火星年代記 (ハヤカワ文庫SF) [Kindle]

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  • 『ワインズバーグ・オハイオ』にインスパイアされて書かれたと前書きにあり、期待値を上げて読んだ。形式は似ている、けれども全体としては地球人が火星(含む火星人の在り方)を荒らしきり、そしてまた自分の都合で慌ただしく去っていった話であるように感じた。いかにも地球人がやりそうなことで、地球人はほんとうに迷惑な存在だな! と気が滅入る。あの自分に存在に対する疑念のなさがいやなのよね地球人... とはいえ生身の衝突が発生しないパターンで火星人が登場する話のいくつかは美しくてよかった。そうでないパターンは、ほんとうにお邪魔しちゃってすみませんという気持ち。

  • 引き続き、オーディブルでレイ・ブラッドベリ『火星年代記』を聴き始める。

    本人によって後年に書かれたと思われる「まえがき」より、創作のミューズについて。

    「私がしていることについて、とやかく言わないでください。自分が何をしているのか、知りたいとは思いませんから!」
     こう言ったのは私ではない。これは、私の友人で、イタリアの映画監督のフェデリコ・フェリーニの言葉だ。自分の映画を1シーンずつ撮影し続ける日々に、この監督は、カメラに捉えられた新しい映像、撮影当日の夜には現像される新たなフィルムを、決して見ようとはしなかった。撮影されたすべてのシーンが、自分を誘惑する謎の挑発者でありつづけて欲しかったので。
     私の生涯の大部分における短編小説や、戯曲や、詩についても、事情は同じだ。私が結婚したのは1947年のことだが、その直前の数年間に書きつがれ、1949年夏の仕上げ作業の驚くべき展開によって、仕事が絶頂に達した『火星年代記』の場合も、事情は同じだ。ぽつりぽつりと書いてきた短編や、赤い惑星にまつわる「傍白」などが、その年の7月と8月に突然、ザクロのように弾けたのだった。毎朝、私は起きるや否や、タイプライターに向かって、ミューズが手渡してくれる珍奇な贈り物を見つけようと夢中だった。
     私には、本当に、そんなミューズがついていたのか。神話の中の怪しげな女神を、私は信じていたのだろうか。いいや。ハイスクール以前も、在学中も、以後も、街頭で新聞を売っていたころも、私は、たいていの作家が手始めにすることを、していただけだった。すなわち、先輩作家の真似をし、同輩作家を模倣すること。こうして、自分の皮膚の内側や、目の奥で眠りこけている真実を発見する可能性から、どんどん遠ざかっていたのだ。
     実際、20代の中頃、ちょっとグロテスクな一連の幻想小説を書き、活字になったそれらの作品はいま読んでもさほど悪くはないと思うのだが、私自身がそれらの作品から学ぶことは皆無だった。私は頭の中のたくさんの面白い材料をひっかきまわして、それを原稿の上にぶちまけていただけなのに、自分ではそんな実態を直視しようとはしなかった。だから、私の奇妙な短編群はは生き生きとして現実的だったが、その先で待っていたのは、ロボットのように生気を欠き、機械的で、動きの少ない物語ばかりだった。
     そんな状態から解放されるきっかけとなったのは、シャーウッド・アンダスンの『オハイオ州ワインズバーグ物語』だ。24歳の年のある日、この本の10人あまりの人物たちを前にして、私は茫然としていた。1年中、秋がつづく、あの町の、ほの暗いポーチや、日のあたらぬ屋根裏部屋で、生を営んでいる人たち。「ああ」と、私は叫んだ。「こんなにすばらしくなくてもいい、これの半分だけすばらしい本でいいから、舞台をオハイオ州ではなくて火星に変えて、ぼくが書けたとしたら、どんなにすてきだろう!」
     遥か彼方の世界の、さまざまな場所や人物を、私は思いつくままに書きつらね、タイトルをひねり出し、それらを纏めて引き出しに放りこみ、すぐ忘れてしまった。というか、忘れたと思っていた。
     なぜなら、ミューズのこだわりというものは尋常ではない。それは、なおざりにされても生きつづける。真の生命を与えられるか、あるいは言語化されることなく死んでいくか、どちらかの結末を待っている。私のなすべき仕事としては、神話とは単なる亡霊以上のものであること、そして直覚を司る物質が呼び覚まされて語り出し、タイプを打つ指先にまで到達することを、自分自身に信じさせなければならない。
     つづく数年の間に、一連の火星版『パンセ』というか、シェイクスピア劇でいうところの「傍白」を、私は書いた。とりとめのない思考、眠れぬ夜の幻影、夜明け前の半覚醒状態。フランス人は、たとえばサンジョン・ペルスなどは、これを完璧に行っている。半ば詩、半ば散文で、どんなテーマを扱うにせよ、せいぜい100語、1ページにも満たない作品ばかりである。そのような作品を生み出すきっかけは、さまざまだ。天候、時間、建築物のファサード、すてきなワイン、おいしい食べ物、海の眺め、急速な落日、ゆっくりとした日の出、等々。それらの要素を呑みこんだあげくに、人は時折、吐き出すのだ。あるときは不消化の毛玉を、またあるときは、ハムレットばりの、だらだらと長く独白を。
     いずれにせよ、わたしはそれらの『パンセ』を計画的に整理したりせず、他の2ダースもの物語と一緒に、あっさり葬り去ったのだった。
     そのとき、幸せなことが起こった。有名な放送作家でディレクターを兼ねていた、ノーマン・コーウィンが、「世間に認めてもらうために」ニューヨークに行くことを、私に勧めたのだ。その勧めに素直に従って、マンハッタンまでバス旅行をした私は、YMCAで憂鬱な一夜を過ごし、次の日、ウォルター・ブラッドベリに会った。この人は私の親戚でもなんでもないが、ダブルデイ社の優秀な編集者で、あなたは知らず知らずのうちに見えない絨毯を織っていたのではないだろうか、と言ってくれた。火星にまつわるあなたの物語群を、針と糸を使ってうまく繋いで、『火星年代記』というような本に纏めたらどうか、というのだ。
    「うわあ」と、私は呟いた。「『オハイオ州ワインズバーグ物語』だ!」
    「え? なんですって?」とウォルター・ブラッドベリ。
     翌日、私は『火星年代記』の概要を、ウォルター・ブラッドベリに渡し、『刺青の男』のアイデアまで、おまけに付けてやった。汽車で故郷の町に帰る私の財布には、1500ドルの小切手が入っていた。その金で、2年間の家賃(月30ドル)を払い、私たち夫婦の長女がぶじ生まれた」

