公開時私は9歳。4歳年上の従兄がいて、彼がテレビで見ていた、ような記憶がある……。
小学生にとっては早すぎたのか、お兄さんが好きそうという印象。
もちろん数回見たが(前回見たのは2013)、ラピュタと比べるとやはり年上で縁遠いな、という印象を持ち続けていた。37になんなんとする今まで。
が、今回見てみて驚いたのは、何よりもBGMがすっと入るというか、大げさにいえばまるでプルーストのマドレーヌよろしく、音楽が映像を思い出させてくれたような感覚がある。
おそらくサントラをレンタルしてカセットテープで繰り返し聞いていたのではないか。
駿の演出覚書にある「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のためのマンガ映画」というほど疲れ切ってはいないし、JALを乗りこなすほどの要職にもついていないが、家族持ちとしてひいひいやっている今、あーこの愉快さは極上、と判る。
そのぶん女性が、うげーきもちわる、と忌避する感じ方も、わからないでもない。
ポルコのアジトはあからさまなくらい子宮っぽい入り江で、アドリア海の男たちはみーんなジーナというマンマの子宮の中で、オッサンになっても遊び続けているのだから。
ポルコはさらに今回、フィオとかいう小娘にも好かれて、ウヒョヒョ。
気が乗ればジーナの店に行き(庭には行かない。飛行機で飛び回っても、降りない=奥深くでは交わらない)、昔の話に酔う。
だがオッサンになって鑑賞することで気づいたのは、ひたひたと、というか明らかにファシズムが広まっている。
オッサンたちの陽気さを一枚ひっぺがしてみれば、ある時代の終りが見えるのだ。終わりの始まりだ。
思い返してみれば駿の作品は、終りの始まりの感覚、あと一瞬あとには決定的に変わってしまう直前、が描かれることが多い。損なわれてもう戻れない状態になる、直前。
「ナウシカ」は文明崩壊後、人類が終わらんとする直前。まさに黄昏。
「ラピュタ」は産業革命による変化の直前。
「トトロ」は思春期の直前。
「魔女宅」は性交渉の直前。
「もののけ姫」は原生林が人に拓かれる直前(ラストで里山に変じる)。
さらにポルコは、すでに第一次世界大戦において「飛行機の墓場」という体験をしている。
仲間の死、時代の死に取りつかれたからこそ、自らに呪いをかけている。
半分幽霊のような存在だ。
ナウシカなら背負うものを、中年のおっさんは背負いきれない、あえて降りて見せる、しかし見たものを忘れることはないから、半ば透明になって、さらに来たるべき悲劇を前にして、必死に遊ぶ……。
これほどに悲劇を押し隠した喜劇があろうか。
「ガルパン」的世界に一見見えるが、やはり苦さを秘めた、大人の作品なのだ。いい。
あと思ったのは、フィオを好きになるのは、少年期でも青年期でも容易。
ジーナを好きになるのは、この年齢になってからかな……。
駿や鈴木敏夫と対談する加藤登紀子の聡明さを知って、なおさら好きに。
ところで駿、結構原作ありの作品を作る……しかも自作漫画を原作にする、という。
「ナウシカ」も、「もののけ姫」もある種そうだし、「風立ちぬ」も。
もちろん彼にとって頂点にあるのはアニメで、漫画は手段。
手塚治虫がそうありたい姿に、自分を押し込めていった、ともいえる。
ある種の創作スタイルだ。
ところで原作を連載していたのは、「紅の豚」も「風立ちぬ」も「月間モデルグラフィックス」において、なのだ。大日本絵画。重要。
ブクログには本の形で所有しているものしか登録していないから未登録だが、2度『宮崎駿の雑想ノート』は通読した。
またニッポン放送のラジオドラマも聞いてみた、が、これは回によって出来不出来が激しく、途中離脱……佐野史郎の演技や、原作引き延ばし作戦がいまひとつだったため。
今後余裕のあるときの楽しみにとっておこう。
備忘録として書いておきたいのは、駿が引き裂かれているということ。
飛行機好き兵器好きと、戦争嫌い文化人ヒューマニストエコロジストと。
両方の起点になっているのが、人類への絶望だ、ということが、面白い。
この振幅の大きさこそが、作家性の特異さでもある、という特徴。
思えばヒコーキ好きの、サン=テグジュペリも、稲垣足穂も、内田百閒も、この点では同じ。
おそらく宮沢賢治も、手塚治虫も、たぶん水木しげるや藤子・F・不二雄も、ペシミズムにおいては似ているだろう。
この人たちのペシミズムと、情熱の火柱の太さと、ワーカホリックさは、似ている。
情熱の火柱の太さとは、太宰治がドストエフスキーを評した言葉だが、太宰やドストももしかするとヒコーキ好きになったかもしれない。どちらもワーカホリックだし。
自分の好きな作家たちのうちある程度を、同じフォルダに入れる視点が、またひとつ加わった。