石の花 全5巻 完結セット(文庫版)(講談社漫画文庫) [コミックセット]

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  • 坂口尚の人間に迫る長編三部作のひとつ。
    VERSIONが自他から迫ったのに対して、こちらは生死から迫る。どちらにしても、人間には同じくらい重要な問題であり、坂口さんがずっと考え続けてきたことなのだと思う。まったく違う切り口の作品なのに、貫かれているスタンスは変わっていない。彼の精神がこのマンガの中でちゃんと息づいている。
    戦争とはひと殺しである。ひとの死なない戦争は戦争ではない。もし、ひとの死なない戦争があるとするなら、それは戦争として成り立たないだろう。民間人を絶対殺してはいけないとか、文化財は絶対壊してはならないや、捕虜は絶対安全に扱わなければならないというのが戦争にあるなら、それはただのゲームであって、戦争ではない。戦争である以上、どんなひとも、どんな場所も、どんなものも侵略される可能性はあるたとえ降伏したって、それを無視して殲滅されることもあるのだ。そこにルールも決まりもない。徹底的に破壊しつくした方が勝ちなのだ。
    戦争で目指すべきは、したがって、効率的な破壊というものに焦点が置かれる。兵器というものはおおよそ、そんな風にできている。兵器を生みだし、扱うのはもちろん他でもない人間である。人間もまた、戦争では効率的な破壊を求めて動き考えなければならない。
    ところが、人間はどういうわけかそれを拒むのだ。相手が自分に向かってくるから相手を殺さないと自分が死ぬ。けれど、どうしたってそれが恐ろしく、また苦しくて仕方ないのだ。どちらも、同じ人間の裏表なのである。
    これを臆病だとか劣等と呼んで、それを徹底的に排除したのがあのナチスである。ナチスは殺したくないと思うその気持ちを生じさせないために、自他の個別性をとにかく排除した。相手も自分もただのものと思わせた。また、強いものが弱いものを蹂躙するという人間の論理ではないところに訴えかけたりした。
    軍人という職業はそもそもこういうものである。敵が向かって来れば黙って引き金をひき、相手を殺す。相手が誰であるとか、自分が誰であるとかは考えてはならないのだ。ところが、軍人もひとである。どんなにあがいても、どんなに耳を塞いでも、自分の底から湧きあがってくるもうひとつの声を感じてしまうのだ。
    ひとを殺すということにかけては、何も兵器だけの特権ではない。収容所の中だって同じである。限られた食料や資源を巡って、自分が死なないように、誰かを貶めてガス室に送り込ませる。それは自分が生きたいからだ。けれど、そんなことはできないとかしてはならないという声は必ずどこかでしている。
    物語の中では、このせめぎ合うふたつの声の中を、主要な人物たちがそれぞれに戦っていく。クリロはゲリラとして。フィーは収容所の中で。イヴァンとマイスナーは情報戦の中で。
    クリロはゲリラとして、そのどちらも等しく人間であるということに気づき、悩む。年は16歳。従軍経験はない。ひとも殺した。誰かを自分のために死なせた。そうして彼は生き残った。誰もが戦争なんて嫌だと言いながら、どうして今もまだ続けているのか。純粋に彼は職業軍人たちに反抗する。どんな大義名分があろうとも、こんなのおかしいと。それは軍人の否定に他ならない。だから隊長に蹴り飛ばされるし、上官に青二才と言われる。
    フィーは収容所という環境の中で考える。彼女はクリロと異なり、自らひとに手を下すことはなかった。けれど、目の前でひとはばたばたと死んでいく。自分の代わりに誰かが死んでいく。自分が生きるということ自体、誰かの死を意味する。彼女の場合、クリロとは異なり、反抗という積極的な形ではなく、一種の忍耐を持って挑む。
    そうして彼らは「信じた」。信じるということは委ねるということである。彼らは自分から湧き出る声に、戦争に抗うこの自分を信じてそれに未来を委ねた。
    一方、マイスナーの方はクリロとは異なり、年齢もおかれている状況も異なるため、また違ったやり方で挑む。こちらサイドの方がより形而上的な側面が強い。マイスナーは大いなる、絶対的な力こそ必要でそれらを育て、守ることこそ大切なのだと説く。向ってくるものには容赦なく制裁を与えなければ、それは力ではない。彼にとっては、それがたまたまがナチスであり、ヒットラーでありゲルマン民族であったに過ぎない。ある意味で、クリロたちとは逆のところから、彼はそれを信じてそれに自分のすべてを委ねたのだ。残念ながら、友人のイヴァンはそんな彼を最期まで理解することができなかった。
    永久平和はただの夢物語なのだろうか。そんなことない。殺さないといけないと思うのも、殺したくないと思うのも、偏に同じ人間なのである。ひとを守りたいと思うのが人間性であるなら、その人間性というものを棄ててひとを殺すのもまた、人間性である。なんと同じものの裏表だったのだ。これこそ先生の「みつめるまなざし」である。ギューム老人なら「みつめ返し、のみこむ」のである。それはどこにでもあるから、どこにもない。まさに生きて死ぬという事実の中にある。クリロはそれを、「創る」ことと言った。マイスナーならそれを「壊す」ことだと言うだろう。それは銃を握らなければならない現実で、銃を棄てることのできる力であり、発砲することのできない現実でためらわずに発砲できる力でもある。
    戦争をなくすための原則は簡単だ。それはすべての人間が、戦争なんて価値のないものだと「思う」ことである。ほんとうに戦争をなくしたければ、戦争の悲惨さだとか恐怖に訴えるよりも、その無価値さをひとに説かねばならない。恐怖に訴えたところで、ひとはクリロにもマイスナーにもなれてしまうし、フンベルバルディンク先生にもギューム老人にもなれてしまうのだから。
    戦争はひと殺しである。戦争の価値がここにあるのなら、ひとを殺すということはいったいどのような意味を持つのか、それが問われなければならない。存在とは、それ自体が不滅のものであると同時に、滅びが予定されているものである。誰かを殺したところで、そのひとが存在したという事実は真に消し去れない。誰かを殺して何かを奪い取っても、それは自分のものには決してならない。そして、どんなにひとを殺して栄華を極めようとも、必ず滅びるのである。なんて無常なのか。
    さて、この物語はここで終わってしまうが、坂口さんの突き詰める問いに終わりはない。問い続け、それを物語として書き続ける、その生き方こそが彼の問いに対する答えであるのだ。

