セブン [Blu-ray]

監督 : デビッド・フィンチャー 
出演 : ブラッド・ピット  モーガン・フリーマン  グウィネス・パルトロー  ケビン・スペイシー 
  • ワーナー・ホーム・ビデオ
4.04
  • (73)
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感想 : 60
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  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988135832306

感想・レビュー・書評

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  • ✲\† 5つの大罪を犯し終え… †/✲






     →(タイトルより続く)若手刑事ミルズを、最期の罪を犯す人間へと仕立て上げる幕引きは見事。


     ジョン・ドゥ(スペイシー)が総てを計算し尽くし犯してきた殺戮。それは咎められて然りにも関わらず、どこか崇高なものさえ感じてしまうのは何故だろうか。


     スペイシーの淡々とした表情や、落ち着いた“悟りの境地”に至っているような穏やかな発声の仕方は、まさに身震いさせらる程の怪演。


     サマセット(フリーマン)とミルズ、このふたりの刑事の“老若の対比”で展開していく捜査が興味深くて面白い。
     ブラピが何気に鈍感男、ややお馬鹿に描かれている。
    サマセットとふたりして廊下で待たされている間、長椅子でミルズが(ぱッカ~ン!)と大口を開けて爆睡状態に在る様に、それが表現されていて笑えた。


     フィンチャー監督は、シーンで雨を降り続けることに《世紀末を象徴させたかった》とのことらしい。

     その演出が本作の沈鬱で重たい、猟奇のイメージ効果を高めることに成功している。
     


     ミルズの妻トレイシーを演じたパウトロウの存在が、本作の中で唯一、穢れを知らない清らかな者として輝いているのが何とも象徴的。


     トレイシーがサマセットに相談を持ちかえるシーン、「実は孤独で居た堪れないの…」という心の叫びを吐露する彼女が傷ましい。
    見知らぬ地に付いて来て、刑事である夫の妻として、
    妊娠していることへの不安と喜び…

     そんな彼女のガラス細工のような心の叫びを、
    真摯に聞いてあげているサマセットが、大人の男としてひじょうに頼もしく素晴らしいと感じた。



     ■やがてミルズに
    “深い悲しみと激昂(憤怒)”が襲うーーー


     その日が、土砂降りとは打って変わり晴天となったことにも、監督が何か意図するものがあったのではなかろうか?と、ふと知りたくなった。


     ★実際のところ、このラストにあっては《別の終幕も用意されていた》らしいのだ★



     退職を間近に控えたサマセットが、若いミルズに成り替わり自らを犠牲にしジョン・ドゥを撃つ…
    それが、お蔵入りにさせた「別のラスト」だったらしく。


     ★フィンチャー監督いわく、
    「僕は、観た者に傷を残したいんだ」


     そういう監督の強い想いから、現行の終幕が選ばれたと聞いたのだが。
    この選択はこれで大正解であったように思える。



     ◆6番目の罪=『ENVY(嫉妬)』◆
     これ即ちジョン・ドゥ自身(幸福な者を妬む)であり、


     ◆7番目の罪=『WRATH(憤怒)』
     これ即ちミルズ(最愛の妻を殺害された)だったのだ。


     
     引き金に指を掛け、自分の中の自分と猛葛藤するブラピの表情演技は見事の一語に尽きる!


     サマセットが心の中で、
         ヘミングウェイの言葉を呟く…


    『世界は素晴らしい、戦う価値がある』 



     彼が、〝後の部分だけを認める〟というこのエンド。

    刑事という職務に果敢に挑んできた"男の気概"を感じてひじょうに魅かれると共に、
    ストーリーから離れたところでもこの言葉の引用は、
    心に一石を投じられた。





    【追記】

     おぞましいシーンの多い本作品ではあるが、
    《一定周期をもって何故か再見したくなる作品》なのは、本作の持っている《特異な魅力》たる所以だろう。









     

  • 冒頭からただならない雰囲気に引き込まれる。ずいぶん昔の作品ですが、全く色あせない。サスペンスの傑作ですね。名優の競演もさることながら、この映像のセンスの良さは非凡です。フィンチャー監督の功績は大きい。

  • 猟奇殺人。キリスト教の「七つの大罪」をモチーフにした連続殺人事件の犯人を追う。この手の映画は、あまり気持ちのいいものではないけど、目が離せなくなってしまう。最後に・・・え~!!!

