ニーチェの馬 [DVD]

監督 : タル・ベーラ 
出演 : ボーク・エリカ  デルジ・ヤーノシュ 
制作 : ヴィーグ・ミハーイ 
  • 紀伊國屋書店
3.62
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  • (36)
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感想 : 42
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  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4523215081986

感想・レビュー・書評

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  • トリノの広場で泣きながら馬の首をかき抱き、そのまま発狂したというニーチェの逸話にインスパイアされて生まれたそうだ。

    映画のスタイルはいろいろあるけどこんなやり方もあるのかと思う。世界の終わりの6日間を描くのだが、強風吹きすさぶ中、質素な生活をする父子の日常を描くだけ。ただいろんなものが欠落していく。
    馬が動かなくなり、食べなくなり、水を飲まなくなる。
    井戸が枯れる。
    ヨソに引っ越そうとするができない。
    ランプがつかなくなり最後は太陽も出なくなる。

    外の世界がどうなっているのか。途中神はいなくなったという人が現れて、町はメチャクチャだという。最初に鳥が鳴かなくなり、最後は風もやみ、太陽が注さないからひどい天変地異かもしれない。訪問者が言うように神が死んだからかもしれない。もちろん暗喩かもしれない。

    アメリカに行こうという一団が現れてその次の日に井戸は枯れる。あの一団も何かの暗喩なんだろう。そうした仕掛けがいろいろあるのだけど、それよりも心に残るのは止むことのない風の音と繰り返される不安を誘う音楽と日常生活の描写の丁寧さだ。着替えのシーンがこれだけ描写された映画はないだろう。

    食べるものはじゃがいもだけというこんな貧しい生活はないだろうと思うのだが、世界の終わりと拮抗する力で描かれている。それをも飲み込む無慈悲な世界の終焉と見るのが正しいのだろうが、そんなニーチェのニヒリズムを説明されてもそうですかと言うしかないのであって、それよりも映像と音楽の力だけがいつまでも心に残る。イヤな音楽なんだが最後はクセになる。BGVとして最高なんじゃなかろうか。キネ旬ベストテン2012 1位。

  • 哲学好き文学好きが観る映画

    原題からすると、本来は「トリノの馬」ということになるが、「ニーチェの馬」の方が、映画のイメージとして伝わりやすい。

    荒れ地に住む、父と娘、そして1頭の馬、6日間の生活を描く
    特にストーリーらしいものはない。ないんだけど、ある。
    映画をエンターテイメントとして観る人には、全くおもしろくない映画だと思う。

    しかし、モノクロの映像の重厚さに、芸術性や迫力を感じて、なんの変化もない長ったらしいシーンが、意外と退屈に感じなかったりする。

    少ないセリフの中から、アメリカ的政治経済を良しとする世界に対する批判、とも解釈できる面もある。
    そして、そんな世界を容認している?神に対する怒り、を表現しているように思える。

    世界は堕落してしまった。
    神は死んだ、のではなくて、それとも…
    と、哲学的に深読みしてみましょう。

    また、1日目、2日目…、という設定は、創世記に対する、終末記ってことなのかな?

    この映画を最後の作品とする、というところも、監督の強い信念を感じる。
    観終わって時間が経つにつれ、じわじわと映像の存在感を感じさせる、妙に凄みのある映画。
    ん~、渋すぎる。

  • A TORINOI LO
    2011年 ハンガリー+フランス+ドイツ+スイス 154分
    監督:タル・ベーラ
    出演:デルジ・ヤーノシュ/ボーク・エリカ

    『サタンタンゴ』を見たので、同じくタル・ベーラ監督の最新作であるこちらも。通常、映画は120分越えると長いなーと思うけど、サタンタンゴの438分に耐えたあとなので、154分のこちらは余裕(笑)

    表題の意味は、ニーチェの晩年、トリノの広場で鞭打たれている馬を見て泣きながら駆け寄り馬を抱きしめたニーチェが、以降発狂したという逸話から。一応その馬の、その後、みたいな気持ちで見たけれど、もちろん舞台はトリノではないし、時代も違うので、単純に「馬」は虐げられたものの象徴のような感じか。

