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- / ISBN・EAN: 4933672235752
感想・レビュー・書評
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はたから見たら幸せそうに見える人でも実は…という人生の真理が明確な形となった作品。 観終わって、「ああ、人生を描いた作品だな」と本当にしみじみ思った。
豪華な映像美と設定の中で上流階級の享楽と堕落を描いているようで、その実、どうあがいてもその外側にいるしかない生身の人間の、矮小だけど現実的な人生と心理をすくい上げていて、ものすごくリアル。
望むような作家にはなれず、新聞社に勤務しながらカメラマンのパパラッツォと共に有名人を追い回して下世話なゴシップ記事を書いている男マルチェロ。
彼はそのコネクションと快活さを活かして、貴族などの上流階級や成金に混じって乱痴気なパーティーや女遊びに精を出し、享楽的で退廃的な生活を送っている。
けれども、彼を取り巻く現実からは逃れられない…。
彼の属する階級には不釣り合いな人々と交友し、一見すれば華やかな生活を送っているように見えるマルチェロ。
けれどその実、作家としては大成する見込みもなく下世話な仕事を続けているし、(彼の身勝手さのせいで)恋人のエンマとは喧嘩ばかりしているし、その間にも田舎の村に住む親は明らかに老いているし…。
マルチェロの鬱屈した心理は、台詞等の明確な形では表されていないのですが、表情や間合いにものすごく滲み出ています。
プライドの高さなのか、はたまた現実逃避なのか、彼は決してその胸の内を誰にも語らないのに、ふとした瞬間にそれが滲み出てしまうのも、すごく生々しい。
そして、マルチェロが嫉妬といっていいほどに羨んでいた友人に起こった終盤の予想外な展開には、これぞまさに人生…と思わされました。
フェリーニうますぎるやろ、と思わず唸ってしまったくらい。
人のことは本人以外の他人にはわからない…いや、むしろ本人含め誰にもわからない…という人生において出くわす真理を描いた真骨頂、という感じの作品です。
あまりに単調に進む作品なので評価は分かれていますが、人生における鬱屈した感情と他者には窺い知れない内面をがあるという真理をうまく形にしている点で、個人的にはかなりオススメ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
よく行くTSUTAYAさん、フェリーニ作品は『道』『甘い生活』『8 1/2』しか置いてません。
なので『8 1/2』から遡って観てます。
DVDにちょっとだけ解説がついてて、それによると
この『甘い生活』以降はフェリーニの作風が変わったと。
『8 1/2』は長編としては『甘い生活』の次の作品なんで、
このふたつは姉妹編的な印象がありました。
『8 1/2』がわかりにくい、難解ってレビューが多いけど、
この『甘い生活』の方が個人的にはわかりにくかった。
というのも『8 1/2』は私小説なんだけども、
『甘い生活』は素描、スケッチとか叙景詩なんですよね。
だから一本筋の通ったストーリー性は少ない。
各エピソードで情景を描いてるのみ。
エピソードそのものは面白かったです。
ばらばらなエピソードを描く手法は『8 1/2』とも共通するんだけど、
この作品では延々とデカダン、退廃的。虚飾や虚無感が描かれてる。
マルチェロさんはこの映画では最後の方かなり非道いです(笑)。
『NINE』で「モテてない!」って書いたけども、
「モテてる」って感じた人はこれ観ればいいんじゃないかと。
そういう人の感想にはこっちの映画の方が沿ってます。
パパラッチも出るし。
フェリーニ本人としてはアニタ・エクバーグ、
巨乳のスウェーデン→アメリカの女優ですけど
この人が重要だったらしいですが、ひとっつも魅力を感じません!!
で、『8 1/2』もそうだったけど、ストーリーがどうのこうのよりも
感覚で「この人かわいい!!」ってのが重要だと感じたので、
その面から書いた方がある意味正しい観方、感じ方ができるのではないかと。
途中、インターミッションがあるんです。
(これもエピソードなんだけど)
他のエピソードは全部退廃的なんですけど、
ここが唯一ホッとするところなんです!!!!
