沈黙(新潮文庫) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  •  随分前に読んだ本ですけど、遠藤周作の代表作なのですが、私は何度読んでもこの小説より深い河や女の一生の方が心に響きます。

  • 自粛期間中に海外旅行に行けなかった代わりに、世界遺産について調べていた際に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」についてもっと知りたくなり、こちらを読みました。

    もともと宗教・哲学について考えるのが好きなのですが、やはりとても悩みながら読みました。
    神の沈黙、神様はいないと単純に思える私には簡単な答えだけれと、信仰者にとってはとても苦しい悩みになるのだと思うと宗教の存在意義がよくわからなくなってしまう。

    現地で資料を見たり、話を聞いてみたいなと、思いました。

  • 「強い者も弱い者もないのだ。 強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」

    めちゃめちゃ長い間積んでた。ずっと起伏がなかったり、曇りきった印象を私に与えていた。しかし読み始めてみると、その心的描写は凄まじいものであった。

    逆『異邦人』のような気がした。あちらが自分以外のすべての人がキリスト教を信じているのに対して、『沈黙』は自分以外のほとんどの人がキリスト教を信じていない。クライマックスで神父が棄教(『異邦人』では信仰)するように勧めるところも似ている。

    キリスト教を特段信仰していない身からすると、そんなに「転びます」と言うのが、踏み絵を踏むのが、最も忌避されるものなのかが分からなかった。それこそ形式上だけのものではないか。

    私は、キチジローに最も感情移入ができた。だって怖いじゃないか。拷問でも、信用の失墜でも。文中にもあるように、彼がもし違う時代に生まれていたら、もっと明るく振る舞っていただろうということを思うと目頭が熱くなる。

    人間は誰しも弱さは持っていると思う。それを恥じらうことも、また弱さなんだと思う。

  • ※何かしら信仰をお持ちの方は、この先ご遠慮ください
    ※この本は途中で挫折しました






    自分の確認不足だが、宗教の話だったので冒頭で諦めた。公平かつ冷静な感想が書ける気がしなかったからだ。

    自分の周囲の人間にとって宗教とは「教義を自己解釈でねじ曲げて他人を殴る武器」であり、自分は常に殴られる側だった。著者にも本にも罪はないが、宗教に関わりたくない気持ちはどうにもできない。

  • 震えるほど良い。外国人の聖職者視点で全て書かれてるのに、感情移入できることがすごい。

  • 映画も観ましたが、非常に重厚な一冊でした。自分がロドリゴの立場だったら?キチジローだったら?井上だったら?どの視点に立つかで読み方も変わる。重厚ながらも一気読みしてしまう一冊でした!

  • この文章は、noteで「沈黙。区別・非区別を越えて…」と題して綴った批評です。遠藤周作の沈黙に対してのみの批評ではありませんが、内容は含んでいるため、あげさせていただきます。
         
          区別を越え視座へ

     今年の秋頃、XのフォロワーさんがDMで、或るワインディング・ノートを引用してくださった。内容はとても素晴らしいものであった。僕は常々、沈黙について考えている。今回は、久々の批評である。まあ、批評というより、高校生の吐く不満だと思ってくれても構わない。しかし、実際に考えて欲しい…。先ずは、ある男の言葉を引用しよう。

    故郷を甘美に思う者は、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。

    by  サン・ヴィクトルのフーゴー

    フーゴは12世紀フランスの神学者だ。
    完璧な人間とは、少々高慢な物言いだが、人間として成っているものが、より良く日々を営むことを指すならば、それはひとつの、成熟であろう。思想というものは、我々が生きやすくするためにある。よく、哲学で人生が変わりました等という輩が、後を絶たぬが、彼等がその意味を、本当に考えてみたことはあるのか、少し疑問だ。

     柄谷行人さんは、小林秀雄さんのある言葉を批判したことがある。

    小林秀雄は母親なんか持ってきて、大衆は文学なんて何とも思ってないんだなんて言う。僕はその時小林は母親のような大衆と大衆社会の大衆というのを混同していると思う。それは吉本隆明についても言えるけど、身近な何とも言いようのない他者は、読者つまりメディア的な大衆とは違う。そんなもの一緒にはできない。表象としての大衆=他者と、表象を破ってしまうような他者を区別すべきだ。