  • 噛み合わない2人の刑事が奇怪な殺人事件を追う、やや宗教色のあるミステリー・サスペンス。

    “噛み合わない2人の刑事”といえばコメディ色の強い作品を連想しますが、本作は重い内容です。

    アクション性がメインの作品ではないですが、ブラッド・ピットの銃撃シーンは迫力が感じられました。
    そしてモーガン・フリーマンが渋い!
    よかったらチェックしてみて下さいな♪

  • 想像通りの先にあるもの

    7つの大罪をモチーフに連続殺人行う凶悪犯を逮捕すべく、奔走する刑事二人。
    一人はまだ若く、感情で動くミルズ(ブラッド・ピット)刑事
    その相棒は定年を来週に控えたベテラン刑事サマセット(モーガン・フリーマン)

    海外ドラマ「スーツ」のような掛け合いが楽しめる前半。
    今まで出てきた中の誰が犯人なのか、それはわかるわけもない。

    大事なのは犯人じゃない。
    犯人の動機でもない。

    この映画の一番の見所は、誰が死ぬか、決められる「神」のような存在が居て、
    その存在を捕まえるのは一体どういうことなのか。
    運命を握っている人と、運命を変える人は違うということ。

    正直後半になるにつれ展開は読める。
    そして最後の決断がどっちであれ、起こった事実は覆せない。
    その選択をしたのは自分で、誰かのせいにしたって、何も変わらない

    その非情な現実を最高の演技で見せてくれる二人がこの映画を傑作にしたと思う

  • 学生の頃に観たのだが、久々すぎて内容を完全に忘れていた。そりゃ20年以上経てば忘れるか。
    というわけで、今回はじっくりメモを取りながら観た(笑)。ちょっと長いけど考察してみる。

    「七つの大罪」を題材にした変質的な連続殺人事件が起こる。
    物語は月曜日から始まり、日曜日に終わる。「Seven」には七日間という意味もある。
    退職まで残り1週間となったベテラン刑事サマセットと、この街に赴任してきたばかりのミルズ刑事が捜査に当たる。
    最初に発見された被害者はスパゲティに顔を埋めたまま死んだ巨漢だった。足を椅子に縛り付けられ、スパゲティを死ぬまで食べさせられていた。
    翌日、有能な弁護士グールドが殺されていたのが発見される。床にはグリード(強欲)の血文字が残されていた。
    肥満男の部屋からは、グラトニー(大食)と書かれたメッセージが発見され、サマセットはこれが「七つの大罪」になぞらえた事件だと直感する。
    Gluttony(大食)、Greed(強欲)、Sloth(怠惰)、Envy(ねたみ)、Wrath(怒り)、Pride(高慢)、Lust(肉欲)。
    サマセットは「七つの大罪」について書かれた『カンタベリー物語』や『神曲』を調べるのだが……。

    既に20年以上前の作品だし、ネタバレも何もないと思うのだが、念のため犯人の名前は伏せておく。
    全く救いのない結末に、当時はかなりの衝撃を受けた。
    衝撃が強すぎて、ラストシーンの印象しか残っていなかったほど。
    「七つの大罪になぞらえた連続猟奇殺人事件があり、ラストシーンの間際でブラッド・ピットの妻が殺される」映画だという印象しかなかった。ひとことで言うとまさにその通りなのだが、実際に見返してみるともっといろんなことが語られていた。

    舞台となる街は、ニューヨークのような都会だと思われるが、七日間ずっと雨が降っている。常に犯罪や事件・事故の騒音が続いている「ひどい世の中」だ。
    サマセットはこの街の騒音の中でメトロノームを鳴らしながら眠るが、ひどい事件の捜査を坦々とこなしてきた。
    この街に引っ越して来たばかりのミルズの妻トレイシーは、ひどい状態のこの街を憎んでいて、ここで子どもを産むことにためらいを感じていた。
    サマセットも昔、一緒に暮らしていた女性が子どもを身ごもったが、この街で生むことに反対して子どもを堕ろした過去を持っていた。
    サマセットはトレイシーに、子どもを堕ろすのであれば妊娠は内緒にしろという。そして、子どもを産むのであれば精いっぱい甘やかせてやれともいう。
    これがサマセットの自らの人生を振り返って生み出される言葉なのだった。
    一方、ミルズとは酒場で、無関心でいることが美徳だとされる世の中にうんざりしながら、無関心が一番の解決だとも思っていると語っている。
    事件を追い、証拠を集め、裁判になったときのために資料を集めはするが、犯人を捕まえるかどうかは別問題だというのがサマセットのこれまでの考え方だった。
    ひどい事件から距離を置いて、坦々とやり過ごす。それがサマセットがこれまで定年を迎えるまでやってきた刑事としての仕事だった。
    ミルズは純粋に、自分だけでも関心を持つと宣言し、犯人を捕まえてやると意気込む。帰宅後、ミルズはベッドに眠るトレイシーを後ろから抱きしめ、愛していると言い、サマセットはメトロノームを床に投げ飛ばして壊す。
    日曜日、プライド(高慢)の被害者の調査の帰りにサマセットは、引退を先延ばしにするという。ミルズともう少しコンビを組んで、犯人を捕まえるか、犯人が七人殺すかのどちらかだという。ミルズと犯人を追うことで、彼の中で確実に何かが変わり始めている。

