ベンジャミン・バトン 数奇な人生 [DVD]

監督 : デビッド・フィンチャー 
出演 : ブラッド・ピット  ケイト・ブランシェット  タラジ・P・ヘンソン  ジュリア・オーモンド  ジェイソン・フレミング  ティルダ・スウィントン 
  • ワーナー・ホーム・ビデオ
3.56
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本棚登録 : 2196
感想 : 300
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  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988135804396

感想・レビュー・書評

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  • ラストに近づくほどに泣きました。
    何で今まで見なかったんだろうなぁ……。
    そして、「ベンジャミンバトン」の「バトン」を姓だと思ってなかったので、「あ、タイトルそのまま名前なのね…」ってなりました(汗
    生まれた時に老人で……ってあらすじ観てたので、サイズ的な問題はどうなんだろうとドキドキしていたらその変は普通に赤ちゃんサイズで「やっぱりそうだよね」って変にホッとしました。
    周りの人がどんどん年を取っていく中で、一人だけ若返っていく孤独感っていうのは想像もつきませんが、女性としては老いていく自分と若返っていく恋人を見るのはなんとなく想像できるような気がします。
    たぶん男性よりも女性のほうが老いに対する恐怖みたいなものが強いのかもしれないですね。
    お互いに愛し合っていても、一緒にいる事がつらくなったり、現実的な問題に悩んだり。
    孤独に生きているベンジャミンに切なくなったりしましたが、最後はちゃんと愛する人のそばで逝けて幸せだったんじゃないかな、とそこが救いでした。

  • 3度目くらいだろうか、観るのは。
    人生について深い部分で考えさせられる、色褪せない名作。

    どんどん若くなるベンジャミンと逆に(というか普通に)ちょっとずつ老けていくデイジー

    終盤はそのせつなさとやるせなさに胸が痛み、感涙。
    ブラピとケイトウィンスレット、最高のペアでした。

  • 80歳で生まれ若返っていく男、ベンジャミン・バトンの人生を通し、恋・結婚・出産・出会いと別れ・希望と挫折など、普遍的な人生の素晴らしさを描いた感動巨編。
    ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェットほか出演。 船での仕事、最愛のデイジーたちとの様々な出逢いと別れ、新しい経験、人生という冒険の旅をユニークに描いた映画です。

  • 老人の姿で生まれてきて、だんだん若返ってゆく男の物語。・・というのは映画が公開された時のCMで知っていたが、実際の本人が一番つらいのだろうが、まわりの家族、愛する者もつらいものがあるんだなあ、というのが分かった。夫婦になった相手が若返ってゆく、我が身は年取ってゆく。映画で一番つらかったのは、子供と自分の関係。子供には共に年取る父親が必要だ、この場面になって涙が出てしまった。

    ベンジャミンが捨てられた老人ホームに、ピグミー族の男がやってくる。彼も見世物になったりしてなかなかにハードな人生を送ってきたのだが、白人黒人デブにノッポ、みんな人間はひとりなのさ、とベンジャミンに言う。この場面もなかなか印象に残った。

    原作がフィッツジェラルドの同名短編だと知って驚いた。読んでみたい。時代背景は原作は南北戦争後らしい。


    2008アメリカ
    2022.11.23BSプレミアム

  • 思ったていたよりずっとずっと静かな話。

    『数奇な人生』というタイトルの通りだった。
    こんな風に生まれなければきっと、と思い、
    共に生きていくことができない二人を不幸に思ったが、
    子供にかえり、最後の瞬間を一緒に過ごせた二人はしあわせにみえた。