    ここで整理すると…

    表象としての大衆=大衆社会の大衆
    表象を破る他者 =小林の母親

    ここで、もうひとつ引用する。
    これは、小林秀雄の言葉だ。

    和やかな目に出会う機会は実に実にまれである。和やかな目だけが恐ろしい。何を見られているか分からぬからだ。和やかな目だけが美しい。まだおれにはたどりきれない秘密を持っているからだ。

    この和やかな目は、小林さんのお母様のことである。小林さんが、大衆は文学なんて何とも思ってないんだと言ったのは、おそらくこう言う理屈である。
    昨今のカテゴライズ文化など見れば分かるが、凡てが通念的範疇で了解されており、時間をかけるということなどしない。現代は、宗教を否定し、時間を否定し、否定しないものは、自分の含まれる範囲のみである。文学というものが、心の動きを描けぬ上に、世間は、心の動きとは何ですか、という体たらくである。
    小林さんは、本居宣長研究に於いて、かむかう、ということに重きを置いていた。考えるとは、身をもって交わる。かむかうとは、考えるの語源である。実際、彼は批評とは、無私を得る道ということを言っていた。批評に限らずそれは言える。

    一方、柄谷さんは、区別と非区別について述べている。僕自身、これには何の魅力も感じない。そもそも、必要なのは、区別ではなく、変化である。存在というものは、認識を介さぬ限り、そのものであり、それ以上でも以下でもない。柄谷さんは、weight「待遇」の問題を言っているが、小林さんは、weight「待遇」を越え、視座のことを言っているのではないか。

         ノイズと非ノイズ

     世界は曖昧である。それは、嫌というほど見聞きした言葉であるかも知れない。それでも、今更かよというようなリアクション許りで、考えはひとつもありゃしない、というケースが殆どです。
    近代化は、更に言えば現代は、計算可能性の枠組みの内側である。余分な箇所は切り捨て、単純化していくのである。
    社会には、ノイズがない。非ノイズ空間である。社会で生きづらいと感じるなら、それは人間が、ノイジーな存在だからだ。世界とは、そもそもノイジーだ。
    人間は、あらゆるものを同化させることにより、円滑なシステム運営をしてきた。古の狩りに始まり、現代の新自由主義的な風潮にまで及ぶ。しかし、人間は逃避行をしてきた。それは、愛かもしれないし、芸術かもしれない。少し先の危険なことかも知れない。日々の些細な出来事に思いを馳せることかも知れない。もののあはれ、とは、まさにこの事である。もののあはれとは、ただ、嗚呼、味わい深いと詠嘆することに留まらない。その対象と、向き合うことだ。現実とは、計算可能性の外にあり、ノイジーである。そして、寛容さとは、表象的他者とそれを破る他者という分別を越え、その存在に向き合うことだ。現実をみよ、そうわめきながら、現代は歩みを進める。しかし、誰しもが、そのカテゴライズの内にあり、向き合うことなどしなかった。
    確かに花は秘められている。

           文学と沈黙

     夏目漱石の三四郎に、広田先生という人物が登場する。偉大なる暗闇である。
    誰しもが偉大なる暗闇を裡に秘めている。スティーヴン・ピンカーが、音楽は聴覚のチーズケーキと言ったからといって、リチャード・ドーキンスが、神は妄想だと言ったからといって、何になる。
    ハラリが虚構と言って、ガブリエルが、More Truth といっても、その先が無ければ意味は無い。我々は、個々人の辿った人生の文脈の上にある。その認識の限界の総合知としての文学。その視座は、重要なものだ。遠藤周作の沈黙の最後、ロドリゴは、神からのお告げをきく。しかし、それは、いわゆる神ではない。紛れもなく自分である。自分が信じてきた神、自分自身の文脈が、そうしたのである。沈黙に絶望する。 しかし、それは同時に主体性が形成されることでもある。時間をかけなければ、我々は主体的であることは出来ない。我々は繋がれない。しかし、繋がっていると思えば、権力にだって立ち向かえる。繋がっていると思えば、不安なことはない。前提というのも其れ等を形容したものの典型だ。信号待ちは、最も典型な形に思える。自由意思は、現代の科学では、幻想だとされている。
    我々は、常日頃、自由を説く。しかし、真に自由であるとは、生きることに沿う。それで良いのでは無いか。
     しかしながら、現代は、非ノイズな働き方で成り立っている。そこで我々は、ノイズと非ノイズの両方に足を入れることが、大切となる。国家がある以上、社会を生きなければならない。しかし、同時に、その外を生きることをしなければ、ニヒリズムに病み、エゴの塊となってしまう、それが今の我々だ。
    芸術とは、逃避行とは、そのためにあると、僕は思う。