    「最後に一言。
    (私がしていることについて、とやかく言わないでください。自分が何をしているのか、知りたいとは思いませんから)
     なんという生き方だろう。だが、この生き方しか、ない。なぜなら、無知を装うことによって、直観的洞察力は無視されることに興味を抱き、隠されていた頭をもたげて、蛇のようにあなたの掌紋を通り抜け、神話のかたちで表に現れるからだ。そして私が書いているのは、ほかならぬそのような神話であるから。私の火星も、その驚くべき生涯の結末として、あと何年かはたぶん生き延びるだろう。そのことを半ば保証してくれる1つの事実。私は今でも、カリフォルニア工科大学に来ないかと誘われている」

    太陽系の第4惑星、地球名「火星」は、当の惑星の住人からは「ティル惑星」と呼ばれているらしい。

    オーディブルはレイ・ブラッドベリ『火星年代記』の続き。

    これほどまでに間の抜けた「未知との遭遇」譚があったとは。なぜこんなに緊迫感がないかというと、火星人がなぜか英語を話し、単位や物事の判断基準、暮らしぶりも地球人とほぼ同じで、そこに異文化遭遇につきものの、驚きや発見が皆無だから(そのかわり、違和感はありまくりだけど)。

    大航海時代や地球上にフロンティアが残されていた時代の異文化接触だって、相手の言語も、ジェスチャーも、身につけているものも、なにもかも違うことが前提で、だからこそ、そこに発見があり、驚きがあり、誤解があり、食い違いがあり、すったもんだあって、やがて相互理解の橋が架かる(あるいは、一方的に相手を殲滅する)という流れをとるのに、その前提が全部抜け落ちているから、この物語がそうしたパターンから逸脱しているのは、ある意味、当然だ。

    では、牧歌的とさえ感じられるこの「未知との遭遇」譚は、ただの「いい話」なのかというと、全然そんなことはなくて、話の筋を追うことから一歩離れて、そこで語られる事実に目を向けると、そこに底なしの恐怖が顔をのぞかせていることに気づいて愕然とするだろう。

    第三惑星(地球)からの第一の訪問者ナサニエル・ヨークは、妻の病気(精神錯乱による幻視? あるいは予知夢?)を疑い、夢の中の浮気に腹を立てた夫の手によって葬られる。

    第二の訪問者ジョナサン・ウイリアムズ隊長は、異星からの訪問者ではなく、ただの狂人だと疑われ、精神病院に収容されて、治療の甲斐なしと診断されて射殺される。心理学者のクスクスクス氏いわく、