まさにインターミッション。
ここに出てくる少女、ヴァレリア・チャンゴッティーニさんという人らしいんですが、
超かわいいの。
そう思いながらラストまで観ると「ああっ!!」ってなりました。
彼女がこの映画の真のヒロインですね。
彼女が象徴してるものが救いであって、
退廃や虚飾にまみれたこの映画の唯一の希望の光。
トータルで見ると『8 1/2』の方が好きなので、最初は★3にしたけど
ニコ!!!!!!本人!!!!!が出てるので★1つプラスしました(笑)。 -
フェリーニ監督30代最後の作品。シンボル的なもの ー 冒頭の空飛ぶキリスト像、ラストの打ち上げられた怪魚。3人3様の女性 ー 享楽的なグラマー女優、退廃的な富豪夫人、一途さゆえに情緒不安定な恋人。この配置がフェリーニの眼に映った「ローマ」そのものなのでしょう。そして、天使のようといった少女の声が届かなかった主人公は、(お菓子のように)甘い生活に戻っていきます。まるで(砂糖)依存症。マストロヤンニは“はまり役”でした。
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いつか観るリストに載っていたので観てみた1本。上流階級な有名人のインテリジェンスとは程遠い感情的な生活と、それを追いかけ回すパパラッチの様子。。観ていてこういう生活はどちら側でもしたくはないなと思いました。パパラッチの語源はこの映画なんだそうですね。過剰な演出だけど、あれは嫌だな~と感じました。人の人生をおいかけ回して日々の糧を得るくらいなら、自分の人生を生きたい。そして世界に問題は山積しているのに、自分が王様の世界しか見ようとしない人たちにも「それでいいの?」と思いました。社会の実像とはいえ、もうちょっと何かできることはないものか。。
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親父がローマに上京してきたシーンは『東京物語』を思わせる。
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婚約者が自殺未遂はかり、いつも喧嘩してるけど浮気をやめない記者のマルチェッロ。パパラッツォ達の容赦なくエゲツない有名人や事件への取り立て方や、頽廃した人々を描く。
とにかく主人公くずだったなあ…将来を心配する割に刹那主義でそんなんで永遠に幸せになれんのだろうな -
観ているうちに一度観ていることを思い出した。
10代で理解するのは難しい映画だったに違いない。
マルチェロ・マストロヤンニが若い。
一つ一つのエピソードに強烈なものを感じる。
どれも何か言いたげだがつかみどころがない。
そしてこの映画のもう一つの主役はパパラッチたちだろう。
この映画から命名されたこの相性は、
決していい印象を与えるものではない。
そして今も変わらず甘い生活に群がり、寄り添い続けている。 -
古い作品だった…ので見るの辞めようかと一瞬思ったけど、録画したんだしと見たけど見なきゃよかったな…。
何を描いているのが全然掴めなくて楽しめなかった。
記者を仕事にしている男性が女優たちと関係を持ちつつ、交際相手と痴話喧嘩する話。
体の関係を持ってみたり、女優とドライブしたりと確かに「甘い」生活をしているようだけど、交際相手とこのまま続けるか悩んでいるうちに家族を持っていた友人(だったのかな?)が子供ともども自殺してしまう。
それをキッカケに仕事を変えたらしい?主人公は金持ちの家に同僚たちと乗り込んで無茶苦茶して終わり。甘い生活とは…?
最初から浮気しまくったり好き勝手生きてる男だから、自棄になっているのだろうけど無茶苦茶する内容がまた腹が立つ。
冒頭のマリア様を運ぶヘリの意味が分からなかったけど、後半にマリア様を見た!という子供が見たのはこれだったのかな?
でも音が大きくて回りも気がつくよね… -
宙吊りにされたキリスト像がヘリコプターで飛んでいく。神聖なる普遍が喪われたこの映画に一貫したストーリーはない。悲劇でも喜劇でもない。この甘い生活は、砂糖菓子よりもずっと甘くて、退廃的で、饐えた匂いがする。崩落の一途を辿るだけの、身を滅ぼすだけの享楽。
マルチェロは、少女の処へは行けない。 -
やっぱりこの映画好きだー!!マルチェロを中心にして、それぞれのキャラクターの関連性が薄いストーリーの積み重ねはリアルに感じたし、退廃美の描き方が直接的な言葉よりも、映像だったり衣装だったりの感覚的なところで表現してるところも好きだー!雰囲気もカッコイイ!