         盲目でないとは

     よく、盲目でいるな!とか視野を広く!等と言う輩がいるが、そういう人々は殆ど必ず、現実を見よ、逃げるなという。しかし、本当に現実を見ているなら、地獄へ道連れのような風に誘うことはないであろう。人間は真実に沿うという必然性に突き動かされている。しかし、真実とは、現実とは、認識の畢竟であり、言うなれば、人間は必然的な幻視者だ。肉体は、世界を忠実には撮せない。ただ現実があるのみである。認識を持つが故の障壁を、文学や芸術は、それを乗り越える為の視座を与える。それは、うちなる静な爆発だ。システムや共同体を運営するに当たり、何かしらを妥協するのなら、曖昧さ、ノイズと非ノイズの入り混じるのを認識をした上で、試みるべきである。それは、めいめいが、カテゴライズによる分裂装置であることから救うことかも知れない。

     認識の差異により、繋がれず。それでも、時に何かに向けて繋がっているかのように感じる。この文章が、我々が動物である以上、避けることの出来ない無力さを、乗り越えていくための、ひとつのアプローチになればと思う。

     少し早いが、メリークリスマス!

  • 旅先の長崎の出津教会堂(世界遺産なんですよ!)の側に遠藤周作文学館があり、そこが「沈黙」の舞台であることを知りました。その場でKindleでダウンロードして読み始めたのですが、本をめくる手が止まらない止まらない。

    目の前の急斜面の山々と広がる海がそのまま本の舞台であり、「沈黙」の壮絶な歴史を知るとその風光明媚な景色がさらに美しく見えてきました。

    キリスト教とはなにか、信仰とはなにか、深く考えるきっかけになりました。ここで遠藤周作が表現しているテーマは、私にとって宗教とはなにかを考える上でのひとつの補助線になりそうです。

  • 人の力ではどうすることもできないことが、確かにある。
    それをどうにかしよう、どうにかしたいと思うのは、身の程を知らない愚行なのか。
    神にさえ、どうすることもできないのだから。

    宗教が与えてくれるのは「希望」や「救い」だけではない。
    信仰が故に与えられる「絶望」がある。

  • 私は遠藤周作の本を読むのは初めてです。NHKのこころの時代で遠藤周作の深い河をたどるという番組を見て、深い河を図書館で借りようとしたら、貸出中でした。
    代わりに借りたのが沈黙です。島原の乱の後のキリスタン弾圧のお話です。学校で習った時は激しい弾圧があったという言葉だけだったと思います。その内容を初めて知りました。
    深い河の話はインドでキリスト教の話でした。遠藤周作はキリスト教の神と日本人のキリスト教の神は違うのではないかという話を描いていたようです。この部分に私も惹かれました。
    沈黙の中でも、描かれています。

    心理学者の河合隼雄が欧米で学んだ心理療法が日本人に通用しなかったと言っています。日本人の心の研究をされて、箱庭療法を作りました。
    この事が私の中に浮かびました。

    私も無宗教ですが、載っているキリスト教の言葉があまり腑に落ちなかったです。都合よく解釈してしまう事は今でも起きていると思いました。

    この本の中には神とは何かという問いも感じます。画家の高橋弘子さんの個展でこの答えが書いてありました。私と同じような答えでした。高橋さんにお話を聞きました。
    学生時代に沢山の本を読み、現在はこのような答えになったと聞きました。

    私は90代の祖母がいます。祖母は神はいない、祈っても何も助けてくれないんだと泣いています。90年も生きている祖母がこのような答えになるのが衝撃でした。祖母は漢字の読み書きができません。つもり、本を読む事ができません。もっと沢山の本を読めたら、楽に生きられたのかもしれないのに。

    この本について、研究されている文を読んだのですが、元々のキリスト教は父性に対し、日本では母性を求められていると書かれていました。自分が腑に落ちないのはこういう教えの部分だったのだと思いました。