    映像がすごくきれい。

    2014/10/2

  • 1900年代のアメリカ。南北戦争か第一次大戦かの死者の時間が戻るようにと作られた、「逆さに進む時計」とともに生まれたベンジャミンは「80歳の老人の赤ん坊」として生まれ、成長するにつれて若返るという設定。
    その中で、彼は老人ホームから、外の世界を知り、他人を知り、女を知り、海を知り、恋を知り、戦争を知り、金を知り、父親を知り、そして、また次々と別れを知る。
    3時間近くの大作で、画面を観ながら、思わず自分自身の人生と重ね合わせて、「人生」を想ってしまった。フィクションであるにも関わらず、やけにリアリティがあり、ベンジャミンが老人で生まれ、赤ん坊で死のうが、そんなことはたんなるオプション(付属品)でしかないのである。
    きっと、多くの視聴者が、それぞれの立場から、ベンジャミンの存在を通して、自分の人生の「時間」を投影して意識したのではないだろうか。
    私は、日本生まれの20代中盤なのだが、やはり一世紀前のアメリカ生まれの彼の人生に何か不思議な「重ね合わせ」を意識せざるを得なかった。
    それは、どういう意識か。
    「これまでいろいろな出会いもあったし、別れもあった。そしてこれからも。」ということ。そして、すべてを引きとめることはできない。すべては、出会いと別れの連続なのである。
    そういうことを想うと、切ない気持ちに駆られる。
    数え切れないほどの様々な思い出が脳裏によみがえる。小学校時代、友人と遊んだこと、はまっていた漫画、勉強ばかりしていた頃、部活で一緒に走っていた仲間や、教員の存在や、考えていた事。学校の空気。
    ふと高校時代のアルバムを見返してみたが、そんなものがいろいろとよみがえってきた。
    しかし、「今」それらは「記憶」としてしかないのだ。また、それらはすべて、そう、すべて「忘却」へと向かっている。
    今、私自身、小学校時代の友人も、中学校時代の友人とも、全く会っていない。あれだけ、あの時は仲良くして毎日話していたはずなのに。
    高校時代の友人と会うのも年に一度あるかないか。
    そういえば、小学校時代好きな子がいて、中学校に上がる時に離れ離れになってしまった。中学校に上がってからというものその子のことが忘れられなくて、ひと目でもいいからもう一度会いたいと狂おしいほどに想っていて一日たりとも忘れたことはなかったということがあった。大学に入り、SNSで再開したら、その子はあっさり大学で素敵な相手を見つけていて、それまでに何人も振っては別れなんていうことを知って、「今までの俺の求めていたものは何だったのだろう」と肩透かしをされた気持ちになった。
    そういや、高校時代チャットで何時間も盛り上がって、自分のことを一生忘れない!と言っていたあの子は今もそのことを覚えているだろうか。
    あるいは、ある組織を通じて、徹夜で夜通し語り合えた仲間とも、その組織の腐敗と同時に連絡も取らなくなってしまった。哀しさも、時とともに薄れていった。

    ベンジャミンのパートナーであるデイジーの成長と彼の成長は、いわば「肉体年齢」的には、「入れ違い」の形となる。
    時が経つ中で、愛し合ったり、気持ちのすれ違いを経験していく二人は、「永遠」というものを問いかける。つまり、永遠を人は求める存在であるということである。
    ベンジャミンの生まれ育った老人ホームでも、どんどん人が亡くなっていく。その家の空気も雰囲気も変わらないのに、なぜかすべてが変わったように思えるのだ。なぜか、一番変わってしまうのは「自分」だからなのだ。

    人生とは何か。
    それまで、腕の中で眠っていた赤ん坊が、立ちあがりじゃれつくようになる。無邪気に笑っていたものが、生意気になり始め、徒党を組み大人に立ち向かう。彼ら、彼女らは、恋をし、あるいは悩み苦しみ、あるいは学問を身につける。昔は冗談さえ言って笑ってさえいればよかったものを。
    酒を覚え、金を稼ぐことを覚え、裏切りや、信じることも学習していく。熱く生きることもあれば、すっかり冷めてすべてを斜めに見てなにも掴まないまま淡々と生きていくことも。
    やがて、家庭を持ち、自分自身に子どもが出来るということはどういうことだろうか。
    自分の肉体から生まれたものでありながら、自分とは違う「人格」をもった存在を育てるとはどういうことか。
    そして、老いるとき。人生の半分を過ぎ、死へと向かう時のしわだらけの肉体を持ちながら巡らす想いとは、そこから見える景色とはどのようなものなのだろうか。