    「おめでとうを言わせてくれませんか。あなたは精神病の天才だ! 実に完璧な仕事をおやりになった! テレパシーによって、あなたの精神病的イメージを他人の心に投影し、しかもその幻覚が感覚的に弱まることがないというのは、ほとんど不可能事です。あの家にいる連中は、ふつうの視覚の幻想に、あるいはせいぜい視覚と聴覚の結合した幻想に精神を集中させるだけだ。あなたは全体を包括した幻想のバランスをとっておられる! あなたの狂気は、美的見地からすると完璧です!」
    「そう、そうです、なんと愛らしい狂気だろう。金属、ゴム、重錘、食料、衣服、燃料、兵器、梯子、ボルト、ナット、スプーン。1万にものぼる別々の品物を、わたしはこの船でいちいち点検しました。こんな複雑なものは見たことがない。寝台の下や、ほかのすべての物の下にはちゃんと影までついている! これほどの意志の集中! どんなふうに、いつテストしても、すべての物に匂いがあり、固さがあり、味があり、音がある! さあ、抱擁させてください!」

    そこまでわかってるなら、それが幻視や幻聴ではなく現実だとわかりそうなものなのに、クスクスクス氏は頑としてそれを認めないどころか、自分の幻視を終わらせるために、自ら命を断ってしまう。思い込みやバイアスもここまで頑なだと滑稽を通り越してあきれるほかないが、えてして「なんとかイズム」に心を占領されてしまった人たちが、目の前の現実をまともに見ようとせず、頭の中でつくり出した世界観や理屈に現実のほうを合わせようと四苦八苦する姿を見ていると、思い込みってホントに怖いなと思う。自分の五感で得られた情報より、頭の中でこねくり回した理屈のほうが信じられるって、どういう心理状態なんだろう。なにかに凝り固まり、柔軟性を失って、1つの角度からしか物事を眺められなくなった人とは、簡単な会話を交わすことさえむずかしい。

    第三探検隊のジョン・ブラック隊長は、火星で出会った、そこにいるはずのない人たち(隊員たちの亡くなった家族)が、自分たちの記憶をもとに再現された催眠術のようなものだと見破るが、時すでに遅く、心理的にも物理的にも武装解除され、ばらばらに散った隊員たちはみな火星人の手によって葬り去られてしまう。

    第三探検隊の人たちは、科学的な説明よりも、自分の五感で得られた情報を信じたばかりに、火星人たちの策略にまんまとハマった。見たまんまを信じてもダメ、見たまんまを信じないのもダメ。八方塞がりに見えるこの状況を打破するのは、科学に裏付けられた合理的な思考だけってこと?

    オーディブルはレイ・ブラッドベリ『火星年代記』の続き。

    「月は今でも明るいが」より。

    第四探検隊のジェフ・スペンダーは、地球から持ち込まれた水疱瘡によって火星人が死滅し(コンキスタドールによって持ち込まれた天然痘が新大陸の人口を激減させた史実と重なる)、無人のまま放置された町を訪れ、彼らが残した文献を解読するうちに、みずからの良心?を火星人に勝手に憑依させ、みずから火星人と名乗って、悪しき征服者=人類の征伐にとりかかる。

    「わたしは子供の頃、メキシコ・シティへ連れて行かれたことがあります。そのときの父親の態度をーー鼻持ちならぬ傲慢な態度を、わたしは決して忘れないでしょう。母も、メキシコ人は肌が黒くて不潔だから嫌いだ、などというのです。姉も、土地の人とは話をしようとしません。メキシコ人と遊んだのは、わたしだけでした。いま父や母が火星へやって来たら、きっと同じ態度をとると思います。
     平均的なアメリカ人におって、見知らぬものすべてはよくないのです。それを考えてごらんなさい、ああ、それを考えてごらんなさい! それからーー戦争です。わたしたちが出発する前の、議会での演説をお聞きになったでしょう。もし計画がうまくいったら、原子力研究所を三つと、原爆貯蔵所を設けるのだといいました。そんなことをしたら、火星はおしまいです。こういうすばらしい物はぜんぶ消えて失くなります。火星人がホワイト・ハウスの床にへどを吐いたら、隊長はどんな気持がなさいますか」
    「そうなると、ほかの利害関係が生まれます。山師や、探検家の連中です。コルテスと、その品行方正な友人どもがスペインからやって来たとき、メキシコがどうなってしまったか、おぼえておられるでしょう。貪欲で、うぬぼれの強い偏屈者どものために、一つの文明がほろぼされるのです。歴史は決してコルテスを許さないでしょう」
    「わたしに何ができたでしょう。あなたと議論すればよかったのですか。ひねくれた、ねじくれた、貪欲な地球ぜんたいの組織とたたかっているのは、わたし一人です。やつらは、汚らしい原水爆をここへ運びこみ、基地を建設して、戦争を始める気なのです。惑星を一つ駄目にしただけでは不足なのでしょうか。他人のかいば桶まで汚さなくては気がすまないのでしょうか。単純きわまるお喋りども。わたしはここまで昇ってきたら、かれらのいわゆる文化から解放されたのみか、かれらの倫理やしきたりからも解放されたという気持になったのです。かれらの関係の枠から外されたという感じです。だから、わたしはあなた方を一人残らず殺し、わたし自身の生活を生きたいのです」