    犯人の護送車の中での台詞を振り返ってみる。

    >>
    「この腐った世の中で誰が本気で奴らを罪のない人々だと? だが問題はもっと普通にある人々の罪だ。我々はそれを許している。それが日常で些細なことだから。朝から晩まで許している。だがもう許されぬ。私が見せしめをした。私のしたことを人々は考え、それを学び、そして従う。永遠にな」
    「君(ミルズ)は感謝しろ。この後人々の記憶に残る。いいかね。私が今ここにいるのは私が望んだからだ」
    「だが(ミルズは)何をした? 私とふざけてただけだろ? 5人の罪なき者を殺して罠を張ってたか? どんな明白な証拠を持って私に迫ってた? 私が自分で手を上げて来なかったら?」
    「私はお前のツラをブン殴った。わざと殺さなかったんだ。情けでな。鏡で顔を見るたびに思い出すがいい。今後一生。私のお陰で救われたこれからの一生を私は憐れみなどしない。皆神に殺されたソドムの住民と同じだ。神の行いは神秘だ」
    <<

    ここで彼が語る「普通にある人々の罪」とは何のことだろうか。
    それは、この街にはびこる数多の罪のことであり、それを許しているのは我々がそれに無関心でいるからなのだ。
    そしてそれは、サマセットの罪でもある。

    犯人が用意した「罪の贖い」が「死」であると捉えられがちだが、これはミスリードなのではないかと思う。
    連続殺人事件なので、当然のように「罪」を負う人は「死」を迎えているように思えるが、死んでない者もいる。
    罪人は皆、犯人によって脅されるか縛られるかして、否応なく罪を贖わさせられる。
    「大食」の巨漢はスパゲティを内臓が破裂するまで食べさせられる。
    「強欲」のグールド弁護士は、『ヴェニスの商人』の台詞になぞらえ、1ポンド分の肉を自ら切り出すことで死に至る。
    「怠惰」のビクターはベッドに1年間縛り付けられるが、結局死には至らない。
    この一件の後、犯人が特定され、家捜しすることになる。このとき、犯人はミルズと電話で話し、「今後の予定を変えることになった」と語っている。
    「肉欲」の娼婦は装身具に装着された刃物によって姦通される。このとき、ワイルド・ビルの皮革店で購入された器具が使用されているが、独身の男が装身具を付けさせられて拳銃によって脅されている。
    「高慢」の女性は、鼻をそぎ落とされ、醜い顔で生きることを選ぶか、睡眠薬を飲んでそのまま死ぬかを選ばせた。

    ここまでの「罪の贖い」をよくよく考えてみると、罪人は必ずしも死ぬとは限らない方法が取られている。
    彼にとっては「贖罪が暴かれる期間」は当然、重要なはずだ。それは「怠惰」が発見された日付がちょうど監禁してから1年後だったことに裏付けられる。
    「大食」だけで期日通り死ぬかどうかは運によるし、「強欲」も脂肪が多い男であれば死を免れていたかもしれない(まぁ普通に死にそうだが)。「怠惰」はついに死に至らなかったし、「肉欲」は独身の男が彼女を傷つけることを拒否して自らの死を選べば、彼女は死ななかった。「高慢」は助けを呼べば助かったかもしれない。
    そして重要なのは、犯人は彼らを「直接殺してはいない」という点である。

    そう考えると、「死」は必ずしも必要ではなく、「贖罪」こそが重要なのだ。
    ミルズが彼を殺すかどうかも不確定だし、トレイシーの死はミルズの「怒り」の原因であって「贖い」ですらない。
    結果として、ミルズが犯人を射殺したことで七つ目の死(トレイシーとそのお腹の中の子どもを入れて)となるのだが、お腹の中に子どもがいたことは犯人もそのときまで知らなかった可能性が高く、犯人が電話で話していたミルズの登場により変更された「予定」に入っていたとも思えない。

