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感想・レビュー・書評
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自然は全てに寛容やな。
富士は何も変わってないのに、自分の心情の全てをありのまま受け入れてくれる。
※耳読書 -
富士山が俗物に見えても、頼もしく見えても、酸漿にみえても良いんだ。どんな感情でも受け入れてくれる時にはあまりにも広大で、時にはあまりにも小さな富士。
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執筆のため滞在していた御坂峠の茶屋から見える富士山を、揶揄し、散々こきおろしている。河口湖を抱きかかえるようにして広がる荘厳な姿を、やれ風呂屋のペンキ画だの、やれ芝居の書割だのと侮辱する。かと思えば「富士はえらい。よくやってる。」などとほめたりもする。
何を隠そう、この年になっての初太宰。気難しい文を書く人なのかと思いきや、このお茶目さ。もっとこの人を知りたくなってきた。
この時期に井伏鱒二の紹介で、後に妻となる女性と見合いをしている。額縁に入った富士の写真を見るふりをしてからだを捻じ曲げ、戻るときにちらりと相手の顔を見届ける。そして「きめた。」と。太宰本人のホンネのエッセイは楽しい。
昭和14年2月の作品。 -
ベルリンからアムステルダムのバスの中で
なんかこれを読むとスッとした気持ちになる。
日本に帰りたくなった。富士山が見たい。
次は国内旅行で、旅館でゆっくりする旅をしたいと思った。 -
今は冬、寒い時期に読んだせいか、どてらを二枚重ねで着て熱い番茶をすすっている主人公の姿がやけに印象強く残った。
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随筆のような。朗読の時間
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NHKラジオで朗読を聞いた。朗読でも聞きやすい小説だった。
富士の見方を通して主人公や周りの人を描いている。 -
「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治による代表作のひとつ。初出は「文化」[1939(昭和14)年]。東京での生活に傷ついた「私」が井伏氏の待つ富士山麓へと行くという物語。「私」はあまりにも俗な富士に辟易しながらも、そこでの人々との交流を通して少しづつ心を開いていく。井伏鱒二の勧めで御坂峠の天下茶屋に行ったことや石原美知子と見合いをしたことなど、太宰が1938年に実体験した出来事が素材となった作品。
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簡単そうな文に思えて、登場人物の視点がたくさんあるのでかなり難解な作りになっている。
文中の「単一表現の美しさ」については、まだ疑念の残るところもあるが、太宰治の価値観を知るためには、この部分の読解がかなり重要になるので、太宰治が良いと語っているものを、頭の中で整理しながら読むべきだと思う。 -
他の感想書いてる人ほど深く読めなかったけどおもしろかったよ
最後は皮肉が効いてて痛快ですね
富士山の描写が綺麗 -
さすが太宰。洒落ています。毎日富士を相手に相撲をとりつつ、様々な登場人物の描写が面白い。さらに内容も面白いけれど、時代も面白い。まだ小説家が宿に泊まり歩き文章を捻り出していた時代。現代の作家だったら破産しちゃうね。お見合いをしてすぐに結婚を決心したなんて件も全然真剣さが感じられないし。富士を馬鹿にして始まった話が、最後の場面で頼まれた富士をバックにした写真撮影で、モデルを無視して富士だけ納めたというのが皮肉が効いていて可笑しい。今のデジカメ世代じゃできない芸当。
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太宰治先生と一緒に会話して時を過ごしているように感じた一冊。このエッセイに井伏鱒二先生と佐藤春夫先生が出てきたのには驚いた。小説家の普段の生活が垣間見れ、時代や世代を超えた交流に幸せな気持ちになった。
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読了後の清々しさ。
短い文章だがそう感じさせない。 -
太宰作品の中で一番好きな作品。
