新装版 ソフィーの世界 上 ―哲学者からの不思議な手紙 [Kindle]

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  • 「いい哲学者になるためにたった一つ必要なのは、驚くという才能だとは、もう言いましたっけ?」
    「赤ん坊はみんな、この才能をもっています。これははっきりしている。生まれてほんの数カ月で、赤ん坊はま新しい現実へと押し出されます。けれども、大きくなるにつれてこの才能はだんだんとなくなっていくらしい。」
    「ことばが出てくると、犬を見たりするたびに立ち止まり、言います。「ワン、ワン!」赤ん坊がベビーカーのなかでピョンピョン飛びはねて腕をふりまわすのを見たことがあるでしょう。「ワンワン、ワンワン!」とね。年上のわたしたちは赤ん坊のはしゃぎようを、ちょっぴりおおげさに感じます。わたしたちはわけ知り顔で、「そう、ワンワンだね」と言います。それから「さあ、もうおりこうさんにお座りしなさい」なんて。わたしたちはそんなにうれしくないのです。犬ならもうとっくに見たことがあるから。
     この突拍子もない反応は、子どもが犬とすれちがってもうれしくてわれを忘れるなんてことにならなくなるまで、おそらく数百回はくりかえされます。象でもカバでも同じことです。そして、子どもがちゃんとことばを覚えるずっと前に、あるいは哲学的に考えることを知るずっと前に、世界はなれっこのものになってしまう。」
    「まさかソフィーは、世界をわかりきったものだと思っている人の仲間ではないよね?」

    「これは「習慣」の問題です。(このことば、メモして!)ママは、人間は飛べないということをとっくに学んでいる。トーマスは学んでいない。トーマスはまだ、この世界では何がありで、何がありでなはないか、よく知らない。
     でもソフィー、この世界そのものはどうなっているんだっけ? こんな世界はありかな? 世界もパパのように宇宙空間にふわふわと漂っているんじゃなかったっけ……。
     悲しいことに、わたしたちはおとなになるにつれ、重力の法則になれっこになるだけではない。世界そのものになれっこになってしまうのです。
     わたしたちは子どものうちに、この世界に驚く能力を失ってしまうらしい。それによって、わたしたちは大切な何かを失う。哲学者たちは、その何かをもう一度目覚めさせようとします。なぜなら、わたしたちの心のどこかで何かが、生きていることは大きな謎だ、と語りかけているからです。わたしたちは、生きることについて考えるのを学ぶずっと以前から、この語りかけを聞いているのです。」

    「子どもにとって世界は、そして世界にあるすべてのものは驚きを呼びさます「新しいもの」です。おとなはそんな見方はしない。たいていのおとなは、世界を当たり前のこととして受けいれている。
     だからこそ、哲学者たちはたいへん珍しい例外なのです。哲学者には、世界にすっかりなれっこになるなど、どうしてもできない。男でも女でも、哲学者にとって世界はいつまでたってもわけがわからない。そう、謎だらけで秘密めいている。哲学者と幼い子どもは、大切なところで似た者同士なわけです。哲学者は、一生幼い子どものなまでいる例外人間と言えるでしょう。」