    「嫉妬」が「普通の夫婦生活に憧れた」犯人の罪であり、その「贖い」がミルズによる射殺であると犯人は語るが、ほんとうにそうであろうか。
    他の罪を負った者たちが自ら望まぬ「贖い」を強制されたのと異なり、彼の死は自ら望んだものなのだ。それが本当の意味の「贖い」と言えるのだろうか。
    「嫉妬」は本来「七つの大罪」の中でも大きな罪であるはずだが、ここでは他の罪に比べて弱いようにも思える。

    「怒り」は明らかに「妻を失った怒りに我を忘れたミルズの罪」だが、その「罪の贖い」は果たして何だったのか。先ほども書いたが、妻の死(ましてやお腹の中の子どもの死)は、罪を負う原因であって、「贖い」ではない。

    ミルズはここで、理性と怒りの葛藤に苛まれる。
    ミルズは悩んだ末に、犯人を射殺することを選択する。これは犯人が望んでいた結末だとも思えるが、果たしてそうだろうか。

    犯人の目的は自らの魂の救済である。

    「嫉妬」は、「普通の夫婦生活に憧れた」というようなものではなく、「罪」を背負った罪人たちへの「嫉妬」だったのではないかというのが私の考えである。
    彼は変質的なノートの中で「我々は何とくだらない操り人形だ。世を気にせず己を知らず性に興じる楽しさよ。道を外した我ら」と書いている。
    しかし彼は、人を傷つけることを楽しんでいる節はあるものの、「世の人々」を蔑み、ゲロを吐くほど嫌っている。「性に興じる楽しさ」を貪る「我ら」には、自分自身を含めていないのではないか。
    彼らを蔑む一方で、そのような奔放にこの世の生を享受する人々に「嫉妬」していたのではないか。
    その「罪」を自覚した彼が、自分自身の魂を救済して天国に導くために、「七つの大罪」を「贖う」儀式を考え出し、「怒り」によって他者から殺してもらう。自殺してしまうとキリスト教では救済されないが、誰かの手によって殺されるのであれば、それは自殺ではない(のだろう)。
    彼は、「七つの大罪」の全ての「贖罪」する儀式を完成させることで、自らの魂を天国に導こうとしたのだ。
    そのために、犯人はミルズの「怒り」によって射殺されなければならない。
    さらにミルズはその罪の「贖罪」に「今後一生」を捧げるのだ。それが、犯人が描いた儀式の完成なのだろう。

    では、ミルズは「怒り」の罪を負ったのか。

    確かにトレイシーの死によって、一度は怒りに打ち震えるが、彼の中には理性もあった。犯人を殺したところで妻は帰ってこない。ましてやお腹の中に子どもがいたことも知らなかった。そして彼女はそれをミルズに話していなかった。

    一方、サマセットは知っていた。だからこそ、犯人がそれを口にしたとき、サマセットは犯人を殴ったのだ。

    犯人が分署に出頭する直前、妻のトレイシーからの電話が署にかかっていた。ミルズはこの伝言を確認することもなく、犯人の出頭に応対することになる。
    この妻からのメッセージは何だったのか?
    トレイシーは、妊娠していることをミルズに伝えようとしていたのではないか。

    ミルズが犯人を射殺する瞬間、その表情に「怒り」はない。
    サマセットが知っていたことに気づき、なぜ自分に子どもができたことが知らされていなかったのか、考えたのではないか。
    その理由に気づいたとき、ミルズの中にはただただ、トレイシーへの愛と彼女を失った悲しみがあるのではないか。

    サマセットがミルズに語っていた。

    >>
    「人生に立ち向かうより、ドラッグに逃げるほうが楽だ。稼ぐより、盗んだ方が楽だ。子どもを育てるより、殴る方が楽だ。愛は努力と手間が要る」
    <<

    酒場ではミルズはこれに賛同できないと言っていた。無関心でいるよりも、感情に素直でいたいのだという。
    ミルズは射殺の瞬間、「怒り」ではなく、犯人がついに持ち得なかった「愛と悲しみ」という感情に従っているのではないか。
    「犯人殺し」の罪は背負っても、「怒り」の罪は背負わない、それがミルズの最後の選択だったのではないか。

