死の壁(新潮新書) 「壁」シリーズ [Kindle]

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  • 『バカの壁』の著者である養老孟司さんが書いた壁シリーズ第二弾の本。すべての人類に平等に訪れる「死」に関するさまざまなトピックを扱っている。だれでもいつか死ぬのだから、最低限それについて考えておくと、その後の意思決定がスムーズに行えるようになる。そう考えて手に取った。Youtubeの講演会で話されていた「一人称・二人称・三人称の死」についても詳細に語られていて、読んでよかったと思った。

    印象に残ったところメモ。
    ・...おそらくそういう人は、自分が変わるということがはなからわかっていないのではないかという気がします。ただ、今現在の自分というものをはっきり固定していて、それが生まれた時から今までほとんど変わっていないのだと、頭から思い込んでいる人なのではないでしょうか。
    ・しかし、原則でいえば、人生のあらゆる行為に回復不能な面はあるのです。...ふだん、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、実は毎日が取り返しがつかない日なのです。今日という日は明日にはなくなるのですから。人生のあらゆる行為は取り返しがつかない。そのことを死くらい歴然と示しているものはないのです。

  • 「バカの壁」の続編。テーマが「死」に限定されているからか、こちらの方が読みやすく感じた。

    自分で作れもしないものを壊してはいけない。だから人を殺してはいけないのだという説明は、すとんと入ってきた。自殺がいけないのも同じ理由。なぜ環境破壊はいけないのかとか、文化財を保護しなければいけないかといった事柄も、この論理でだいたい説明できる。

    生死の境目の定義というのは思いのほか難しいという指摘にも、なるほどと思った。日本では脳死や安楽死については揉めるが、人工妊娠中絶の是非についてはほとんど揉めない。他の地域では逆だったりする。その違いは、共同体のルールによるものだという。共同体のルールを何でも明文化しようとすることは本当に良いことなのだろうか? など、いろいろと考えさせられる。

    死体はいつまで「その人」か?というテーマ。養老先生はその人だとわかるうちはその人として扱うという。死体の人称について論じた章では、「一人称の死体」は存在しないと(粗忽長屋ってつくづくよくできた落語だよなぁ)。自分の死は自分には影響を与えないのだから、考えるべきは「二人称の死」についてだろう。二人称の死をそれぞれに乗り越え、生き延びていくことの積み重ねが人生だ。

    フランクルは、余命いくばくもない寝たきりの患者に人生の意味について問われ、その人がそういう運命を受け入れどういう態度を取るかということが、周囲に大きな影響を与える、それこそが生きる意味だと語ったという。

    エリート教育がなくなったという指摘にもハッとさせられる。安楽死について語る際、それを実行する医師の視点が抜けていないか? 医者に限らず、政治家や司令官など、今のエリートたちは、人の生死を担う覚悟を持っているのか? 生死を担うというところまで大袈裟な話かはわからないが、管理職だってそういう側面があるよなぁ。

    人命尊重を重視し、海岸での救命活動を強化した結果、脳に障害を負う人が増え、社会のコストが上がってしまったという笑えない話も。人間は生まれたときから死に向かい続けているわけで、どこからどこまでを自然とみなすのか、突き詰めて考えると難しい問題だ。「積極的に助けない」ことと、「殺す」ことの違いって何だろう?難しい。

  • 病気の五年生存率が何%と耳にすることがあるが、人に限らず生物の致死率は100%である。死なない生き物はいない。しかし、死の定義は単純なものではなく、実際に意識することも少ない。それは身近な死というのが、二人称の死だけであることもその理由であろう。一人称(本人)の死は見ることができないし、全く知らない人である三人称の死はただの情報でしかない。
    私が小学生の頃、祖父が亡くなった。知っている人が亡くなったのはそれが初めてで、その光景は今でも記憶に残っている。誰でも身近な人の死を経験して、各々が何かを感じ、影響を受けているのだと思う。
    人が制御し得ない死に対し、日常生活から切り離すのではなく、残った者がそれを生かす生き方をする。死は取り返しが付かず、理不尽にやって来るものであるが、毎日の一分一秒も二度と戻らないものである。難しく考える必要もないが、死の壁に向き合い、何かを伝え遺していく、それが連綿と続いていくということが大切なのであろう。