    「ヘラクレイトスは、たえまない変化こそが自然のもともとの性格だ、と考えました。」
    「「すべては流れ去る」とヘラクレイトスは考えた。すべては動きのなかにある、そしてなに一つ永遠につづくものはない、とね。だからわたしたちは「二度と同じ流れにはひたれない」。なぜなら、わたしが二度めに川の流れにひたった時には、わたしも流れもすでに変わっているのだから。
     ヘラクレイトスはまた、世界は対立だらけだ、とも言っている。病気にならなければ、健康とは何か、わかるはずがない。お腹がすかなければ、お腹をいっぱいにする喜びを味わうこともない。冬がこなければ、春の訪れを目にすることもない。
     善も悪も全体のなかに欠かすことのできない居場所をもっている、とヘラクレイトスは考えました。対立するものたちがたえずたわむれていなければ、世界はストップしてしまう、と。
    「神は昼であり夜である。冬であり春である。戦であり平和である。空腹であり満腹である」とヘラクレイトスは言います。ヘラクレイトスはここで神ということばを使っているけれど、もしろん神話が語り伝える神々のことでないあ。ヘラクレイトスにとって神とは、あるいは神のようなものとは世界全体に広がる何かです。そう、ヘラクレイトスの神は、たえず変化する、対立矛盾にみちみちた自然なのです。
     神ということばのかわりに、ヘラクレイトスはよく「ロゴス」というギリシア語を使った。理性という意味です。わたしたち人間はかならずしもいつも同じように考えたり、同じ理性にしたがっているわけではないけれど、世界のすべての現象をコントロールしている「世界の理性」のようなものがあるにちがいない、とヘラクレイトスは考えた。この世界の理性、あるいは「世界の法則」はあらゆるものに共通していて、すべての人間はこれにしたがわなければならない。なのにたいていの人は自己流の理性で生きている、とヘラクレイトスは考えました。」
    「ヘラクレイトスは自然のすべての変化と対立のなかに一つの何か、あるいは一つの全体を見ていた。すべての根底に何かがある。この何かを、ヘラクレイトスは神とかロゴスとか名づけたのでした。」

    「デモクリトスは、自然界に見られる変化は何かが本当に変化したものではない、と考えたところまでは、今まで見てきた哲学者たちと同じでした。デモクリトスは、すべては目に見えないほど小さなブロックが組みあわさってできていて、そのブロックの一つひとつは永遠に変わらないにちがいない、と考えた。そしてこのいちばん小さなブロックを「原子(アトム)」と名づけた。
    「アトム」とは、「分割できない」という意味です。デモクリトスの考え方のポイントは、組みあわさってすべてを形づくっている何かは、もっと小さな部分には分けられない、ということでした。そう、もしも原子がどんどんすり減らされて、どこまでも小さな部分に分けられるならば、自然はどんどん薄められるスープのように、だんだん溶けていってします。
     さらに、自然界のブロックは永遠に存在しているのでなくてはならない。なぜなら無からはなにも生まれないのだから。この点、デモクリトスはパルメニデスやエレア学派と同じ意見です。」
    「自然界には無限に多様な原子がある、とデモクリトスは考えました。原子の多くは丸くてすべすべしているけれど、でこぼこの形のもある。そんなふうにまちまちな形をしているからこそ、原子は組みあわさって、それこそさまざまな形をつくるのです。とはいえ、どれだけいろんな原子があるのか、ということはこの際どうでもよろしい。原子はすべて永遠で、変化せず、分けられない、ということが肝心なのです。
     木とか動物とかの生き物が死んで分解すると、原子はちりじりになって、また新たに別の生き物の体に使われることが可能です。なぜなら、原子はそのへんを動きまわっているけれど、原子にはさまざまな凸や凹があるので、またひっかかりあってわたしたちの周りにあるものへと組みあがるからです。」

    「デモクリトスは、自然のなりゆきにはたらきかける力や精神的なものを思い描きませんでした。あるのはただ原子と空っぽの空間だけだと考えた。彼は物質(マテリアル)しか信じていなかった。それで、デモクリトスは「唯物論者(マテリアリスト)」と呼ばれています。
     原子の動きの背後には、したがってどんな意図もありません。けれどもそれは、すべては偶然に起こるということではありません。すべては自然の不変の法則にしたがっているのです。デモクリトスは、すべての出来事には自然な原因があると信じていた。原因は出来事の世界、つまり自然そのもののなかにある、とね。」

    「原子論によってデモクリトスは、ギリシアの自然哲学にいちおうのピリオドを打ちました。デモクリトスは、自然界のすべては「流れ去る」ということではヘラクレイトスに賛成でした。なぜなら、形はやってきて、また去っていくからです。けれども流れ去るすべてのものの背後には永遠で不変の何かがあって、それは流れ去らない。それをデモクリトスは原子と言ったのです。」