    侵略者=人類の悪行を取り締まる、おまえはいったい何者か? 神にでもなったつもりか? 良心にしたがうフリをして、自分を絶対の存在とみなす人間ほど危険なものはない。たとえ人類がろくでもない存在だとしても、自分を客観視できない人間に支配されるよりはマシなんだよ。だが、火星人に勝手に憑依したスペンダーが隊長に射殺されるのを、誰も(火星人も)止めなかった。だって、スペンダーは火星人じゃないんだから。他人に勝手に憑依して正義をふりかざす輩の末路はいつも虚しい。

    ところで、数千年も前の廃墟だというが、表題を見るかぎり地球時間ではわずか1年ほどしかたっていないはずで混乱する。だいたい、地球人が暮らせるほどの大気があるなら、それだけの期間無人のまま放置されてたら風化→侵食されるはずで、そのあたりの整合性もよくわからない。

    「夜の邂逅」より。

    火星人が姿を消し、万単位の地球からの移住者が火星にやってきて、木を植え、町を建設する。トマスはある夜、火星人と出会うが、お互いに相手に触れることはできない(通り抜けてしまう)。トマスに見える世界は火星人には見えず、火星人に見える世界はトマスには見えない。

    「しかし廃墟が証拠じゃないかな! わたしが未来の人間であり、わたしが生きていて、あなたが死んでいるということは、廃墟が証明しています!」
    「ところが、わたしのすべては、それを否定しています。私の心臓は悸っているし、胃は飢えを感じるし、喉は渇きます。そう、死んでいるのではない、生きているのでもない。わたしたち二人ともそうです。しかし、生きているというほうが近いでしょう。あいだに捉えられた、といえば一番正確でしょうか。夜のなかで擦れちがった二人の見知らぬ者たち。それだけです。擦れちがった二人の見知らぬ者たち。廃墟ですって?」
    「そう。こわいんですか」
    「未来を見たがる人がどこにいますか。未来を見た人はどこにいますか。人は過去を見ることはできるけれどもーー柱がこわれているんですって? 海は涸れていて、運河は干あがって、女たちは死に、花はしぼんでいるのですか?」「しかし、あそこにある。わたしには見える。それだけで、わたしには充分じゃないですか。あなたがなんとおっしゃろうと、みんながわたしを待っている」

    「火の玉」より。

    宗教的狂信者ほどやっかいなものはない。その信仰心ゆえに、話し合い(という名の妥協点の探り合い)の余地がなく、自分が正しいと信じたことをただ相手に一方的に強要するだけで、悪びれるところがない。信心深い人ほど、本質的には、異質なものを認めず排除するだけの侵略者であり、異なる文化や多様な考え方の破壊者であるということは、もっと知られていいと思う。ペレグリン神父の妄言の数々。

    「いいですか、アダム一人では罪は成り立たない。イブを持ってくれば、そこに誘惑という罪が生まれる。もう一人の男性を持ってくれば、そこにはたぶん姦通という罪が生じる。つまり性(セックス)や第三者が罪を生むのです」(←全然違う。アダム一人では生命が成り立たず、アダムとイブがそろうことではじめて生命が誕生し、別の男性や女性がそこに加われば、生まれるのは罪ではなく、多様性。自分たちだって命ある存在なのに、それを頭から否定するからややこしくなるんだよ。生きてること自体を罪にしないと都合が悪いのは、ゴーイングコンサーンとしての宗教団体であって、生命現象としての人間とは本来、なんら関係のない話なんだよ!)

    「それから、もし腕というものがなければ、人間は他人を絞め殺すことができない。すなわち、殺人という罪はあり得ない。ところが、腕というものを付け加えた途端に、そこには新しい暴力の可能性が生じる。アミーバは分裂生殖をするから、罪を犯さない。他人の妻を寝取ったり、たがいに殺し合ったりする必要がないのだからね。したがって、アミーバに性(セックス)を付け加え、腕や足を付け加えれば、殺人なり姦通なりが新たに生まれはしないだろうか。腕や足や第三者を付け加え、または取り去れば、悪を付け加え、または取り去ることになりはしないだろうか」(←違う違う。腕(前脚)のない生き物はそもそも生存競争を生き残れない。他の種との生存競争がない環境においてはじめて暴力や殺人が(人間社会におけるルールとしての)罪になるのであって、生き残るための闘いそのものが罪であるはずがない。生き残ることが唯一の根本的な使命である生命体に、生き残るための闘いが罪であるということは、おまえら存在するな、というに等しいのだから)