    強風が吹き荒れる荒野の一軒家で暮らす、初老の父(デルジ・ヤーノシュ)と娘(ボーク・エリカ)と馬。暮らしは貧しく、夕飯は毎晩ゆでたジャガイモ1個づつ。あとはたまにパーリンカ飲むだけ。娘は毎朝、井戸に水を汲みにゆき、片手の不自由の父親の着替えを手伝い、二人で馬の準備をして、父は荷車を馬に引かせて仕事に行く、単調な毎日。しかし馬が次第に食欲を失い荷車を引くことも嫌がるようになり…。

    世界の終わる最後の六日間。一日目は、上記のような二人の暮らしぶり、二日目は知人の男がやってきてパーリンカを飲み、町は強風で滅びたと言い、神や終末について一席ぶつ。三日目には、流浪の一団が馬車でやってきて勝手に井戸の水を飲もうとし、父娘は彼らを追い払うが、去り際ひとりが娘に教会についての本をくれる。四日目、なぜか井戸が枯渇、父娘は荷車に家財道具を積み込み、それは父が引き、馬を連れて引っ越ししようとするが、もちろん行くあてはなく元の家に戻る。五日目、元のように暮らしだすが、なぜかランプや火種まで消え真っ暗に。六日目、暗い食卓で生のままのジャガイモを前にむきあう父娘。エンド。

    とにかく救いがない。どこにも逃げ場のない日常、それでもただ淡々と生きるしかない人々。人はなぜ生きようとするのか、生きるとはただの生命維持なのか、いろいろ考えさせられる。娘役、サタンタンゴでは猫を虐待し自殺した少女と同じ人なんですね。17年の歳月を経てすっかり大人に。モノクロの映像は相変わらず構図が美しく、何も起こっていなくてもずっと眺めていられる。けどまあやっぱりたまに眠くはなる。あとお父さんが横暴で娘が可哀想になるので、どっちかというとサタンタンゴのほうが好き。

  • なんか凄いの見ちゃったな。
    イモ茹でちゃいそうだ。

  • 切り詰められた生、辿々しく進む生、繰り返される生…暴風吹きすさぶ荒野で生きる親子の姿を最小限の言葉と音楽、1カット平均5分以上の長回しで淡々と描いた驚愕の作品。無神論の親子の生活は次第に馬は衰え、井戸は枯れていき、神が世界を創造した同じ日数をかけて全てを喪失していく。にもかかわらず二人の姿には諦めや絶望の色が見えることなく、剥き出しなまでの生命力が伝わってくる。例え死の咢が待ち構えようとも、決して発狂することなく尊厳を手放さないこと。世界の彼岸においても生を手放さないこと、それは何より美しい行為なのだ。

  • 2012年洋画最高傑作とキネマ旬宝に言わしめた作品。

    前情報なし、という殺風景な予告は、細野晴臣の絶賛コメントだけが脳裏に残る。
    原題は「トリノの馬」
    本作には右腕の利かない父と、父を介護する娘の生活がただただ長回しのモノクロ映像で6日間つづく。
    1889年トリノ。
    哲学者ニーチェは鞭打たれ疲弊した馬車馬を見つけると、駆け寄り卒倒した。そのまま精神は崩壊し、二度と正気に戻ることは無かった… 馬のその後は誰も知らない。

    セリフはとにかく少なく、一日一回の食事(かどうかはわからないけど観たままだと)は、ふかしたじゃがいものみ。
    井戸にバケツいっぱいの水を小柄な体でふたつ運び、洗濯はおうちで手洗い、四枚くらいしか干せない。
    最初から最後までとにかく強い風に、たなびく娘の髪。
    1日め:移動手段であり、仕事の糧であった馬が役立たずになる
    2日め:強風が吹き荒れる
    3日め:町から来た男に「神は死んだ。町は消えた」と宣告される
    4日め:井戸が枯れる
    5日め:火種が尽きて暗闇がくる
    6日め:食卓にて、生のじゃがいもを前に途方に暮れる

