍の知恵や、ゆるぎない倫理観を持つ前に、
    必ず通る「葛藤」の時期は、形は違っても誰もが通る道です。

    不安定な凶暴さをどうコントロールするかを
    映像は、優しく教え諭しているように思えました。

    クモとの「永遠の生命」騒ぎは、アレンを自立へと導いてゆきます。
    本来、人間が「戦う」ということ、
    つまり「剣をぬく」ということは、
    「正しい目的、つまり「いのちのために」を知る者だけができること」
    なのだと伝えられているように思いました。

    戦いを終えたアレンの、風になびく髪とあの清清しい表情が、
    物語の終わりを告げているように思いました。

    この作品のなかに描かれる自然、
    特にその流れてゆく風景の動画ならではの表現が、
    私はとても魅力的に思いました。
    リアルに懲りすぎず、
    物語のニュアンスも残しているように思いました。

    「DVD絶対ゲットするぜ!」とこころに誓いました。
    (すいません、週に二回ポケモンにお付き合いしているので、
    このほうがやけに自分のこころにリアルに響く!
    さては私の影はまだ私の後ろにいるのか~?(T-T))

    それにしても、おばちゃんふたりの強烈さは・・・・・。」
    自分の都合のいいことには調子よく利用して
    勝手気ままに情報活用の後悪口吹聴。
    その情報源のいいかげんさや信憑性のなさ右に出るものなし。
    なのに責任は相手に丸投げ。・・・。・・・。

    でも、ハイタカにならすぐばれちゃいますよね。

    追いかけてくる「影」こそが「光」。

    「耳をすましてごらん。希望が近づいてくる」

    と同じニュアンスだと思っていいのでしょうか。

    とにかく、とてもよかったです。

  • 主人公の心の葛藤がとても心地よかったし、
    それを理解して受け入れることができる周囲の人たちも温かかった。

    たしか公開されたとき、酷評だった気もするけど、
    内容が難しかったんじゃないかなぁ。
    心を見たことがある人には伝わるものがあるはず。

  • テレビでやってて、世界がナウシカっぽくて好き!って思ったら評判があまりよくなくてビックリ!
    ちゃんとみてないけど、世界観やキャラも昔ながらのジブリと言う感じで、私はけっこー好きかも!
    またゆっくりみたいな!

  • 「不死であるということは生を拒絶することだ」


    おくらばせながら、やっと「ゲド戦記」を観た。

    あまりにも周りの反応が芳しくなかったため

    そのうち観ようと思いつつも先延ばしになってた。

    あたしが受けた第一印象としては


    「そんなに言うほど悪くないんじゃない?」という感じ。

    それこそ「ちょっとこれよかったかも」にやや近い感じ?w

    まぁ少なくとも「ハウルの城」よりはずっと良かった。

    もちろん、あたし的に、という意味で。



    「ゲド戦記」には、まずい点も確かにいくつかある。

    物語の真髄、最も伝えたい部分を前面に押し出そうとする反面、

    その背後関係の詳細な部分が曖昧なまま放置されてる。

    少年が彼の父を刺し、剣を奪って逃げるのだけど、

    そのあたりの背景にもうちょっと具体的な説明が欲しかった。

    もう一つの人格が凶暴性を持っており、時々どうしてもその衝動を

    抑えきれなくなってしまう。

    理由はそれだけではないはずだ(....と思いたい)

    (まぁだからこそ見た人の勝手な推測や空論が入り込む余地もあるのだけど)

    竜の化身とテルーの関連性のあたりもちょっとまずい。

    説明が追いついて来ないし、やや飛躍しすぎてる感もある。

    ラストもあれでいいのか?という感じ。



    だけど、以前も村上春樹について書いた日記でも触れたが

    一つの作品というものは、もちろんあるべき最終章に向かって

    流れているものであるけれど、必ずしも最後が大事なのではなくて

    その過程の中にこそキラリとしたものが含まれていて、その

    きらめきの一つでも発見できればそれでオールオッケーなのだ。


    全てが完璧である必要は無いし、どんなに構想を練りこんで

    作られたものでも感動が出来ない退屈な作品はたくさんある。

    昔よく見ていたアニメだってそう。ラストシーンは思い出せなくても

    見ていた過程の中で感動したり、何かを気付かされたりしたものだ。

    そういう意味では「ゲド戦記」はあたしの心の何かを奮わせた。

    引力のある作品だったと思う。



    命は永遠ではないから、私たちは生きているという実感を

    得ることができる。

    もし命が永遠で、死ぬ恐れが無かったら、

    死の対極にある生についても考えない。

    それは生きることを拒絶することだ。

    不死であるということは「死なない」ことではなく

    「生きない」ということだ。

    死があるから人は命を大切に出来る。

    誰かのことを思いやることも。



    単純で直截的な手法で、「ゲド戦記」はこれを切々と訴えてくる。

    子供が「おなかすいたー」と泣き喚くようにあまりにも分かりやすく。

    小手先の技法や湾曲な表現など一切無く、でもだからこそ

    伝わってくる熱いものがある。

    そう、この作品全体にただよう直截的な「ひもじさ」

    のようなものがあたしは結構気に入ってる。



    テルーが草原で歌ってる場面。恐らくこの物語の中心でもあろう

    このシーンで少年はただただ涙を流す。

    私たちはすでに知っている、ある日ふと流れてきた曲を聴いて

    訳もわからず心奮えたときのあのやるせない気分を。

    だからこそ少年と一緒に泣ける。

    そしてあたしは物語には単純に感動すると決めている。


        マイフレのMくんならきっと
        「泣かせようって気合が出てる話には”泣いてたまるもんか”
        って思うけどね」 と言うだろうけどw 


    でも簡単に感動してしまう自分が結構好きだったりもする。

    それにディティールの脆弱性やあら捜しをしながら観ても

    全然楽しくないし、それならば単純に感動しちゃったほうが

    ずっといいに決まってる。


    そしてこのテルーの歌は、くちずさむには最適な歌だと思う。

    ここ数日間はお風呂の中で娘と一緒に歌っている。

    子供にはきっとこの歌詞のほんとうの意味などわからないだろう。

    だけど、きっと大人になっても忘れないだろう。

    歌ったという記憶はなくならないだろう

    そんな種類の歌だと思う。



      ゆうやみ せまる くものうえ

      いつも ひとりで とんでいる

      たかは きっと かなしかろう

      おとも とだえた かぜのなか
     
      そらをつかんだ そのつばさ

      やすめることは できなくて


      こころを なにに たとえよう

      たかのような このこころ

      こころを なにに たとえよう

      そらをまうよな かなしさを


      あめの そぼふる いわかげに

      いつも ちいさく さいている

      はなは きっと せつなかろう

      いろも かすんだ あめのなか

      うすもも いろの はなびらを

      めでて くれる てもなくて


      こころを なにに たとえよう

      はなの ような このこころ

      こころを なにに たとえよう

      あめに うたれる せつなさを


      ひとかげ たえた ののみちを

      わたしと ともに あゆんでる

      あなたも きっと さびしかろう

      むしの ささやく くさはらを

      ともに みちゆく ひとだけど

      たえて ものいう こともなく


      こころを なにに たとえよう

      ひとり みちゆく このこころ

      こころを なにに たとえよう

      ひとり ぼっちの さびしさを


      
             テルーの唄
             唄 手嶌葵
             作詞 宮崎吾朗
             作曲 谷山浩子




    ひしひしと、ココロにくる。

    いい詩デス。

  • ジブリの中で一番好き!
    台詞のひとつひとつが心にぐっとくる。

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