    「火星にはアダムもイブもいません。原罪がない。あの火星人たちは、ひょっとすると、神の恵みをいっぱいに受けて生きているのではないでしょうか。だとすれば、われわれは町に戻って、地球人の救済にとりかかってもいいはずです」
    「そうだ、ストーン神父。しかし火星人は、われわれ地球人の開拓者を殺したことがある。それは罪にまちがいない。そのほかにも、何かしら原罪があり、火星独特のアダムとイブがあるはずだ。それを見つけなくてはいけない。不幸なことに、生きものは、たとえどんなかたちをしていようと生きものであり、罪におちいりやすいのです」(←だから、生きてるだけで罪ってのは、人間が勝手に生み出した論であって、ほかの生き物にそのまま適用するなよ。罪なんかあるわけないじゃん。先に原罪ありきで、目の前の現象を無理やりそれに当てはめようとするのって、頭の悪い人がすることで、虚心坦懐に、まずは目の前の現実をじっくり観察して、そこから何か共通するルールを導き出すのが筋でしょ。発想が逆なんだって)

    「かれらが異形のものであることが、それほど気になりますか」「かたちとはいったいなんです。神の与え給うた魂を入れるうつわにすぎない。もし、あしたにも、イルカが出し抜けに自由意志や知性を獲得し、罪や生命のなんたるかを知り、正義と愛を求めるようになったとすれば、わたしは海底に大伽藍を建てるつもりです。もしもスズメが神の意志によって、奇蹟的に、永遠の魂を得たとすれば、ヘリウムを詰めた空中教会をつくらねばならない。なぜといって、あらゆる魂は、たとえどのような外見であろうとも、自由意志と罪の意識をそなえている限り、聖餐拝受(コミュニオン)をしないと地獄へ堕ちるさだめにあるのです。たとえ火の玉の火星人であろうと、そのかたちが異様であるからといって、地獄へ堕ちるのを放任しておくわけにはいかない」(←いやいやいや、放っておいてやれよ。あんたの神様も、あんたの地獄も、火星人にはなんの関係もないのだから。人間の世界にもいい言葉があるよ。地獄への道は善意で敷き詰められているってね)

    オーディブルはレイ・ブラッドベリ『火星年代記』の続き。

    「名前をつける」より。

    「だが、何もかも安定し、こざっぱり配置され、すべてが安全確実になり、町が繁栄し、さびしさが少なくなると、すれっからした連中が地球からやって来た。パーティのために、休暇を楽しみに、買物や、写真の撮影に、あるいは単なる「ムード」を求めて、やって来た。社会学の法則を研究したり、適用したりするために、やって来た。星章や、バッジや、規則や、掟を持って、やって来た。雑草のように地球を覆っていた公文書を持ちこんで、それを火星に植えつけた。人々の生活を規制し、図書館を規制した。命令され、掟に縛られ、小突きまわされるのが嫌で火星へ来た人々が、命令され、掟に縛られ、小突きまわされるようになった。
     だから、必然的に、そういう人たちの一部は反抗を企てたのである……」

    ゴールドラッシュのフロンティアに最初にやって来るのは、既存社会からはみ出した荒くれ者たち。自主独立の気風と開拓者精神にあふれた彼らは、既存のルールにがんじがらめにされることを嫌う。サイバー空間がまだフロンティアだったときの先住民(インターネット老人会の中でも過激な人たち)に、ゴリゴリのリバタリアン、ディセントライゼーション信奉者、分散型ネットワーク支持者が多く、リアル世界の既存政府による規制を嫌うのには、ちゃんと理由があるってこと。だが、ネットが普及し、サイバー空間がフロンティアではなく日常になるにしたがって、冒険よりも安心・安全が求められるようになり、そのためにルールが必要となって、否応なしにリアル世界のルールにからめとられていく。イノベイターだけの世界、それに追随するアーリーアダプターだけしかいなかった世界と、キャズムを超えて、マジョリティが参入してくる世界では、おのずから求められるものが違ってくる。そのパターンは、どんなフロンティアでも同じようにくり返され、活気あふれる(その代わりリスクも異様に高い)フロンティアはやがてフロンティアとしての魅力を失う。それは、世の中の多数派にとっては「成功」であり「進歩」であるんだけど、フロンティアの住人はそこに安住できないから、次なるフロンティアを探して永遠にさまよい歩くことになる。種族が違うというか、人類に対する貢献の、そもそもの役割が違うという感じ。

    「火星の人」より。

    「わたしは、誰でもありません。わたしは、ただ、わたしなんです。どこにいても、わたしは、何かになっている。そして、いまは、あなたにはどうすることもできない物になっているんです」

    人は自分の見たいものしか見ない。死んだわが子が目の前に立ち表れたら、たとえそれがウソだとわかっていても、信じたくなるのは人情かもしれない。そこまではなんとか理解できるんだけど、信じたいと願う気持ちと、実際にそれを信じてしまうこととのあいだには、越えることのできない大きなギャップがあって、次々とわき起こる違和感(というか、その相手の存在を全否定する自分の信念)を無視することは、自分にはできそうもない。