    「ソクラテスの活動の核心は、彼が人を教えみちびこうとしなかった、というところにある。かわりにソクラテスは、自分が相手から学びたいのだ、というそぶりをして見せた。ソクラテスは学校の先生のような授業もしなかった。そうではなくて、会話をリードしたんだ。
     そうは言っても、相手にただ耳を傾けていただけだったら、ソクラテスはこんなにも有名な哲学者にはならなかっただろうね。もちろん、死刑の判決も受けなかっただろう。けれども、ソクラテスは対話の初めに問いを投げかけるだけだった。そして自分は知らんぷりを決めこんだ。そして話すにつれて、相手が自分の考えがおかしいことをとっくりと納得するようにもっていった。やがて相手は袋小路に追いつめられ、最後には、何が正しいか正しくないか、納得しないわけにはいかなくなるのだ。
     ソクラテスの母親はお産婆さんだった。そしてソクラテスは自分のやり方を産婆術にたとえていた。たしかに、子どもを産むのは産婆ではない。産婆はただその場に立ち会って、お産を手伝うだけだ。ソクラテスは、自分の仕事は人間が正しい理解を「生み出す」手伝いをすることだ、と思っていた。なぜなら、本当の知は自分のなかからくるものだからだ。他人が接ぎ木することはできない。自分のなかから生まれた知だけが本当の理解だ。
     いいかい? 子どもを産む能力は自然にそなわったものだ。同じように、すべての人間は、自分の頭をはたらかせさえすれば哲学上の真実を理解できるんだよ。もしも人が理性(あたま)を使ったとすれば、その人は何かを自分自分のなかから取り出したのだ。
     なにも知らない人を演じることによって、ソクラテスは人びとが自分の頭をはたらかせるように仕向けた。ソクラテスは無知をよそおった、あるいは実際よりも愚かしそうなふりをした。これが「ソクラテス的アイロニー」だ。「空っとぼけ」というのに近いかな。この方法で、ソクラテスはアテナイ市民の考えのおかしな点をじゃんじゃん暴いた。市場のまんなかで、みんなの見ている前で、ソクラテスに出会うと恥をかき、みんなに笑われることになりかねなかった。
     だからしまいにソクラテスが、とりわけ社会のおもだった人びとにとって目ざわりな、いらだたしい存在になっていったのも不思議ではない。アテナイはぐずなろばのようだ、とソクラテスは言った。そして、自分はろばをしゃきっとさせるために脇腹を刺す虻のようなものだ、とね。」

    「紀元前三九九年、ソクラテスは「若者を堕落させ、神々を認めない」という罪で訴えられた。五百一人の陪審員たちは多数決をとり、ほんのわずかな差でソクラテスに有罪を言いわたした。
     ソクラテスには恩赦を求めることができたはずなんだ。あるいは、アテナイを離れるつもりなら、命だけは助かったはずなんだ。でもそんなことをしたら、ソクラテスはソクラテスではなくなる。つまりソクラテスは、自分の良心と真理を命よりも大切だと考えたのだ。彼は、自分は国家にとってよかれと思ってふるまったのだ、と証言した。けれども判決は死刑だった。判決のしばらくのちにいちばん親しい友人たちの見守るなかで、ソクラテスは毒人参の盃を飲み干した。
     なぜだろう? ソフィー。なぜソクラテスは死ななければならなかったのだろう? この問いは何度となくくりかえされてきた。けれども、最後のぎりぎりまで追いつめられて自分の考えを死ぬことによって守った人は、歴史のなかにソクラテス一人だけではない。イエスのことはもう言ったけど、イエスとソクラテスのあいだにはじっさいいくつもの共通点がある。少しだけあげてみようか。
     イエスもソクラテスも、同じ時代に生きた人びとから、すでに謎めいた人物だと思われていた。二人とも自分のメッセージを書き残さなかった。だからぼくたちはなにからなにまで、彼らの弟子たちが伝えるイメージに頼っている。しかも、この二人の師が会話の術にたけていたことはたしかだ。二人はさらに、はっきりとした自覚をもって話をした。その話は多くの人たちの魂をゆさぶり、またある人たちをいらだたせた。二人とも、自分よりも偉大な何かについて語っているのだ、と確信していた。社会の実権を握る人びとは、二人が不正や権力の濫用を歯に衣着せずに批判したために迫害した。そしてなによりも、二人はそうした行動に死という代償を払った。
     イエスとソクラテスの裁判もたいへんよく似ている。二人とも恩赦を願い出でれば、おそらく命は助かっただろう。けれどもこの二人は、とことん行くところまで行かなければ、自分の使命を裏切ることになる、と信じていた。そして二人は昂然と頭をあげて死に臨み、死を超越したんだ。
     こんなふうにイエスとソクラテスの共通点をあげたからといって、二人がそっくりだと言いたいのではないよ。ぼくはただ、二人には個人の有機と切り離せない使命があった、と言いたかったのだ。」