    このようなキリスタン弾圧になったのは、キリスト教布教とセットでポルトガルが何かを行おうとしていた事も感じます。私は歴史が苦手でしたが、様々な繋がりを感じる事で面白くなるのだろうと思いました。
    今回、書いた以外にも気になる事がありました。遠藤周作をまた手を出したいです。

  • 身近な人から薦められた本は、なるべく読むようにしている。この本もそう。
    島原の乱後の鎖国日本に潜入した若い司祭の史実に基づく歴史小説。構成の妙、気になる脇役、「沈黙」の意味。ワクワクしながら一気に読んだ。
    「日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ、パードレ(p290)」
    物語後半の井上奉行の言葉に、日本という国の“泥沼的”怖さを感じた。薦めてくれた方に感謝。

  • 神様の存在を心の拠り所にしたこともないし、都合の良い時だけ神頼みする不信心な人間にとっては、主人公や隠れキリシタンの人々の考えは正しく理解できないと思う。
    だから読み終えて、やっぱ神様っていないのかも、とか、そもそも神様って人を助けるために存在するんだっけ?とか、大変失礼なことを考えてしまった。
    ガチのキリスト教信者の人が読んだらどう感じるのか聞いてみたい。
    自分の弱さに負けて仲間を売り、そのことをずっと悔やみ続けるキチジローは、物語のなかでは許せない存在のように思えるけど、いざ自分が同じ立場になったら、彼のようにはならないと言い切れるか自信はない。
    で、えてしてこういう人って口では反省してるって言うけど、心の底では反省してないんだよなー、とか思ったり。
    話が深過ぎて、そして考えることが多すぎて、頭パンクした。

  • こうやって感想を書くのは初めてだから、ほぼメモ用

    何を以ての信仰か、信仰の形態のあるべき姿とは何かを考えさせられた。
    例えばキリスト教なら毎週日曜日には教会へ行く。懺悔や告白を聞いてもらう?
    仏教なら(宗派によると思うが)念仏を唱える。
    イスラム教なら礼拝やラマダンなどが、
    形式的な信仰としてあげられる。
    がしかし、必ずしもそれは必要なのであろうか。
    簡易的な信仰、と言ってしまえばそれだけなのかもしれないが、そういう知覚的な信仰の度合いを客観的数値で表すのは非常に難しく、単に教会へ毎週行っているから信仰心が強い、こっちの方が偉いと区別するべきでないと考えた。
    私は無宗派であるが、信じるものや宗教を見つけていない、とも言える。色々な宗教について調べて考えを比較し何も信仰しない、と選択したわけではない。キリスト教の考えでこれはいいな、という考えがあれば採用するだろうし、イスラム教の考えでそういうものがあっても採用するだろう。もしそれが互いの宗教では禁じられていたとしても。となると多宗派的なものに行き着くが、これはもはや信仰ではなく、教養、教義としての宗教に近いだろう。
    そもそも宗教とは何か。
    何を信仰し、どのように信仰するべきなのか(最早べき、という表現は正しくないようにも思えるが)これから本を読んでいく中で自分に問い続けていきたい。

    稚拙な文章ですいやせん。

  • 面白かった。一気に読んでしまった。確かに遠藤周作氏の傑作であろう。日本という国は、あらゆる宗教を日本流に変えてしまう(キリスト教のみならず、仏教ですら)。それはそれで良い所もあるのではと不信心な私は思ってしまうが、熱心な信者の方には許されないことなのだろうな。

  • 「神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。」

    衝撃の作品だ。
    キリスト教弾圧下での宣教師を描いた作品。
    井上が宣教師と話した、4人の側室の話はとても面白い。
    それに対する宣教師の回答はあまりにも受け入れがたいものであった。

  • 15年以上前に読んだもので再読。当時は、キリスト教はひどい宗教だなと言う感想しかなかったのだが、今読んでみると、キリスト教圏と日本との精神文化の違いと融和の困難性を描いていたのだなと感じた。それとカトリックには嫌われるだろうなと感じた。

  • 先日、長崎の大浦天主堂に行ったばかりなので隠れキリシタンへの解像度が高い状態で読むことができた。日本は沼地、キリスト教は根付かず得体の知れない何かに変容すると話す奉行。弱者とともに苦しみを分つことがキリストの愛と悟った司祭。司祭の極限状態の思考が迫るものがある。