    「帰らなければいけない。もう一度アンナを悲しませたくないのだ。おまえは、わたしたちの息子だ。わたしたちのものなんだ」
    「おまえは、この家のものでも、ここの人たちのものでもない!」

    故人を悼む気持ちは尊いし、故人の思い出を独り占めするのは勝手だが、わが子であっても、親であっても、夫や妻、恋人であっても、生きていれば、それは別人格。「わたしのもの」ではもともとない。それを死んだあとまで「わたしのもの」だと言い張るのは、ただの執着でしかない。それって、亡くなった相手を思ってのことではなく、ただの自己満足、自分の独占欲を満足させたいだけだよね。それこそが、誰でもない「わたし」にとっての罠だった。人口の多い場所にいれば、誰かの願望にからめとられ、写し鏡のように、その人が見たい姿に形を変えてしまう「わたし」にとっては。

    「人びとの眼前で、かれは変身した。かれはトムであった。ジェームズであった。スウィッチマンという名の男であった。バタフィールドという名の男でもあった。かれは市長であり、ジュディスという少女であり、夫のウィリアムであり、妻のクラリッスであった。かれは、人びとの心のままに形をとる熔蝋であった。人びとは叫び声をあげ、ひしめき寄り、泣いて訴えた。かれは両手をひろげて、悲鳴をあげた。その顔は、一つ一つの要求につれて、変わった。「トム!」ラ・ファージュが叫んだ。「アリス!」もう一人が叫んだ。「ウィリアム!」人びとはかれの手首をつかんで、旋風のようにぐるぐる引きずりまわした。とうとう最後のおそろしい悲鳴をあげるや、かれは地面に倒れた。
     かれは石の上に横たわっていた。冷えてゆく熔蝋、その顔は、あらゆる顔、片目は青く、片目は金色、髪の毛は、茶色で、赤で、黄で、黒で、片方の眉は濃く、片方は薄い、片手は大きく、片手は小さい。
     人びとは、かれのうえに身をかがめ、そしてかれらの口にかれらの指をあてがっていた。人びとはひざまずいた。
    「死んでしまった」誰かが、とうとういった。
     雨が降り始めた・
     雨は人びとのうえに降り、人びとは、だまって空を仰いだ。
     ゆっくりと、それからしだいに早く、人びとはくるりと振りむいて歩み去った。それから、さっと駆け出して、その場から遠ざかっていった。一分もたたぬうちに、その場所に人影はなくなった。ただ、ラ・ファージュ夫妻だけが残っていた。手に手をとりあい、目を伏せ、おののきながら」

    結局、あれだけ「わたし」のことを求めておきながら、「わたし」のことを気遣っていた人などいないのだ。「わたし」は「わたし」であって、決して「あなたのもの」じゃないのに。

    オーディブルはレイ・ブラッドベリ『火星年代記』の続き。

    「地球を見守る人たち」より。地球から届いた光線通信=モールス信号。

    「貯蔵原爆ノ不時ノ爆発ニヨリ豪大陸ハ粉砕サレリ。ロサンゼルス、ロンドンハ爆撃ヲ受ク。戦争勃発ス。帰リキタレ。帰リキタレ。帰リキタレ。」

    『火星年代記』が書かれたのは1940年代。原爆はあったが、まだ人類は宇宙に進出していない。そんな時代に火星への移住物語が書かれたのは、きっと、宇宙進出の夢というよりも、核戦争で地球が破壊されることへの恐怖と、それを逃れるには火星に移住するしかないというある種のあきらめというか、覚悟というか、そういう切迫した思いがあったからだろう。砂漠化と乾燥による飢えという人類存続の危機感が『インターステラー』を生んだように。核戦争から逃れるため、宇宙人の侵略から逃れるため、臨界点を超えてしまってもはや修復できなくなった自然環境を取り戻すために、人類は地球を脱出する。エクソダス。

    放射能汚染された地球も怖いが宇宙線はもっと怖いとか、1キロの重量を打ち上げるのにどれだけコストがかかるかとか、そういうことがわかるのはもっと先の話だから、レイ・ブラッドベリ本人がいうように、『火星年代記』はSFではなく、ただの想像上の産物(ファンタジー?)なんだろうけど、かつてのフロンティアに人が群がり、民族大移動が起きるのは、もしかしたら、「元の場所にはもういられない」「そうせざるを得ない」という負の理由のほうが大きいのかもしれない。

    最初にフロンティアに足を踏み入れるのは、ゴールドラッシュのようなある種のバブルに惹かれた人たちかもしれないが、それが本格的な移住のフェーズに移行するには、もっと別な理由が必要ではないか。なんらかの危機からの「脱出」というのは、その最たるものかもしれない。

