風立ちぬ サウンドトラック

アーティスト : 久石譲 
  • 徳間ジャパンコミュニケーションズ (2013年7月16日発売)
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  • Amazon.co.jp ・音楽
  • / ISBN・EAN: 4988008123746

感想・レビュー・書評

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  • 旅路と、あと恩人が好きです。

    旅路のイタリアの風が特にお気に入り!!!

  • 映画の感想をとりあえずここに。

    さて、どう書いたものか。都合、三度も見に行ったこの映画をどのように語るべきかペンをとっても未だに迷っている(私は長文書くときは、大体、手書きで下書きをする)。映画は、本来、作品について語るべきだと個人的には思っているのだが、この風立ちぬに関してはどうも作家論にまで踏み越えて語りたいのである。なぜならこの作品の魅力は、宮崎駿というバックボーンを抜きにして語ることが不可能な気がするからだ。それはジブリと宮崎駿のネームバリューがといった小さな話しではなくて、彼が世の中に送り出してきた作品たちと、彼の生き様がバックボーンにあってはじめて、この映画が深い説得力を持つのではないかという思いがあるからだ。

    じろうという主人公は、作り手、ものを作る人間全ての代弁者だ。宮崎駿という圧倒的な想像力と創造力を持つ人間が語り手になってはじめて、数多の作り手を代弁できたといおう気がする。想像してみて欲しい、ナウシカもラピュタもトトロもない世界を。空を雲を見上げたときのときめきも、こんもりと木々が繁った裏山や神社に一歩足を踏み入れるときのわくわくも、宮崎駿なかりせば、私たちの世界はほんの少し味気ないものになっていたはずだ。

    そんな宮崎駿の作品の中で、どれか一つもっともの質の高い作品をえらべといわれたら、私はもののけ姫をえらぶと思う。そこには圧倒的な空想に支えられたワクワクするような世界観はもはやない。創造の10年間をとっくに過ぎさってしまった後にうまれた作品だ。それでも私はもののけ姫が、宮崎駿の最高傑作だと思っている。

    新しい世界へ旅立つこと、それは宮崎駿の作品が一貫して持つテーマだ。きっかけは様々だ。少女が空からふってきたり、他国の飛行機が墜落したり、引越しだったり、古いしきたりだったりした。例外はこの風立ちぬと紅の豚だ。それについては後で触れる。まずは、なぜもののけ姫が最高傑作だと思うのか、あしたかがたたりによって新しい世界に旅立たざるをえなくなったこの物語について語りたい。

    あしたかが新しい世界で出会うもの、そこには天空の城だったり、時計台のある海辺の街だったり、ワクワクもドキドキも不思議なもの新しいものは何もない。あったのは人間の業だ。そして死という運命の中で生きるとあがいてみせる自身のエゴだ。あしたかは決してエコを説いているわけではない。もののけ姫というもののけの世界へ、彼岸の彼方へと行ってしまった少女とは違う。彼は生きたいと願い、そして彼の生きるということは、人として生きるということだ。決して自然と共生するということではない。自分が人として生きる、そのために自然とどのような形でまじわっていくべきなのか、生きたいというエゴありきの結論なのだ。実はマンガ版のナウシカでも同じように人のエゴというものが主題になっている。しかし、そのエゴは完全に物語の中での定めであり、主人公に課せられた運命に逃げ込んでいる。だから、ナウシカが運命というものに立ち向かっていく高貴さを増したとしても決して人の持つエゴというものに正面からぶつかっていくわけではない。そういう点でエゴというテーマに真正面からぶつかっていったもののけ姫が持つテーマ性は圧倒的である。

    そのエゴというテーマに再び、真正面からぶつかっていったのが、この風立ちぬだ。もののけ姫は人のエゴをえがいていた。風立ちぬでは、自分のエゴをえがいている。じろうは決して堀越二郎などではない。宮崎駿だ。大空へあこがれた少年時代、あの夢の中で空を飛ぶ少年の姿が、あまりにも真っ直ぐに宮崎駿すぎて、私は冒頭のシーンから感極まるものがあった。新しい世界への旅立ちを拒否して、ハードボイルドで少しニヒルに、そしてわざわざ主人公を豚に変えて、自分自身を切り離してしまった紅の豚とは違う。風立ちぬでは、人が生きるというエゴに正面からぶつかっていったもののけ姫すらも乗り越えて、自身のエゴをどこまでもさらけ出すシーンに出会い続けることになる。

    ただひたすらに飛行機へと向かっていくじろうの最大の挫折は山の避暑地のシーンからはじまる。何気ない夏休みのようでいて、一瞬だけ暗転し無残な飛行機がスポットライトを浴びる一シーン。それだけでものを作る人間なら全てを深く理解するはずだ。例えひとりでも山の避暑地へでかけていってのんびりとしたいと考えるその訳を。あのシーンは、どんなに多くの嘆き、葛藤、苦悩を描いて見せたところで伝えるのは不可能と思われる感情を見事に表現しすぎているし、列車の中で泣きながら計算尺を使うシーン、結核の彼女の横でタバコを吸ってしまうシーン、どれをとっても、今まで誰もがなんとも上手く伝えられなかった、あの気持ちを表現しきっていて驚くばかりなのだ。