  • 宗教に対して無知である為踏み絵が踏めない理由が分からない。ただ神というのは内に存在しており現代でいうと信念のようなもの。貫くも折れるも善でありそこに強みも弱みもない。
    他人の神の冒涜が一番の罪なので無闇矢鱈に口出ししない事を肝に銘じておく。

    キチジローは悪人にもなり切れぬ薄汚いただの襤褸のような人間だが自分が同じ場面にあったらキチジローのようになっていると思う。
    人間らしさがあって読み手としては嫌いにはなれない。

  • 今の日本に生まれて幸せなのは、
    自分の信念やアイデンティティなどと、
    自分を取り巻く規範のようなものと、
    切羽詰まった形で選択が必要な場面がないということも、一つあるんだろうな、と感じた。

  • オーディブルは遠藤周作『沈黙』を今朝から聞き始める。大昔に読んだ記憶があるけど、マーティン・スコセッシ監督の映画を何度も見たから、情景が目に浮かんでくる。

    あの尊敬すべきフェレイラ教父が棄教した。教父の教え子だったイエズス会の宣教師たちに動揺が走る。セバスチャン・・ロドリゴ、フランシス・ガルペ、ホアンテ・サンタ・マルタの3人の司祭は危険を覚悟で迫害の地・日本へ向かう。本文は潜伏司祭となったセバスチャン・ロドリゴの書簡の形式をとる。

    マカオで拾ったキチジローは、「死さえ怖れない民」といわれた日本人にあるまじき弱虫だった。そんな男に、自分たちの運命を委ねなければならない。ロドリゴは、信用できない民に自分の運命を委ねたキリストに自分たちの姿を重ねるのだった。

    「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんに」

    「聞き棄ててしまえば何でもない臆病者のこの愚痴がなぜ鋭い針のようにこの棟にこんなに痛くつきさすのか。主はなんために、これらみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試練をお与えになるのか。いいえ、キチジローが言いたいのはもっと別の怖ろしいことだったのです。それは神の沈黙ということ。迫害が起って今日まで20年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。キチジローの愚痴にはその問いがふくまれていたような気が私にはしてならない」

    水磔(すいたく)に処せられたモキチが唱えた歌。

    「参ろうや、参ろうや
     パライソ(天国)の寺に参ろうや
     パライソの寺と申すれど……
     遠い寺とは申すれど」

    「私はトモギの人たちから、多くの信徒たちが刑場にひかれる時、この唄を歌ったと聞いていました。物がなしい暗い旋律にみつた節まわしの唄。この地上は日本人の彼等にとってあまりに苦しい。苦しいがゆえにただパライソの寺をたよりに生きてきた百姓たち。そんな悲しさがいっぱいにこの唄にこもっているようです。
     なにを言いたいのでしょう。自分でもよくわかりませぬ。ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて浜辺を噛んでいることが耐えられぬのです。この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を――神が人々の歎きの声に腕をこまぬいたまま、黙っていられるような気がして……」

    オーディブルは遠藤周作『沈黙』の続き。

    「なぜお前は昨夜、私を300枚の銀のために訴えなかったのかね。そう心の中で私は訊ね、あの聖書の中で最も劇的な場面を心に蘇らせました。基督が食卓でユダにむかって言われた「去れ、行きて汝のなすことをなせ」
     私には――司祭になってからも――この言葉の真意がよく摑めなかったのです。この立ちのぼる水蒸気の仲をキチジローと足を曳きずりながら、私はこの重要な聖句を自分に引きつけて考えていた。いかなる感情で基督は銀30枚のため自分を売った男に去れという言葉を投げつけたのだろう。怒りと、憎しみのためか。それともこれは愛から出た言葉か。怒りならばその時、基督は世界のすべての人間の中からこの男の救いだけは除いてしまったということになる。基督の怒りの言葉をまともに受けたユダは永遠に救われることはないでしょう。そして主は独りの人間を永遠の罪に落ちるままに放っておかれたということになります。
     しかし、そんな筈はない。基督はユダさえも救おうとされていたのである。でなければ彼は弟子の一人に加えられる筈はなかった。それなのにこの時になって道をふみはずした彼を基督はなぜ止められなかったか。神学生の時から私が理解できなかったのはその点でした」

