- Amazon.co.jp ・映画
- / ISBN・EAN: 4932545986821
感想・レビュー・書評
-
東日本大震災発生から15日後、2011年3月26日。
放射能検知器を搭載した車は、4人のドキュメンタリスト―作家・映画監督の森達也、映像ジャーナリストの綿井健陽、映画監督の松林要樹、映画プロデューサーの安岡卓治―を乗せ、被災地を目指して出発した。
ガイガーカウンターが激しく反応するなか、東京電力福島第一原子力発電所への接近を試み、津波の被害を受けた土地を訪ね、岩手・宮城を縦走。
そして津波に飲み込まれた石巻市立大川小学校へと向かう。
依然として行方が分からないままの我が子を探す親たちの言葉がメディアの姿勢をも問う。
遺族を前にしながら、ビデオカメラを廻し続ける彼らにも、厳しい批判が向けられる。
そして4人の男たちは、被災地の圧倒的な惨状を写すカメラを、こともあろうに180度返してみせるのだ。
するとそこには、恐怖と混乱のなかで否が応でも高揚し、やがて自らの無力さに思い至って押し黙るほかに術のない、彼ら自身の姿が映し出されていた。
それは、マスメディアが決して露にすることのない、しかし、現実に存在していた“撮る側"にいる者の素顔なのだ。
本作『311』は、震災の混乱が色濃く残る2011年10月に開催された山形国際ドキュメンタリー映画祭にて初上映。
文字通り賛否両論の嵐、一時は劇場公開が危ぶまれるほどの論争を巻き起こした超問題作である。
津波に流された家が無残な姿を晒し、「見つかって欲しいけど、見つかるのが怖い気持ちもある」複雑な思いを抱え津波に流された子供などを探す遺族の複雑な思い、遺体を収容する遺族のセンセーショナルでわかりやすい見せ物として報道するマスコミに対する不信、最初ははしゃいでいたが津波に流された震災の傷痕を見て立ち尽くす森達也たちから炙り出される、東日本大震災の被害の前に立ちつくしながらも微かな望みを持って生きる被災者の姿、そしてそんな被災者を取材するマスメディアを、ありのまま描き出したドキュメンタリー映画。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
遺体を探す人たち、津波の体験を語る人たちを見ていて辛いけれど、災害はいつ起きてもおかしくないし、こういうこともあるのだと知らなくてはいけない。見る限り土砂と瓦礫。絶望しかない。それでも、家族の絆を感じるし、地域の力も感じる。人は生きていれば強い、なんとかなるという気がする。この人たちはいまどうやって生きているのかな。私たちはここから学ばなきゃ。自分で自分の身を守るんだ。それを強く感じた。
-
オウム作品と比べて惹かれる感が低い理由は、Aシリーズは大手マスコミができなかったオウム側に立ち撮影しての、それも大衆の反発を必然的に食らう手法でその辺にアングラ感があるんですけど、本作の方向性は大手メディアが進めてきたものと同じですし、地震直後だったこととちょいと生っぽい感じに見えるブレがいいかなというくらいで、むしろこの数年後どんなトラブルがあるかっつードキュメントがあるといいのかもしれませんね。
-
東日本大震災をテーマにしたドキュメンタリー映画。
森達也、安岡卓治、綿井健陽、松林要樹の共同監督。
東日本大震災・福島第一原発事故発生から二週間後、4人はとにかく現場を確認しようと、被災地に赴いた。動機や準備などは不十分なまま、とにかくカメラを回していた。
被災地の惨状や現地の人々を写していたカメラだが、次第に撮り手を写し始める。そこには、戸惑い、立ちすくむ、彼らの気まずい表情が映し出されている。
森達也はインタビューで、「後ろめたさ」がこの映画のテーマなのだと言っていた。だから、カットしたいような場面もあえて残して映画にした、と。
そして、その後ろめたさは、実は多くの国民が少なからず抱えているもので、それはごまかさずに直視すべきものなのだ、とも言っている。
正直言って、ドキュメンタリー映画としてはかなり稚拙な印象だったけれど、「後ろめたさ」に関しては、思い当たる部分はある。
他のメディアが隠す部分をあえて露呈させて見せたこの映画、物議を醸したのも無理はないだろう。 -
ドキュメンタリーを撮る側も撮影対象にしながら、前半は原発、後半は津波にのみ込まれた被災地を描いている.
撮る側をここまで対象として組み込むのは今までの311には無かった撮り方だと思う.そういう意味ではさすが森達也である.
しかし、震災が個々の人間にもたらした物語が大きすぎるせいだと思うのだが、この短い時間ではそれらの物語をとらえられた感じがとても少なく消火不足を感じた.
森達也が子どもに対して家族はちゃんといるのかどうかを聴くシーンが、心に突き刺さった.(トークイベントでの質疑応答で、森自身そのシーンの際どさについて触れている) -
(劇場鑑賞)
東日本大震災発生直後、映画監督4人が被災地を訪れた模様を、
自分たちを被写体にしたドキュメンタリー映画。
本人たちも冒頭で話している通り、当初は映画公開の予定はなかったらしい。
そのため、特に前半は伝えたいこと、撮りたいことが曖昧だったが、
恐らくは取材の途中から、「遺体を探す」という被災者の行動を
ひとつのメタファーに据え、某かを表現しようと、
遺体を映像に収めることに腐心しているように感じた。
勢いで現地に行ったところで何もできやしない。
だけど、行かずにはおられないし、撮らずにはおられない。
伝えるという大義名分を振りかざしながらも、
甚大な被害を前に圧倒的な無力感、
ただ茫然とするだけの大の大人4人。
大多数の非・被災者が抱えていた、震災発生当時のふわふわとした、
落ち着かない心情、
更に言えば、恐らくは1年経ち、ふわふわはかなり薄まっている現在において、
本作のもつ警句や提案性は鑑賞に十分に値する。
が、それにしても、本作はやはり、いささか拙速であり、
自己満足の域を出ない。
森達也の得意とする、「表現しづらい煩悶」の過程を映像として残すことで、
結果的に某かを表現する、というクオリティには残念ながら至っていない。
その要因として、「A」や「A2」で見せた、
内側に入るという視点の欠落が挙げられる。
内側に入るということは、何かを肯定したり否定したりすることではない。
言うなれば、彼自身のスタンスの表明である。
表現者としての立ち位置の表明。
俺はどこから撮るか。その意思表明である。
本作ではそれが圧倒的に足りない。
議論のきっかけとなることも含め作品の存在意義だというのならば、それは詭弁だ。
大多数の人が陥る思考停止への警句こそ、森達也の真骨頂。
合作とはいえ、作中中盤から終盤にかけては
ほとんど森達作品と言っていいと思うが、
論点軸が定まっていない、どっちつかずの表現作品に、
投げかけの力は無い。