「待つ」ということ (角川選書) [Kindle]

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著者 : 鷲田清一
  • KADOKAWA / 角川学芸出版 (2013年4月11日発売)
  • Amazon.co.jp ・電子書籍 (121ページ)

「待つ」ということ (角川選書)の感想・レビュー・書評

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  • 「『無駄なことを……。あきらめたらいいのに』と言うのは、その程度のことで自己同一性はびくともしない者の言い分である。」

    現代では何もかもが早く進み、待つことが難しくなりつつあるとする本。“待つ”に対する言葉遊びだと感じた場面もある。しかし、それこそが“待つ”とはどういう動作なのかを説明するこの本の特徴だ。ほかにも、痴呆と絡めながら本書は進む。

    最近では、携帯電話のおかげですぐに連絡を取ることができ、圧力鍋のおかげで調理時間も短縮できる。そして、LINEは“既読”が表示が即座に返信が得られることを期待する。それでも、恋愛においては今でも時間をかける事が求められる。その記述は下手な恋愛小説を読むより染みるであろう。”待つ”という状態を自ら壊す事で安心感が得られる、という点は強く理解できた。

  • 成果を期待して、待つのではない。
    自分の中で忘れる事、期待しないで済む状態。 の変化を待つ。

    何となくしっくり来た。

  • 役割と言うのは、
    <自分>がしたいと思うことではなくて、
    求められる【自分】をこなす中で、
    少しずつその輪郭をなぞるようにかたどりながら、
    浮かび上がるものなんだろうなぁ。
    「頼まれごと」を受ける時、
    それはその時点での<自分>とは異なる、
    <他者>への萌芽を往往にして含んでいる。
    「断り」は、頑なで啓けのない自己同一性への縋りだ。
    自分は現象だ。相互的な所から浮かび上がる現象でしかない。


    ●以下引用

    決めたときに視野になかったものは、最後まで視野に入らない。頑なであり、不寛容である。やりなおしとか修正を頑として認めない。結果が出なければ、すぐに別のひと、別のやり方で、というわけだ。

    傷つく前に立ちなおる。その心変わりの速やかさ

    彼女は、やがて相手の気持ちがこちらに向くかもしれないということに賭ける前に、身を翻している。

    意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、じぶんの力ではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、いたずらに動くことなくただそこにじっとしているしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも「期待」や「希い」や「祈り」を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの断念のなかでもそれを手放することなくいること、おそらくそこに、<待つ>ということが成り立つ。

    前のめりの姿勢は、じつは<待つ>ことを拒む構えなのである。

    待つことには、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。それを先に囲い込んではならない。つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか、それが<待つ>には賭けられている。ただし、みずからを開きっぱなしにしておくには、閉じることへの警戒以上に、努めが要る。

    <待つ>は偶然を当てにすることではない。何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。予感と予兆をたよりに、何かを先に取りにゆくということではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するものはある。あるからこそ、なんの予兆も予感もないところで、それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。その意味で、<待つ>は、いまここでの解決を断念したひとに残された乏しい行為であるが、そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、きっと、待つことすらできないのである。

    すでに視野にあるもの、あったものを未来に投影しているにすぎない。すでに知っているもののうちでいまだ知らないものを測っているのである。

    何を待っているのか自身にもわからないような<待つ>があるのではないだろうか。そう、予期ではない待機としての<待つ>が。あるいはさらに、あらゆる予期がことごとく潰えたあと、諦めきったあとで、そこからようやく立ち上がってる<待つ>が。

    過去になにか参照しうるもの、ないしは参照すべきものがあり、それを引いてくるのが、予期や予測というものである。そこには真に未知であると言いうるものはない。「何もかも見えちゃってる‥」と、自身の未来について若い人たちがなかば投げやりに言うときにも、彼らはたぶん予期している。

    「入力にたいしては過去のデータを参照して対応する」認知の積分回路のひとつが予期であるとすれば、予期がきかないからこそひとは不意をくらうのだ。それはむしろ、なにかさだかならぬものへの怯えに近い。あるいは、草原に佇む鹿がぴくぴくっと耳を震わせるときの、あの警戒心に近い。

    ここでは、瞬間ごとに事態の変化に過度に正確に感応してしまうので、過去のメモリーがうまく活かされず、したがってノイズの吸収力にも欠ける。それは言ってみれば、窪みや茂みなど身を潜めるところのない、遊びという間の欠落

    起こるかもしれない関係をいつか受け入れられるよう、身を開いたままにしておくことである。

    <待つ>は時間が奪われることを見越してなお<待つ>というのは、だからけっして受け身の行為ではない。けっして無為ではない

    期待が彼のなかに終結させる注意力は、彼の期待しているものの実現を獲得することにあてられているのではなく、ただ期待だけによってあらゆる実現可能な事物が遠ざかるにまかせることにあてられており、実現不可能なるものへの接近なのだ。

    期待するなかで、期待されているその当のものがしだいに遠ざかってゆき、ついに何かを期待することそのことからも逃れてゆく。そのときに注意がめざめる。その注意が「彼を期待されざるものに向かって開く期待の無限」へと連れてゆく。

    「何ごとかを待つということの拒否であるところの期待」、「何かを待つようになるやいなや、待つ度合いはやや少なくなる」

    だれかの承認を得るということが、ふつうは、ひとが「わたし」でいられる最終的な証拠となるはずなのに、そのことじたいを彼女は拒絶している。とすれば、だれかに憶えていてほしいこの「わたし」、だれかに見かけてほしい「わたし」とはいったいだれなのか

    意識に過重に負荷をかけるわけで、このことで散乱している意識の方向が一点に集中しだす。すると、まわりのありとあらゆるものが、じぶんが待つものの徴候か記号のようにおもわれてきて、小さな徴候にも軀がびくついてしまう。反応が過剰になって、心が乱れるのである。

    意識がこのように集中し出すと、外界からのさまざまの感覚入力に対して意識的にそれを感知する部分も、ごく限られてくる。捕獲の網がそれだけ狭まっているからである。外界からの感覚入力に対して、それを意識的に感知するかそれとは意識せずに感知するかの境界、いってみれば意識の閫というのは、わたしたちがふつう考えているよりはるかに流動的な物だ。

    だから武蔵は眠ることにしたのだ

    周期を短く考えるようにすること

    時を細かく刻んで、小さな小さなことにかまけなければならない

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