    「こうした神父たちの月並みな説明は、まだ若かった自分にはどうしても理解できなかった。いや、今だって、わからない。私の眼にはもし、冒涜的な想像が許されるなら、ユダ自身がまるで基督の劇的な生涯と十字架上の死という栄光のために引きまわされた憐れな傀儡、繰り人形のような気がするのでした」

    「パードレは俺(おい)ば信じとられん」「だあいも、もう俺(おい)ば信じんとですけん」
    「その代りお前は助かることができた。モキチやイチゾウはあの海の底に石のように沈められたが」
    「モキチは強か。俺らが植える強か苗のごと強か。だが、弱か苗はどげん肥しばやっても育ちも悪う実も結ばん。俺のごと生れつき根性の弱か者は、パードレ、この苗のごたるとです」「だから、俺あ……どこにも行かれんけん、こげんに山の中をば歩きまわっとっとです。パードレ」
    「モキチやイチゾウのためにも告悔(コンヒサン)をする気はないかね」

    そういわれて告悔したキチジローは、しかし、300枚の銀のために、ロドリゴを売る弱い男だった。だが、キチジローは囚われの身となったロドリゴを追い、なんども姿を見せては許しを請うのだった。

    「キチジローは非人たちの横に同じように蹲って、時々、こちらを窺うように眼をむけている。そして視線が合うと、あわてて顔をそもうける。その顔を司祭はきびしい表情で眺めた。浜辺で見た時はこの男は憎む気持も起きぬほど疲れていたが、今、この男にどうしても寛大にはなれない。草間で干魚をたべさせられたあとの咽喉の渇きが、煮えかえるような思いと一緒に突然彼の心に甦ってきた。「去れ、行きて汝のなすことをなせ」基督でさえ、自分を裏切ったユダにこのような憤怒の言葉を投げつけた。その言葉の意味が司祭には長いあいだ、基督の愛とは矛盾するもののように思えてきたのだが、今、跨って撲たれた犬のような怯えた表情を時々むけている男をみると、体の奥から、黒い残酷な感情が湧いてくるのである。「去れ」と彼は心の中で罵った。「行きて汝のなすことをなせ」

    「パードレ、聞いてつかわさい。告悔と思うてな、聞いてつかわさい」
    「俺あ、パードレばずうっとだましたくりました。聞いてくれんとですか。パードレがもし俺ば蔑(みこな)されましたけん……俺あ、パードレも門徒宗も憎たらしゅう思うとりました。俺あ、踏絵ば踏みましたとも。モキチやイチゾウは強か。俺あ、あげん強うなれまっせんもん」
    「じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺を弱か者に生れさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい」
    「パードレ。なあ、俺のような弱虫あ、どげんしたら良かとでしょうか。金が欲しゅうてあの時、パードレを訴人したじゃあなか。俺あ、ただ役人衆におどかされたけん……」
    「パードレ、聞いてつかわさい。悪うござりました。仕様んなかことば致しました。番人衆、俺は切支丹じゃ。牢にぶちこんでくれんや」

    「司祭は眼をつぶり、ケレドの祈りを唱える。今、雨の中で泣きわめいている男を放っておくことには、やはり一種の快感があった。基督は祈りを唱えてもユダが血の畠で首を吊った時、ユダのために祈られただろうか。聖書にはそんなことは書いてなかったし、たとえ書いてあったとしても今の自分には素直にそんな気持にはなれそうもなかった。どこまでこんな男を信じていいのかわからない。あの男は許しを求めているが、それも一時の興奮で叫んでいるのだ思いたかった」

    「聞いてつかわさい、パードレ」「この俺は転び者だとも。だとて一昔前に生れあわせていたならば、善かあ切支丹としてハライソに参ったかも知れん。こげんに転び者よと信徒衆に蔑されずにすんだでありましょうに。禁制の時に生れあわされたばっかりに……恨めしか。俺は恨めしか」

    「大きな溜息をつき弁解の言葉を探しながらキチジローは体を動かす。垢と汗くさい臭気が漂ってくる。人間のうちで最もうす汚いこんな人間まで基督は探し求められるのだろうかと司祭はふと考えた。悪人にはまた悪人の強さや美しさがある。しかし、このキチジローは悪人にも価しないのだ。襤褸のようにうす汚いだけである。不快感を抑え、司祭は告悔の最後の祈りを唱えると習慣に従って、「安らかに行け」と呟いた。それから一刻も早くこの口臭や体の臭気から逃れるため、信徒たちのほうに戻っていった。