    そして物語はあっけなく終わる。
    最後の晩餐のシーンは、キリスト教の絵画のような、美しさを感じる。
    ただ生きているだけ、質素な変わりのない生活に、ここまで迫力があるかと驚く。
    ここちよくずっと眠たいのに、不穏な音楽がずっと観ている側を不安にさせる。
    馬は神であり、馬の最後は、世界の終わりなのかもしれない。

    これを「いい映画だった!」と思える人々の感性って、まだまだ捨てたもんじゃないよなって思う。

  • 観始めて、これは寝るだろうな、と思った。が、意外にも、面白かった。ニーチェが発狂する前に抱きしめた馬そのものが登場する設定なのかと思いきや違った。ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』と同様(こちらはロバだが)、馬が主人公の映画と思いきやそれも違った。
    ニーチェの「神は死んだ」にかけてある筋書きかとも思ったがそれも定かではない。それで、「ああ、これは単に、映画なんだな」と思った。「当初の計画がどうであれ、撮られてしまえばそれが映画なんだ」と。

    気づいたこと。
    その1。1日目の石造りの粗末な家の場面で聞こえる強風の音に旋律がある。しかも時おり流れる音楽(弦楽器によるミニマルミュージックみたいなの)とも調がぴたりと合っているような気がする。
    その2。およそ2時間半、始終風の吹き荒れる水平なショットが続くけれど(これが広々とした救いのなさを感じさせる)、唯一、数秒間だけ垂直なショットが挿入される。水の涸れた井戸の底を映すシーン。前後の文脈からいけばもはやこれまで、といったところだけれど、あのシーンの静けさは、かえって天国さえも暗示している。
    その3。娘に服を着せてもらう親父といい、親父の猫そっくりな左手しか使わないジャガイモの食べ方といい、引っ越そうとした端から引き返してきたりして、これはコメディではないか。
    ということ。

  • 「食べろ、食べなくてはならない」
    キネ旬の外国語映画で2012年1位になった作品。
    あまりにも長く感じた上映時間の後、見終わって後悔した。
    予備知識がなかったせいか、何も感じなかったからだ。

    ニーチェに関連する哲学を描いた映画だと知ってはいたが、
    改めてその意味を調べて見るとニヒリズムとは・・・
    「この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、
    理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である」

    これでようやくこの作品の本質を理解(遅い)
    ニヒリズムを知りたければこの映画を見れば解る。

    少ない登場人物、猛烈な勢いで吹き続ける風、息詰まるような閉塞感、
    これは19世紀のイタリア・トリノを舞台とした映画ではなく、
    世界の終末を描いた映画として見た方がしっくり来る。

    生きる意味や、尊厳を問う作品がある中で、静寂に徹し、
    虫けらのような人の営みを描き切った希有な作品。

    [2011年、ハンガリー、154分]

  • う~ん…暗い。底なしに暗い。
    日常、当然あるはずのものが、ひとつひとつ、
    立ち枯れてゆく姿を、執拗に追っている。
    二日目に現れた男は語る…

    ―町は風にやられた。めちゃくちゃだ。すべて駄目になった。
     みんな堕落した。人間が一切を駄目にし堕落させたのだ。
     この激変をもたらしたのは、無自覚な行いではない。
     無自覚どころか、人間自らが審判を下した。
     人間が自分自身を裁いたのだ。神も無関係ではない。
     あえて云えば、加担している。神が関わったとなれば、
     生み出されたものは、この上もなくおぞましい。
     そうして世界は堕落した。

    これは、現代人の個々の奥底に巣食ってしまった心象を
    象徴しているように思われてならない。立ちすくみ、怯えながら
    それでも、夜の終わりを信じるために…映画の最後のセリフが
    底なし井戸に石を放ったように、ボクの心に鳴った。

    …食え 食わねばならん

  • クラスナホルカイ•ラースローが脚本に関わってるという一事でもって、すべて納得がいってしまった。マジャールだからクラスナホルカイが姓でラースローが名だよ。タルが姓でベーラが名ね、念の為。

    A torinói ló :El caballo de Turín 2011
    Béla TARR

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