    そしてそれは、犯人の「儀式」の失敗を意味する。「怒り」の欠落により、「七つの大罪」とその「贖罪」は揃わない。つまりは犯人の魂は救済されないのだ。

    サマセットは最後に語る。ヘミングウェイの言葉について。
    「この世はすばらしい。戦う価値がある」と。
    後の部分は賛成だという。

    『神曲 浄罪篇(煉獄篇)』で、ダンテはウェルギリウスとともに七つの大罪を贖う死者たちと語り合いながら煉獄山を登り、額に刻まれた七つのPの文字を消していく。罪を全て贖ったダンテは山頂にてベアトリーチェに導かれて天国に昇る。

    死者たちと語り合い、山を登るのがダンテの贖罪であるならば、犯人の被害者の「罪」と「贖い」を捜査し、見届けるのがこの物語のダンテであるサマセットの役割なのだろう。
    サマセットは無関心を捨て、積極的に行動するようになった。退職は目前だが、彼にとっては「戦う価値がある」世の中がまだそこにあるのだ。

    そして、サマセットの視点はすなわちこの映画を観ている観客の視点にほかならない。サマセットの代わりに無関心を捨てて「戦う」のは、観客「我々」なのだ。

  • 1996年アメリカ
    監督 デヴィッド・フィンチャー

    ブラッド・ピット、モーガン・フリーマン、ケヴィン・スペイシー

    よくできた映画ですねぇ。96年ってほぼ20年前のんなんですね、ブラピ若いもん(笑
    観るのは2回目。細かい部分はほぼ忘れてた。

    キリスト教の七つの大罪をモチーフにそのまんま連続殺人を犯す異常者ジョン(ケヴィン・スペイシー)
    そして定年まであとわずかな間に事件を解決しようとするベテラン刑事サマセット(モーガン・フリーマン)にその日、田舎町から転属になった熱い刑事ミルズ(ブラッド・ピット)

    画がよくできてる。サマセットとミルズがジョンの家を突き止めてそこで出くわすシーン。ジョンが血まみれの姿で警察署に現れるシーン。
    そしてラストのミルズがジョンを撃つ前後、、、ヘリからの構図と現場の構図を撮ってるシーン。
    よくできてるね。観てるこちらがミルズになったりサマセットになったり、引いて冷静に観れたり。

    殺されちゃうミルズの奥さんトレーシーはアイアンマンのポッツなのね(グウィネス・パルトロー)若い(笑

    サマセットがミルズに恐ろしいことをさせないために自分でジョンを殺害するっていうラストの案もあったらしいけど、そんなシーンだったらこんなに心に刻まれなかっただろうね。
    ミルズはこの後、どういう人生を過ごすのかなぁ?

  • 元々はブラット・ピットが大好きで見始めた作品でした。でも暗いんです。監督デヴィット・フィンチャーが「セブン」のテーマは、「邪悪に触れれば、邪悪に染まる」とおっしゃていたようでしたがまさにそのテーマ通りに暗いのです。

    映画ラストの「ヘミングウェイが書いていた。『この世は素晴らしい、戦う価値がある』と。後半の部分は賛成だね。」も無く試写後評判が悪かったため付け加えたほどだったとか。

    本当にこの映画が語る生物学的理論と言うのでしょうかーどちらが強くてどちらが弱いーこんな事に囚われることは本当にムダなことだと感じました。

    それを示したいがためだけに卑劣な犯罪を行う犯人ジョン・ドゥを食い止めようと警官ミルズは戦うわけです。その結果(監督は不本意ではあったものの)その一部始終を見た隠居生活を送ろうと決めていたサマセット刑事の人生観を変えることができたのです。

    でも監督が伝えたかったー邪悪に触れれば、邪悪に染まるーまさにこれが醍醐味の映画でこの映画があって本当に良かったなと思いました。

  • 胸糞悪くて、最高な映画。退職間近のベテラン刑事サマセット(モーガン・フリーマン)と、血気盛んな若手刑事ミルズ(ブラッド・ピット)が、キリスト教の七つの大罪をモチーフにした連続猟奇殺人事件を追う。2人は容疑者を割り出すが、その人物に逃げられ、さらにミルズの素性が知られていたことも発覚。更なる殺人事件が続いた後に、驚愕の事態が。

    最悪の結末、救いようのない絶望感ゆえに、観る人を悪魔的に魅了する不思議な作品(「もう二度と観ない!」と言う人もいるでしょう)。刑事役2人の演技力、犯人役の気味悪さも見所。ラストシーンだけ晴天というのも、絶望感を演出していて良かった。

  • まあまあグロくて、事件ものにしては珍しい結末だった。
    その結末に対する伏線もちゃんと張ってあるから、構成はきれいだったし、オチに納得感はあった。

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