     いいや、主は襤褸のようにうす汚い人間しか探し求められなかった。床に横になりながら司祭はそう思った。聖書のなかに出てくる人間たちのうち基督が探し歩いたのはカファルナウムの長血を患った女や、人々に石を投げられた娼婦のように魅力もなく、美しくもない存在だった。魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて、襤褸のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった。司祭はそれを理屈では知っていたが、しかしまだキチジローを許すことはできなかった。ふたたび基督の顔が自分に近づき、うるんだ、やさしい眼でじっとこちらを見つめた時、司祭は今日の自分を恥じた」

    そして通辞がロドリゴを転ばしにかかる。

    「わしらが転ばせたいのは、あのような小者たちではないて。日本の島々にはまだひそかに切支丹を奉ずる百姓たちがあまたいる。それらを立ち戻らすためにもパードレたちがまず転ばねばならぬ」
    「パードレ、お前らのためにな、お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。見い。血がまた流れよる。何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる」
    「ガルペはまだ潔かったわ。だがお前はな……お前は、一番卑怯じゃて。パードレの名にも価せぬ」
    「見い。見い。お前たちのためにな、ほれ、血が流れよる、百姓たちの血がまた地面に流れよる「
    「それにな」「お前は彼等のために死のうとてこの国に来たと言う。だが事実はお前のためにあの者たちが死んでいくわ」

    オーディブルは遠藤周作『沈黙』が今朝でおしまい。

    フェレイラ師改め沢野忠庵が説く、なんでも飲み込む底なし沼の日本の懐の深さ。

    「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もこの沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」
    「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた」「私はお前に弁解したり説得したりするためにこう言っているのではない。おそらくだれにもこの言葉を信じてもらえまい。お前だけではなく、ゴアや澳門にいる宣教師たち、西欧の教会のすべての司祭たちは信じてはくれまい。だが私は二十年の布教の後に日本人を知った。我々の植えた苗の根は知らぬ間に少しずつ腐っていったことを知った」
    「あの聖者も」「はじめは少しも気がつかなかった。だが聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日と呼ぶ信仰に変えていたのだ。陽を拝む日本人にはデウスと大日とはほとんど似た発音だった。あの錯誤にザビエルが気づいた手紙をお前は読んでいなかったのか」
    「お前には何もわからぬ。澳門やゴアの修道院からこの国の布教を見物している連中には何も理解できぬ。デウスと大日と混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りはじめたのだ。言葉の混乱がなくなったあとも、この屈折と変化とはひそかに続けられ、お前がさっき口に出した布教がもっとも華やかな時でさえも日本人たちは基督教の神ではなく、彼等が屈折させたものを信じていたのだ」
    「基督教の神は日本人の心情のなかで、いつか神としての実体を失っていった」
    「私の言うことは簡単だ。お前たち花、布教の表面だけ見て、その質を考えておらぬ。なるほど私の布教した二十年間、言われる通り、上方に九州に中国に仙台に、あまた教会がたち、セミナリオ(神学校)は有馬に安土に作られ、日本人たちは争って信徒となった。我々は四十万の信徒を持ったこともある」
    「誇る? もし、日本人たちが、私の教えた神を信じていたならな。だが、この国で我々のたてた境界で日本人たちが祈っていたのは基督教の神ではない。私たちには理解できぬ彼等流に屈折されたかみだった。もしあれを神というなら」「いや。あれは神じゃない。蜘蛛の巣にかかった蝶とそっくりだ。始めはその蝶はたしかに蝶にちがいなかった。だが翌日、それは外見だけは蝶の羽根と胴とをもちながら、実態を失った死骸になっていく。我々の神もこの日本では蜘蛛の巣にひっかかった蝶とそっくりに、外見と形式だけ神らしくみせながら、既に実体のない死骸になってしまった」
    「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」「神の概念はもたなかっったし、これからももてないだろう」
    「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」
    「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」