  • まず、面白いなと思ったのは、死体には三種類あるという話。「ない死体」「死体でない死体」「死体である死体」。言い換えると「一人称の死体(自分の死体)」「二人称の死体(親しい人の死体)」「三人称の死体」。まず、自分の死体は見えない。だから考えても仕方がない。二人称の死体は死体と思えないということで特別な死体。後は普通の死体という分け方。死体は穢れと結びついていて、暗に「死んだ奴は我々の仲間ではない」という意味合いがあるらしいのだけど、親しい人の死体にはそれが無いということなんでしょう。

    そこから、死を考えるときは、一人称の死ではなく、二人称、三人称の死を考えることこそ意味があると先生はいう。実は「人の命は何よりも尊い」という誰もが否定できない真実があるのだけど、絶対の真実を信じる人は絶対の正義を振りかざすのが常で、ただ、脳死や安楽死を考える場合、絶対の正義が大きな邪魔をする。世の中にはタテマエとホンネの世界があって、清濁併せ呑むではないけれど、ホンネの世界では共同体のルールとして現実に折り合いをつけてきたのではないかということ。そこをタテマエの世界だけで綺麗に片づけようとすると、そのひずみがどこかに大きく溜まってしまうということなのかもしれない。

    先生の主張はこうした二人称、三人称の死は考える意味があるけど、自分の死は考えても仕方がないこととしている。最初は違和感があったのだけど、自分がボケて困るのは家族、自分が死んで後始末をするのも家族。その家族にとって自分の死は二人称、三人称の死であって、やはり考えるべきは二人称、三人称の死とそこから生まれる社会的な問題というのは確かにそうなのかなと思うようになりました。ただ、よく言われているように、死を考えるということは、死ぬまでの自分の生き方を考えるということであり、その点はまた改めて考えるべきなのかなという気がしました。

  • 「わからないから面白い」、「ブータンのお爺さん」、「火葬と水洗便所の普及」、「人間というのは、生まれた時から死に向かって不可逆的に進行する存在」、「さまざまな厄介な部分が存在しているのに、それを踏まえずに明文化することイコール近代化だというような安易な考え方で議論を進めると、どこかで矛盾なりモヤモヤした気持ちが残ってしまう」、「人生のあらゆる行為は取り返しがつかない」

  • バカの壁に続いて再読です。
    俺的にバカの壁より好きな本。人として養老先生が好きなんやな。

  • 今回電子書籍を購入した後に、どこかで聞いたことある、と思ったら家の本棚にありました。
    過去にも読んだんだろうけど、内容は覚えてなかった。
    でも、タイトル的に引っかかるものがあったんだろうなーと、二度買いした自分を笑いながら再度読んでみました。

    二人称の死、一人称の死と向き合う機会をいただけました。

  • 日本人の死生観、世界の中の日本の立ち位置など、この本を読んで整理できた。特に「死んだらコミュニティメンバーから強制退場になる」という言葉に腑に落ちた

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著者プロフィール

養老 孟司(ようろう・たけし):1937年神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士(解剖学)。『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。『バカの壁』(新潮社)で毎日出版文化賞特別賞受賞。同書は450万部を超えるベストセラー。対談、共著、講演録を含め、著書は200冊近い。近著に『養老先生、病院へ行く』『養老先生、再び病院へ行く』(中川恵一共著、エクスナレッジ)『〈自分〉を知りたい君たちへ 読書の壁』(毎日新聞出版)、『ものがわかるということ』(祥伝社)など。

「2023年 『ヒトの幸福とはなにか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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