    何もかもが灰色で、10代の頃には見えなかったもっとよい景色が、20代の今見えているような気がする。
    ベンジャミンにおいては、肉体は若返る一方なのだが、精神においてはそれの違和感はそこまでではない。なにか、奇妙に合ったものなのだ。

    何もかもが不透明で答えが見つからず、がむしゃらにあがいていたところから、幸せの法則を見つけて、少しは「自分の過ち」が分かって、多少はうまく立ち回れるようになった気もする。
    「すべては変わっていくものだ」「流れていくものだ」ということを、噛みしめながら平和な心で受け入れることが出来るようにもなった。

    人生で大切なことは、「愛すること」、いい方を変えれば「人を大切にする」ことなのだと思う。しかし、それが思うように行かないから、人はそこに空しさを感じたり、苦しみを覚えたりする。

    もうひとつのこの映画のテーマは「忘却」なのではないかとも思う。
    人生とは「出会い」であり、自分を作ってきたものは実は「他人」の存在に他ならない。
    ベンジャミンは死ぬ間際に、自分の出会ってきた人すべてを思い出すが、やはり人生とは「出会い」なのだろう。
    ところが、痴呆になり、「記憶」をなくし、最愛のパートナーの名前すらも忘れてしまったベンジャミンとは、「何」なのだろうか。
    デイジーは彼を心に留め、記憶しているが、ベンジャミンの中には彼女は生きていない。
    仮に、老ベンジャミンのもとにデイジーがおらず、彼自身自分が誰かわからないばかりか、彼を知っているものが誰ひとりとしていなければ・・・。それは、「人生」ではないのかもしれない。

    永遠なものは、何一つない。すべては忘れ去られ、そして消え去っていかざるを得ない。
    その中の「永遠」って何だろう。永遠は、きっとたんなる「変わらずに無限に続く時間」というよりも、すべてが変わっていく中で、いや、変わるからこそ、決して変わらない何かなのだろう。かなり深いようだけれども、少しずつ分かるはず。
    人間の本当に求めるべきもの、そして、人生の軸を置くべきものは、きっとこの「永遠なるもの」に他ならないのだと感じます。

    人と人は、「別々」なのですが、「生きる」ということは、きっと「他人の心に認められる」ということなのだろうと思います。誰にも大切にされない、忘れ去られる、ということはきっと哀しいこと。

    そう考えると、「私」というのは、膨大な過去からの数え切れない人の「心」の繋がりによって生かされているわけなので、覚えているものも、覚えていないものも、愛や心のあるものすべてをしっかり、自分の「心」で受け止めたいものですね。
    そして、私の存在を誰かが大切に思ってくれて、何年も忘れないでいてくれたら、そして、死ぬ間際に少しくらいは思い出してくれたら、すごく嬉しいだろうなあと思います。

  • 15年前の映画。

    若い頃は自分が年取るなんて、
    朝起きて身体が痛いなんて、
    近くの字が読みにくいなんて、
    長く眠れないなんて、
    思いもしなかった〜っっ!
    年取るのってなんだか暗い気持ちになるけど、
    今更人生やり直すのも面倒くさいし、
    いいです、このままで。死ぬまで頑張ります。
    明日までかもしんないしね。

    ベンジャミンは、小さく、可愛くなってくのに
    認知症なんだよ。
    大変じゃないですか?愛おしくないですか?
    晩年一緒に過ごせて、大切なひとをこの腕の中で看取れるなんて、別意味幸せじゃないですか。
    しかもあんなに愛らしい姿の彼を。
    でもずっと抱っこできる体力がないと無理でした。

    幼い時、人生の大先輩のなかで育つのは、なかなか勉強になるかもね。
    お年寄りの話は面白いし。寛容だし。
    ベンジャミンは不自由から、ひとつひとつ自由を手に入れて、先輩たちの教えを糧に、自分の人生を大切に生きていくことができたのかしら。若さを手にしていくけど、心はどんどん孤独になっていく‥。やっぱり、熟すというのは、見た目も心も正比例が良さそうですね‥。長く生きると心も疲れちゃうんですよ。何事も自然がいいですね。