一貫してゆるゆる時間が過ぎるような作品で、何時に読んでも昼下がりと思い込んでしまう。極め付けは富士山をバックに写真を撮ってくれ、と女性に頼まれた主人公が、女性を排除して富士山をドアップで写した写真を撮るラスト。意訳するといたずらっ子がしめしめ、といたずら成功を静かに喜んでいるような最後はなんだか清々しささえ感じる。
このくらい適当に生きてえなあ、と読むたび思うなどしている。 -
何度か読んでやっと理解したように思う。
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青空文庫で読了。富士山が望める御坂峠で過ごした時の日記です。話が泥沼化する不安を抱えながら読み続けましたが、さすがに自身の結婚も絡んでる事もあり、珍しく爽やかな作品です。もちろん爽やかと言うのは、他の作品と比べての話ですが...。
富士山に何だかんだイチャモンをつけながら、結局は富士山が好きなんでしょう!素直じゃありませんね。しかし「三七七八米の富士の山」、今より2メートル高かったようです。「富士には月見草がよく似合ふ」、これは何となく共感できました。 -
一言で言えば、人恋しさ。どんなにすれていようが、ひねくれていようが、人は人のいる世界にいるからこそ人。富士を見ようが花を見ようが、どこか人を重ねて見てしまう。ほっとするようなお話。
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ここのところ仕事が忙しかったり、司馬遼ばかり読んでいる感覚があったこともあり、何か沁みる。小説ともエッセイとも言えない感じ。加えて確かこの作品、高校の時の国語の教科書で取り上げられたもので凄く懐かしい。そして詰まるところ、日本人にとって富士の山は日本一の山ということに尽きるかと。
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2017.8.1
これもなんかこう、さらっとしていて、いいなぁ。富士には月見草がよく似合う。目の前の素朴な美しさを一挙に掴み取って紙に移す、的なことが書いてあったけど、その通りなのかもしれない。こちらの心の中にある美を描き出すか、世界にある美を写し取るか。主客二元みたいな考え方になるけど、それによって小説のタイプは変わってくるのかもしれない。斜陽や人間失格とかは前者だけど、この作品は後者のように思える。
だとするなら、でも私は、前者が好きだなぁ。 -
「御坂峠、海抜千三百米。…ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つに数えられているのだそうであるが、私は、…軽蔑さえした」
おそらく大部分の人はその絶景スポットと言われる場所へ行きたがり、感動し、写真を撮るだろう。だが、そのいかにも、典型的な、普通の、富士を嫌うというのが、太宰だとおもう。その富士の顔からは、なんの感情も感じないからだと思う。 -
『翻訳百景』のタイトルはこの本からと越前氏が言及されているので、今更ながら読んでみた。太宰は『斜陽』が好きなんだけれど、これはこれでいい!日常のささやかな描写に太宰の素直さやはたまた天邪鬼さが出ている。いつか富士山が見える旅館(ホテルじゃだめだなあ)に宿泊してこの本を再読したい。
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高校時代に読んで以来読んでおらず、久々に読みたくなった。
見方、心情によっては心細かったり、頼りに見えるなど変化に富む富士。
私なんかは新幹線からでしか富士山を見たことがなく、常にどっしりと構えているイメージを富士に対して感じていたので、こういう見方もあるんだと新鮮に思った。
人の優しさを感じるエピソードがちらほらとあり、読むと心温まる作品。この作品、なかなか好きです。 -
大好きな本
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ひとつひとつのエピソードがほんとに魅力的。富士山のある県に生まれてよかった。再読確定。
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本作が手記に近い手法であると理解した時点で、氏の履歴を併読しながら読み進めました。
この頃までに氏が「藁一すぢの自負」となる苦悩をどのように経てきたのかを理解する事こそ、本書における正しい富士の見え方なのだろうと単純に思い至ったからです。
しかしふと振り返り、この曖昧で揺らぎのある富士の情景が果たして「太宰治」という人格を理解されたくて表現されたものだったのか。
実はそれこそ思考放棄で、本来はその時の読み手の気持ちに沿った富士山を映し出させる事こそ本書の目指す所だったのではないか。
考えは尽きません。
中々に深い。