    「沈黙の町」より。

    核戦争によって地球が壊れるのを目撃した人たちは、我先に故郷・地球へと帰還する。いまなら、本当に核戦争が起きたのなら、そこには近づかないのが賢明だと思うけど、当時はそんな知識はまだなかったのだろうか。火星に残ったごくわずかな人たちの、その後。

    「長の年月」より。

    考古学の調査で山中にいて、火星から地球へ帰還するロケットに乗り遅れたハザウェイは、家族を亡くしたあと、死んだ妻や娘、息子にそっくりなロボットをつくって、なんとか正気を保っていた。そこへ、かつてのボスで、20年間も木星、土星、海王星などの外惑星を探検していたワイルダー隊長がやってくる。老いたハザウェイは喜んだが、それが最後の輝きとなってこの世を去る。ロボットの妻の言葉。

    「主人はわたくしたちに悲しい思いをさせたくないと申しました。いつかは、そういうことが起こるだろうが、泣いてもらいたくないと申しました。つまり、わたくしたちに泣くということを教えてくれなかったのですね。教えたくないと申しましてね。孤独で、悲しくて、泣くということは、人間の身に起こり得る最悪のことなのだと主人は申しておりましたわ。ですから、わたくしたちは涙も悲しみも知りません」

    言葉を奪い、概念に蓋をし、脳裏から消し去る。そうすれば、その感情をなかったことにできる。なんていうことは、そうしたものを最初から持たないロボットだから可能なのであって、生存本能と結びついたものを、そう簡単に消し去ることはできない(はず)。

    ハザウェイ亡き後ロボットをどうするか。処分できなかった、「あの連中を破壊したら殺人です」という部下に対して、ワイルダー隊長がいはく。

    「あれほどみごとなものは、もう二度と出来ないだろう。かれらは長もちするように作られている。十年か、五十年か、二百年か。そう、かれらにも、きみやおれやほかの人間と同様、何といったらいいかーー生きる権利があるのだ」

    それはそうかもしれない。が、ロボットに死はないというのは幻想だ。機械部品を使っている限り、それは摩耗し、経年劣化し、やがて機能を果たせなくなる。高度なメンテナンス抜きにして、ずっとそのままの機能を保持できるはずもなく、日々細胞が生まれ変わる生命体と比べると、はるかに耐用年数が短いはずだ。自己修復機能が備わっているなら話は別だが。

    オーディブルはレイ・ブラッドベリ『火星年代記』が今朝でおしまい。

    「優しく雨ぞ降りしきる」より。2036年に地球で核戦争が起き、火星からほとんどの人間が地球に帰還してほぼ無人となった21年後の2057年の火星の廃墟の町。21年間も無人のまま、自動音声アシスタントが毎日住人に呼びかけ、ネズミ型の掃除ロボットが掃除をし、食事ロボットが食事をつくって出しては、後片付けをし、決まった時刻に子ども向けのおもちゃが勝手に騒ぎ出し、就寝時間になると毎日いまは亡き奥様に違った詩を朗読する地獄絵図。だが、何度もいうように、メンテもなしに、20年以上も動き続ける機械なんてないし、仮に太陽光発電でエネルギー供給が途絶えなかったとしても、送電線も配電盤もみんないつかはダメになる。無人の廃墟でロボットだけが動き回る世界というのはシュールかもしれないけど、現実には絵空事以上のものではない。

    「百万年ピクニック」より。核戦争で死滅した地球から最後に火星にたどり着いた一家の物語。地球からわざわざ持ってきた多くの書類(地球の記憶)を火にくべて焼くパパいわく。

    「わたしは、いま、生き方を燃やしているのだ。ちょうど、いまごろ地球の上で、燃えて消えてしまおうとしている、あの生き方みたいな。政治家みたいな話し方だったら、許してほしい。結局、わたしは、もと州知事だった人間だ。わたしは正直だった。だから、憎まれた。地球上の生活は、けっして、良いことを行えるような状態に到達することがなかった。科学は、わたしたちを置いて、あまりに早く、先へ先へと進んでいってしまい、人間は、機械の荒野の中で、道に迷ってしまって、ただ子供のように、きれいなものに、器械仕掛けに、ヘリコプターに、ロケットに熱中し、まちがった方向ばかり強調したーー機械をいかに用いるか、ではなくて、機械そのものばかり強調した。戦争は、どんどん大規模になって、ついに、地球を滅ぼしてしまった。ラジオが沈黙したのは、そのせいなのだ。わたしたちが逃げ出したのは、その戦争からなのだ。
     わたしたちは、運がよかった。もうロケットは、一台も残っていない。この旅行が、魚釣りのピクニックではないことは、もうわかっただろう。わたしは、おまえたちに事実を打ち明けるのをのばしてきたのだ。地球はもう失くなってしまった。惑星間旅行は、今後何世紀のあいだ、行われることはないだろう。ひょっとすると永久にないかもしれない。だが、あの生き方は、それがまちがいだったことをみずから証明して、われとわが手で、自分の首をしめてしまったのだ。おまえたちは、まだ小さい。よく頭に入るまで、わたしは、これから毎日、この話をしてあげよう」