  • ただの泣かせにかかった話かと思ったら、愛溢れる人生映画だった。それとブラピってこんなに格好良かったんだね。人生は素晴らしい。

  • たしかにちょっとしたタイミングで、
    それは自分ではどうしようもない原因で
    起こってしまって人生が変わってしまう。
    そうゆうことあると思う。自分の気付かないところで。


    初めフケ顔を見ていたせいか
    後半よりいっそうにブラピがイケメンに見えた。

  • 先日2012年のお正月映画としてTV放映されていたので、
    観るともなく観た感想。(あ、でもそういえば映画館でも観たな。忘れてた)

    これといって、
    中毒するほど好きな場面が頻発するような映画では無いのだけれど、
    ひとつだけ共感の嘆息を呼ぶシーンがあったので。



    ブラッド・ピット演ずる主人公ベンジャミン・バトンは、
    老体から子供へと若返ってゆく体質の持ち主。
    ケイト・ブランシェット演ずるヒロイン、デイジーは、普通に老いゆく体を持つ。

    ある時は、老年男性と少女であったり。ある時は、青年と中年女性であったり。
    時間の流れ方が違う彼らの並んだ姿はいつもアンバランスだ。

    デイジーが43歳になったある日、彼女はふと気付き、
    「あなたは1918年生まれだから、今、49歳ね」と、
    うっすら刻まれた皺のある顔や手、同等程度に年老いた2人の姿を眺めて言う。
    それを受けて、ベンジャミンはおもむろにデイジーを抱き寄せて
    「この姿を目に焼き付けておきたい」と鏡の前に佇む。

    ああ、そういうもんだよなぁ、と改めて思った。

    若返り続ける特異体質なんかじゃなくても、
    恋人同士でなくても、魂が誰かの隣にいられるのは、ほんの一瞬だと思う。
    例えば、幼少期だけなぜかウマのあった、当時ひたすら頼もしく眩しく見えたガキ大将とか。
    いつからかすっかり他人行儀になっていた親との、遠い日の短い蜜月期だったりとか。
    誰とどんなシチュエーションで関係性を結ぶにしても、
    どんなに親しかったとしても、どれほど近くにいたとしても、
    一見人生が併行に並んでいるように見えたとしても、
    実際には、ただ、刹那的に交錯しているだけなんだと思う。
    そういう普遍的な理りが、そのシーンには、
    特異体質というメタファーを借りて、織り込まれていたと感じる。
    だから、この場面には共感を覚える。『あれはわたしだ』と思える。



    でもこの話、そのあとの展開があんまり気に入らないんだ。

    主人公は、「若返り続ける自分は、デイジーとの間に生まれた幼い娘の
    良き父親にはなれない」と、さよならも言わずに立ち去る。
    そして放浪先から、娘宛の絵葉書を年に一度送るようになり、
    数年後、たった一度だけ、他人の振りをして母娘の前に現れる。

    なんか、子供っぽくてカッコ悪いぜベンジャミン。
    ずっと同じ関係で居続けたい。それが出来ないから逃亡する。
    でも、未練があるから、たまに、同じ関係を求めて手を伸ばさずにはいられない。

    人生が交錯するのは、たった1回だけじゃない。ほんの一瞬だけじゃない。
    魂が近づく角度は変わっても、何度かは近づけるかもって信じたらいいじゃないか。
    たとえ、2回目3回目の交錯の際、
    1回目のそれとは、関係性が変容していたとしても。

    その変容を受け入れる覚悟がないなら、もうコンタクトしようとしちゃいけない。
    そんな使い捨ての硬直したコミュニケーションするなよ。大切な人なら。

    誰かが隣にいるとしても、ただ一瞬交錯してるだけだ。それを飲み込め。
    交錯は、一回こっきりかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない。
    ただし、2度3度と交わりたいなら、関係や背景の変容を受け入れろ。

    そういう風に、ベンジャミンに小言を言いながら、
    自分を叱責して観た映画です。


    どうも気に入らないのは、
    腹が座っているように見えてはいけないはずのベンジャミンが、
    妙に達観してとても格好良く映ってしまうこと…
    たぶんブラピが演じているせいだろう(笑)

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