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表面的には明るいんだけど、どこまでいっても中身のない、退廃的で夢に似たイメージが頭に残る。
人生自体からは誰も逃れられないし、そこがただの空虚と感じてしまえば、終わることのない悪夢なのかもしれない。
天使のような美少女が、甘い生活の向こうから何かを語りかけ、こちらに微笑みかけるラストシーンは、メタフィクショナルで非常にスタイリッシュ。綺麗に締めたなって感じ。 -
タイトル通りの映画です。魅力的な女性と遊んだり、色んな場所に行ったりする主人公の生活を描写していて、ストーリー性は薄い。当時は革新的な映画だったのでしょうが、時代を越えて胸にくるという感じではない。
名作と呼ばれる映画を観ると、映像は本当に素晴らしいんだけど、ストーリーがなぁ…っていう作品が多い気がする。 -
『道』の次に観たフェリーニ監督作。映像と女優(特に、アヌーク・エーメ)が美しい。モノクロ写真の教材になりそう。ヴィスコンティ監督作の『山猫』等も観て比較したい。ラストシーンの浜辺の少女が印象的。
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製作年:1959年 製作国:イタリア=フランス 時間:185分
原題:LA DOLCE VITA
監督:フェデリコ・フェリーニ
(4.5点) -
午前10時の映画祭にて1年越しの2度目鑑賞。
最初見たときはとにかく頭の整理が追いつかないしフェリーに的映像魔術性がまだ未熟な作品なのかなぁと思いましたが2度目の鑑賞にてなんだちゃんとストーリーとして起承転結繋がってるじゃないかと思いました。
それ以降の「ローマ」や「サテリコン」に比べればそれぞれのシーンはしっかり繋がってますよね。
それでもやっぱりフェリーニの映画は考えるものじゃなくて感じるものだというのは確かのようです。
ただ次作の「81/2」の方が個人的好みです。
どちらもフェリーニの自伝性の濃い内容となっていますが本作はフェリーニ初期のリアニズモ性と映像魔術性とが半々に微妙にかみ合っている意味である意味バランスの良いフェリーに映像だと思います。
なんだかんだ言いつつも実際のところ出番は短いのにポスターにもなるアニタ・エグバーグのドレスからはみ出そうな程デカイ胸のインパクトはすごいよね。 -
「死にたいなら死ね。死なせてやる」にキュン
「聞こえないよ」 -
退廃したローマ上流社会が描かれている。1960年カンヌ映画祭グランプリ受賞。
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最近のミステリー映画やサスペンス映画を見慣れているせいか、「なんでこうなるの?」という疑問が解決しないままストーリーが前に進む。いわゆる難解な映画だった。
この作品を知ったのは村上龍の小説内で、主人公がこの映画を見て「誰かに何かを伝えることに、はじめて敬意をもった」という風な台詞があったからだが、自分にとっては、正直あまり、直接的には伝わってくることがなかった。
登場人物の一人が「皆、将来のことを考えすぎる」と言うシーンがある。これに似た言葉を、村上龍が語っていたのを記憶しているので、おそらく氏は、この映画からそういう考えをエッセンスとして得たのだろう。
その台詞を語った登場人物は結局自殺という選択をする。あくまで推測だが、おそらく「将来のことを考えすぎた」のだろうと思う。今、ここ、という概念を捨て、将来に思いを巡らせすぎたせいで、何もかもに絶望してしまったのだ。
彼とは対称的に、主人公はなお一層自堕落な「今、ここ」だけの生活に埋没していく。そこにあるのは拘束的な自由で、そのことを、本人は気づいていない、ように見える。
色んな解釈が出来うる、映画らしい映画なのかもしれないが、今の日本(少なくとも自分のまわり)では、あまり「売れない」映画なんだと思う。何かを伝える、何かを表現する、というのは本当に大事で、それがなくなると作中の主人公のように色んなものに埋もれていってしまうとは思うが、それもしっかりとしたコンテキストの中でこそ映えるものなんだろう。
フェリー二自身が本当に伝えたかったことではないかもしれないが、何か大切なことに気づけた作品のように思う。 -
10年ぶりくらいに観たけれどやっぱりすごい。何が面白いのかと訊かれたら、それぞれのシーンが面白いとしか言いようがない。
改めて観直してみて、壮大な遊園地かあるいは迷路に迷い込んだような心地になった。
ただ、いくつもほの暗い穴があいていて、その穴は死へと通じている。一言では言えないがそんなイメージを持った。
観ている途中でそう思って、直接的な死の場面を気にしながら観ていたら、「マルチェロの知り合いの自殺」と「網に引っかかった巨大エイ」、この2つだけだった。でもこの明らかな死でさえ、サーカス的な雰囲気によって徐々に覆い隠されていく。その過程が面白かった。
ある意味、やけくそに人生を肯定している映画。だから観終わったあとで元気がわく。