    人類が到達した世界が、人間の飽くなき欲望=知的好奇心が真理を追い求めた結果だとすると(そして、実際それはそのとおりなのだけど)、過去に蓄積された知識を焼いて「なきもの」にしたとしても、人間はやがて、また同じ真理に到達するだろう。真理はつねにそこにあり、暴かれることを待っているのだから。だから、問われるべきは、そうして得た真理といかに上手につきあっていくか、みずからの行動をいかにコントロールするかであって、真理を覆い隠すことではないはずだ。知識に蓋をする焚書や、ある言葉をなかったことにする思想統制では、人間のふるまいは変えられない。われわれにできるのは、失敗から学ぶことだけだ。失敗そのものをなかったことにしてしまっては、きっと、というか、必ず、同じ過ちをくりかえすことになる。

    物語の最後、「火星人に会わせて」と子どもたちにせがまれたパパが「そこにいるよ」と見せたのは、運河の水に映る自分たちの姿だった。火星人は自分たちだったのだ。(そうして、本書の頭に戻る。なぜ火星人は、地球人の言葉を話し、地球人とまったく同じ暮らしをしていたのか)

  • ※2018.9.24購入@kindle版

  • 面白い。短編は苦手なので慣れるまで章ごとにブツ切りにされる流れにノリきれなかったが章はどれもめちゃくちゃ面白いし後半に行くに連れ前半の登場人物が再登場したりと積み上げられていく年代記たるカタルシスがあって興奮した。「世にも奇妙な物語」みたいな藤子不二雄のブラックSFのようなゾクリとさせられる展開がこわごわ面白い。淡々と個々のエピソードを羅列していくことで全体像を見せつつ、2つの世界の興亡を風刺してしまうとは。唸る。

  • 火星探索が失敗する理由がユニーク
    短編集という感じでつまらない話もあった

    地球で戦争が起きたからって皆んな地球に帰るとは思えない、むしろ火星に逃げてくるのでは?

    火星人と地球人は文明として交わることは無くお互い滅びたってのは面白かった。リアルではむしろありそうな事。

  • Audibleより。
    火星(人)と地球(人)の27年にわたる関わり合いを描いたオムニバス短編。SFの世界観ではあるが、複雑なサイエンス要素があるわけではなく、純文学とでも言ってしまえるくらいには、「人間」というものを描き出していると感じた。
    一編一編のつながりもあまりないので、ゆっくりと時間をかけて読むのも楽しいかも。特筆して面白い編があるというよりは、全体を通してこそ一編一編が輝き出すと思う。読み終えたら、また最初から読み始めたくなること間違いなし!



  • 「大きい美しい物を損なうことにかけては、わたしたち地球人は天才的なのですよ」

    「つまるところ科学というものはらわたしたちに証明できない奇蹟を研究することであり、芸術というものは奇蹟を解釈することであるからです」

    「一体われわれとは何者だろう。多数派か? それが答なのか。多数はつねに神聖なのか。つねに、つねに、つねに神聖で、ほんの一瞬たりとも誤りであることはないのか。一千万年経っても正しいのか。そもそも多数とはなんだろう。だれが多数なのだろう」

  • 別惑星と地球との関わりをモチーフにした物語はいくつか読んできたが、今まで読んだものとは少々印象が違い、まさに「年代記」という感じだった。淡々と、それでいて細かい描写で情景が描かれ、短いお話が連なっていき、時が進んでいく。謎を解明する、とか、そういうワクワク感はあまりない。ただひたすらに火星人や地球人といったヒトの振る舞いや考えが、個人レベルで、はたまた惑星規模で動いていくだけである。

  • 言葉と言葉が響き合ってわずか数行の文章が一枚の絵画のように顕れてくる。その絵の美しさと言ったら! 連作短編によって、人類が火星と遭遇しその行く末を描く。 中盤あたりで人類の”野蛮な”侵略によって火星人は滅びてしまうわけだけど、その火星人の描かれ方というのが面白い。火星人が登場する数作を通して、テレパシーが使えるといった点や人類に似通っているといった点では共通しているけれど、どうにも人類とは違う。

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著者プロフィール

1920年、アメリカ、イリノイ州生まれ。少年時代から魔術や芝居、コミックの世界に夢中になる。のちに、SFや幻想的手法をつかった短篇を次々に発表し、世界中の読者を魅了する。米国ナショナルブックアウォード(2000年)ほか多くの栄誉ある文芸賞を受賞。2012年他界。主な作品に『火星年代記』『華氏451度』『たんぽぽのお酒』『何かが道をやってくる』など。

「2015年 『たんぽぽのお酒 戯曲版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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