  • 今は文庫版が出ていてお求めやすくいいですね。
    私が買ったときこの作品は完全な単行本で、26巻くらいあったように覚えています。

    最初にしか出てこない先生が、ずっと後まで尾を引いて心にのこってゆくというこの本の設定自体がまさに神設定。
    ストーリーは重くのしかかりますが、作者の画力と話の運びでスラスラと読めてしまいます。
    初めて読んだ坂口作品でしたが、大傑作です。
    何度読んでも素晴らしい。

  • 香港・台湾はもとより、海外、特にヨーロッパで高く評価されてて、多数か国語に翻訳されていてアーティストとして扱われている日本の漫画家がいると知って、しかもそれが手塚治虫の一番愛したお弟子さんで、アニメ「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「火の鳥」はじめ、原作のほうの「火の鳥」も一部任せていた人で、柴門ふみや石坂啓をプロを目指させた人だと知って、ミーハー心から読んでみました。

    1941年、ナチスドイツがユーゴスラビアに侵攻。
    5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ、1つの複雑な国ユーゴの少年が見た戦争下の人間像が描かれていて、いい作品だと思いました。
    文学賞に相当する内容だし、映画化されてもよさそう。
    ヨーロッパでのアーティストとしての評価は確かだと思いました。

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著者プロフィール

坂口尚(さかぐち ひさし)
1946年5月5日生まれ。高校在学中の1963年に虫プロダクションへ入社。アニメーション作品『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』等で動画、原画、演出を担当。その後フリーとなり、1969年、漫画雑誌「COM」誌に『おさらばしろ!』で漫画家としてデビュー。以後多くの短編作品を発表。アニメーションの制作にも断続的に携わり、24時間テレビのスペシャルアニメ「100万年地球の旅 バンダーブック」「フウムーン」等で、作画監督、設定デザイン、演出を担当。1980~82年、代表作の一つとなる『12色物語』を執筆。1983~95年にわたって、長編3部作となる『石の花』『VERSION』『あっかんべェ一休』を発表。1995年12月22日逝去。1996年、日本漫画家協会賞 優秀賞を受賞。

「2019年 『坂口尚 トム=ソーヤーの冒険』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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