    中国から漢語の文字だけを取り込んで独自の文字(ひらがな、カタカナ)をつくった「真似っ子文化」の日本には、舶来の知識も思想も学問も芸術も、あっというまに換骨奪胎して「自分たちのもの」としてしまう懐の深さがある。それは、外から見れば、なんでも飲み込む底なし沼に見えるかもしれないが、中国やインドなどの文明の中心地から遠く離れた極東の最果ての地にあって、揺れ動く世界情勢の中をしなやかに生き残るための知恵だっただろうし、周囲と隔絶した島国でありながら、くたびれた辺境の一地方の地位に甘んじることなく、独自の文化を花開かせた理由でもあったはずだ。一神教の国々が異質な文化と出会ったとき、カルチャーギャップを乗り越えるのに苦労している(どころか、多くの場合、自分たちの文化を一方的に押しつけて軋轢を生んでいる)のと比べると、日本人の吸収力の高さとスピードはむしろ異常で、クリスマスもハロウィーンも、ラーメンもカレーもパスタも、気がつけば日常の中に溶け込み、自分なりに咀嚼して、もともとの由来や意味とは切り離された「日本の文化や食」として広く受け入れられている。欧米に追いつけ追い越せの高度経済成長期には日本のよさが遺憾なく発揮されたものの、ジャパン・アズ・ナンバーワンと驕り高ぶり、世界の先頭に立っていると勘違いしたとたん、目標(真似する対象)を見失って失速したことも、昨今独自の進化をとげて異様に盛り上がる二次創作文化も、同じ文脈で語ることができそうだ。

    そんな、なんでも受け入れる国に、排他的な一神教は似合わない。キリストの神も、ユダヤの神も、イスラムの神も、もとをたどれば同じ神さまなんだから、仲良くしようよ、というのがおおかたの日本人のおおらかさなんだろうし、いやそもそも、日本にもインドにも中国にもたくさん神様がいるんだから、そっちの神様もこっちの神様もみんな仲良くしたほうがいいじゃん、くらいのことを思ってるのが日本人だったりするわけで、フェレイラの絶望も理解できないことはない。が、「そこ絶望するとこちゃうで」と言ってくれる人も少なくないと思うのだ。

    「LAUDATE EUM(讃えよ、主を)わしはその文字を壁に彫った筈だ」「その文字が見当たらぬか。探してくれ」
    「黙っていなさい。あなたにはその言葉を言う権利はない」
    「権利はない。たしかに権利はない。私はあの声を一晩、耳にしながら、もう主を讃えることができなくなった。私が転んだのは、穴に吊られたからでない。三日間……このわしは、汚物をつめこんだ穴の中で逆さになり、しかし一言も神を裏切る言葉を言わなかったぞ」「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」
    「黙りなさい」
    「では、お前は祈るがいい。あの信徒たちは今、お前などが知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ。昨日から。さっきも。今、この時も。なぜ彼等があそこまで苦しまねばならぬのか。それなのにお前は何もしてやれぬ。神も何もせぬではないか」

    「この中庭では今」「可哀想な百姓が三人ぶらさげられている。いずれもお前がここに来てから吊るされたのだが」
    「わしがここで送った夜は五人が穴吊りにされておった。五つの声が風の中で縺れあって耳に届いてくる。役人はこう言った。お前が転べばあの者たちはすぐ穴から引き揚げ、縄もとき、薬もつけようとな。わしは答えた。あの人たちはなぜ転ばぬのかと。役人は笑って教えてくれた。彼等はもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬ限り、あの百姓たちを助けるわけにはいかぬと」
    「あなたは」「祈るべきだったのに」
    「祈ったとも。わしは祈りつづけた。だが、祈りもあの男たちの苦痛を和らげはしまい。あの男たちの耳のうしろには小さな穴があけられている。その穴と鼻と口から血が少しずつ流れだしてくる。その苦しみをわしは自分の体で味わったから知っておる。祈りはその苦しみを和らげはしない」
    「あの人たちは、地上の苦しみの代りに永遠の悦びをえるでしょう」
    「誤魔化してはならぬ」「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない」
    「私の弱さ」「そうじゃない。私はあの人たちの救いを信じていたからだ」
    「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ」「わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら」「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」「基督は、人々のために、たしかに転んだだろう」
    「そんなことはない」「そんなことはない」
    「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」
    「これ以上、わたしを来る死ねないでくれ。去ってくれ。遠くに行ってくれ」
    「さあ」「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ」

    「司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
     こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」

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著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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