    「ソフィストと哲学者の違いを理解すること、これはこれからのこの講座すべてにわたってたいへん重要なんだ。ソフィストたちは、どうdめおいいような些細なことを論じてお金をもらった。そのようなソフィストたちは歴史のいたるところに出没する。ぼくが考えているのは、すべての学校教師や知ったかぶり屋だ。こういう人びとは、自分のちっぽけな知識で満足しているか、自分がものすごくたくさん知っていることを鼻にかけているけれどなに一つきちんと理解していないかのどちらかだ。きみはまだ若いけれど、きっとこういう人に出会ったことがあるだろう。本物の哲学者は、ソフィー、まるでちがう。そう、その正反対なんだ。
     哲学者は、自分があまりものを知らない、ということを知っている。だからこそ、哲学者は本当の認識を手に入れようと、いつも心がけている。ソクラテスはそういう、めったにいない人間だった。ソクラテスは、自分は人生や世界について知らない、とはっきり自覚していた。そして、ここが大切なところだよ、自分がどれほどものを知らないかということで、ソクラテスは悩んでいたのだ。
     哲学者とは、時分にはわけのわからないことがたくさんあることを知っている人、そしてそのことに悩む人だ。だから哲学者は、ひとり合点の知識でもって鼻高だかの半可通よりもずっとかしこいのだ。「もっともかしこい人は、自分が知らないということを知っている人だ」とはもう言ったよね。ソクラテスはこういう言い方もしている。わたしは、自分が知らないというたった一つのことを知っている、とね。このことば、メモしておくこと。なぜなら、哲学者たちのあいだでもこんな告白はめったにないからだ。さらには、こんなことをおおっぴらに言うのは、命にかかわるたいへん危険なことでもあった。いつの世にも、疑問を投げかける人はもっとも危険な人物なのだ。答えるのは危険ではない。いくつかの問いのほうが、千の答えよりも多くの起爆剤をふくんでいる。」

    「ソフィストたちは、おおざっぱに言えば、何が正しくて何が正しくないかは都市国家ごとにちがう、時代や社会が変わればよしあしも変わる、と考えた。正と不正の問題は、だから「流れ去る」ものだった。ソクラテスはそういう考えには同調できなかった。ソクラテスは、人間の営みには永遠の掟、つまり規範といったものがある、と考えた。わたしたちが理性をはたらかせさえすれば、そのような不変の基準をすべて理解できる、なぜなら人間の理性はまさに永遠の何か、不変の何かなのだから、とソクラテスは考えたんだ。
     いいかい? ソフィー。で、こんどはプラトンの番だ。自然界の何が永遠で不変か、またモラルや社会の何が永遠で不変か、プラトンはそのどちらにも関心をよせた。そうプラトンにとって、この二つは一つの同じことだったんだ。プラトンは永遠で変わることのない「本当の世界」をとらえようとした。はっきり言ってしまえば、それをとらえることこそが哲学者たちの役割なんだ。今年の美女ナンバーワンはだれかとか、土曜日にどこのトマトがいちばん安いかとか、哲学者たちにきいても無駄だよね。哲学者たちは、そういう空しいことや生活べったりのことはちっとも気にとめない。哲学者たちが人びとにはっきりと示そうとするのは、何が永遠に真理か、何が永遠に美しいか、何が永遠に善かということだ。」

    「ちょっと乱暴かもしれないけれど、まとめてみると、プラトンは永遠の原型、つまり「イデア」にあまりにも思い入れしすぎたために、自然界の変化をいちいち観察しなかった。それにたいしてアリストテレスはまさに変化に、今でいう自然過程に関心をよせたんだ。
     もっと乱暴にまとめれば、プラトンは感覚世界にそっぽを向いて、ぼくたちが身の回りに見るものを、ただ流れ去るものととらえた。(プラトンは、洞窟から脱出したい、永遠のイデア界をのぞきたいと思ったのだった!)アリストテレスはまるで逆をいった。大いなる自然に分け入って、魚や蛙を研究した。アネモネやケシの花を研究した。
     プラトンは理性だけをもちいた、アリストテレスは感覚ももちいた、と言ってもいい。
     二人の文章の書き方を見ると、はっきりとした違いに気づく。プラトンは詩人や神話の語り手を思わせるけれど、アリストテレスの文章は簡潔で百科事典のようにくわしい。アリストテレスが書いたことの多くは、綿密な自然研究の積み重ねを踏まえている。」

    「プラトンも、彼より前の哲学者たちのように、あらゆる変化のなかに永遠で不変のものを見つけようとした。そして、感覚界を超えた完全なイデア界を見いだしたわけだ。さらにプラトンはイデアを、自然界のすべての現象よりも真実なものとした。まず馬のイデアがあって、それから、洞窟の壁を早足で駆けていく影絵のような、感覚界のすべての馬があるのだった。鶏のイデアも同じで、それは鶏よりも卵よりも先に存在するのだった。
     アリストテレスは、プラトンは本末転倒だ、と考えた。一頭一頭の馬は「流れ去る」し、永遠に生きる馬はいないということでは、先生のプラトンと同じ意見だった。馬の形そのものは永遠で不変だ、ということでも意見は一致していた。けれどもアリストテレスは、馬のイデアというのはただの概念で、ぼくたち人間がかなりの数の馬を見たあとでつくりあげたものだ、と言った。すべての経験に先立つ馬のイデアや型(フォーム)なんかあるわけがない、とね。アリストテレスに言わせれば、プラトン先生の言う馬の型は、馬のさまざまな特性からできあがっている。アリストテレスは、こんにちの生物学でいう、種としての馬のようなものを考えたんだね。
     もっとはっきり言おうか。プラトンのいわゆる馬の型ということばでアリストテレスは、すべての馬に共通しているものを考えたのだ。こうなるもうペファークーヘンの型のイメージは通用しない。なぜならペファークーヘンの型は一つひとつのペファークーヘンからはまるきり独立して、それだけで存在するものだからだ。アリストテレスは、そのような型を入れておくいわば特別の戸棚が自然のなかにあるとは考えなかった。アリストテレスが解釈した型とは、なにかあるものに特有の性質なのだから、そのもの自体のなかにあるのだった。」

    「雨はなぜ降るのかな、ソフィー? きみはたぶん、学校で習ったよね。雨が降るのは、水蒸気が雲になって冷やされて、こごって水滴になって、重力によって地上に落ちてくるからだ、と。アリストテレスは、そのとおり、とうなずいてくれるだろう。でも、きみがあげた原因は三つだけだったね、とつけ加えるよ。まず気温が下がった時、水蒸気(雲)がちょうどそこにあったから、というのが「質料因」、つまり素材があるという原因だ。つぎに蒸気が冷やされたから、というのが「作用因」、作用がおよんだという原因だ。そして最後に「形相因」、地上にザアザアと降りそそぐことが水の形相あるいは本性なのだから、雨は降る。つまり形相という原因だ。もしもきみが口ごもって、これ以上の原因をあげなかったら、アリストテレスは追い打ちをかけるよ。雨が降るのは、植物や動物が成長するのに雨水が必要だからだ、と。アリストテレスはこれを「目的因」と考えた。わかったかな? アリストテレスによって雨粒は突然、生き物並みに使命かもくろみのようなものを割り当てられてしまったんだ。
     これをそっくりひっくり返して、こんなふうに言ってみることもできる。水があるから植物が成長するのだ、と。この違い、わかるかな、ソフィー? でもアリストテレスは、自然はすべて目的にかなっている、と考えたんだ。雨が降るのは、植物が成長し、オレンジやぶどうが実るためだし、それを人間が食べるためなのだ、と。
     こんにちの自然科学は、もうそんなふうには考えない。ぼくたちは、栄養と水は人間や動物が生きるための条件だ、という言い方をする。こうした条件なしには、ぼくたちは生きていけない、と。でも、ぼくたちを養うことは、オレンジや水の目的ではないよね。
     だから、原因についての説ではアリストテレスはまちがっていた、と考えたくなるけれど、早とちりはしたくないな。今でも、この世界は人間と動物が生きるために神がつくった、と信じている人はいくらでもいるのだから。だとすれば、川が流れるのは人間と動物が生きるために水が必要だからだ、という考え方ももちろん成り立つわけだ。でもそうなると、神の目的とかもくろみの話をしていることになってしまう。ぼくたちのためを思っているのは、雨粒や川の水ではなくなるわけだ。」

    自然現象を偶然(と自然法則)の産物と考えたくない人がこんなにもたくさんいることに驚く。なぜ偶然の積み重ねではいけないのか。神や目的の存在を前提としなくても説明可能なのに、それを拒む心情はどこからくるのか。形をかえた宗教であるインテリジェント・デザインの萌芽がアリストテレスにあるらしい、ということは覚えておこう。(まったくめんどくさいことしやがって)

  •  なつかしい。懐かしさのあまりに再読。いまはKindleになってるのだな。あれ分厚かったなあ。
     若い頃に読んだものって蘇ってくるのが早いな。ミステリー部分の構成に関しては早々に思い出してきた。後は哲学部分。
     哲学者の個々の思想について、謎のおじさんの解説があるわけだが、やっぱり容量的に一面的な気もする。ただ、Wikiに出てきそうな項目的解説と言うよりはその哲学者の本質的なところをピックアップされているような気がした(検証はできない)のでいいのではないかと思う。
     上巻のポイントは哲学的内容の解説が中心。
     やはりこういうのに手を出しておきながら思うのは、「いや、概略知っていい気にならないで原典に当たれよ」ということなのである。
     ただの哲学紹介本ではなく、読者自身に考えさせるミステリー仕立てになっているのがこの本のいいところ。面白く読むにはおすすめ。

  • アリストテレス、ヒューム、バークリについての本を読んでみたい。

  • 十五歳になる少女へ届いた哲学者の手紙。遠くギリシャの哲学者からだんだんと現代に近付く。それぞれの哲学者の考えのエッセンスを教えてくれる。少女と一緒に哲学講義の通信講座を受けたみたいだ。

  • 哲学書は今日数多く出版されているが、各哲学者の考えをただまとめた物が多くつまらなく、頭に入らないものが多い。一方、この本は2つの点で素晴らしいと感じた。
    1つはソフィーという普通の女の子(恐ろしく理解が早いが...)と一緒に哲学について学んでいくように進むので、話として面白く、読みやすい。
    もう1つは歴史上の哲学者の考え、その考えに至った経緯が書かれており、人々は歴史上で何を課題とし、どのように解いていったかの流れがつかみやすい。
    一方、後半に入るにつれて物語よりも説明が多く読み進めにくくなるのが難点である。

  • 長かった。。。主にヨーロッパ哲学の歴史を物語仕立てでたどる超ベストセラー。読むのに時間かかりましたが、平易な文章でざっくりと西洋哲学を教えてくれるので教養という意味で読んでよかったかな。読んでるそばから全部抜けていってしまったけれども。

  • 哲学史をふりかえりながら、歴々の哲学者が世界をどのように捉えてきたかを知れる本。
    高校とか大学のころに読めるとよかった。

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