    じろうにとって飛行機を作りたいという思いは、もはや私と仕事どちらが大事といった次元にはぞくしてないし、それによって多くの人が犠牲になるという事実とも別の次元にある。ただ、あしたかが人として生きたいというエゴで自然と相対するのと同じ次元で飛行機を作りたいという欲求が存在するのだ。たぶん、その欲求をエゴだと宮崎駿はわかっている。そのエゴは極めて個人的なものであり、誰もが理解できるものでもないのかもしれない。ものを作る人間は多かれ少なかれ、同じような思いをもっていて、そういう思いに共感する人が多いのではないかと思う。だから、ものを作る人間の代弁をしているように感じるのだ。そういう意味でもののけ姫以上に万人に受け入れられにくい作品かもしれないが、一部の人間には深くささる作品であり、さされた人は自分の経験に照らし合わせて宮崎駿ほどの作り手がどれほど傲岸不遜であり、エゴイストであるか、それに感づいているはずだ。それゆえにこれほど赤裸々なまでに自分のエゴをさらけだした作品を世の中に送り出していることに、自分の思いを代弁しすぎていることに泣けるのである。

    堀辰雄の風立ちぬと比較するとそのことがよくわかる。主人公はじろうとまるで逆だ。彼女が結核であり絵を書く、山の避暑地で出会うというキャラクター設定くらいしか同じものはない。後は何から何まで、本当に真逆だ。堀辰雄の風立ちぬの主人公は、結核の彼女についていって山のサナトリウムに住み込んでしまう。仕事も手につかず、美しい山の風景の中で死という美しい運命の中で二人だけの幸福の世界を築きあげるのである。その二人きりのどうしようもなく美しい世界から追放された悲しみ、それがものをつくる動機となっているのだから、宮崎駿とはまるで違う。堀辰雄はものをつくる人間ではなく、詩をつくる人間なのだ。

    ものをつくる人間のエゴを完璧にあらわしつくしている言葉がひとつある。世界初の弾道ミサイルを完成させたフォン・ブラウンの言葉だ。最初のミサイルがロンドンに着弾した日、彼は「ロケットは完璧に動作したが、間違った惑星に着地した」という言葉を残したそうだ。ナチスドイツ政権のもとから亡命したフォン・ブラウンはアメリカのもとでロケットを月へとおくった。ゼロ戦を作った堀越二郎も風立ちぬを作った宮崎駿も本質的にはこのフォン・ブラウンと変わらない。自分のエゴに突き動かされながら挫折を繰り返してきたはずだ。ただ、幸運なことに宮崎駿はアニメをつくることに魅せられた。おかげで私たちは日常に少しの夢とロマンの味付けを得たのだ。

  • 映画の感想書けないのでここで。感動した。動きがすごく心地よかった。これは次郎のファンタジーなのかもしれない。最後に宮崎監督がこの題材を選んだと思うと切ない。

  • ・堀越二郎の人生を脚色するために堀辰雄の要素を借りてきた。
    ・堀辰雄にある「ゆるやかな心中」のような甘さはない。「生きねば」だもの。ここが少しだけ違和感だった。
    ・「いざ生きめやも」(意志の助動詞が、上代反語の助動詞に屈するのか、いざという語感にかかるのか、人によっては誤訳とも言われるくらい両義的な翻訳)→「さあ、生きよう」へ。
    ・生を切断されてしまう悲劇の美しさや甘美さが、若干抑えられている。

    ・庵野の声はよかった。感情が表に表れない声、顔。天才にありがちな「わからなさ」あるいは好きなこと(飛行機や美しいもの)への熱狂と、その他への薄情さ。
    ・菜穂子にしても、結核だとわかっていながら同衾を望むなど、ずいぶんまわりが見えていない。
    ・つまりは現実や生活ではない。このふたりはそれぞれに詩を生きている。
    ・詩は生活に対して垂直に立つ。
    ・飛行機や地震の効果音を人の声で。かなり不安を感じていたが、味があって素敵だった。

    ・風景の美しさ。
    ・建物や調度品の美しさ。
    ・洋風建築あり和風建築あり花あり草木あり、世界は豊かだと思わせてくれた。
    ・縦になったプロペラを見るところ。(ユンカース!)あの質感の美しさよ。
    ・映像としては抜群、これまでに経験がないほど。動きも、静けさも。

    ・災害を巡り、戦争を巡り、病気を巡り、結婚を巡り、生と死を過激に経験したともいえる。

    ・とにかく素晴らしかった。ジブリ映画やアニメという枠組みではなく、ただの「映画」体験だった。
    ・押井守が嫉妬するのでは。


    0903再鑑賞
    やはり細部の美しさに陶酔する。
    ユンカースのプロペラの銀の光沢を筆頭に、家の柱のてかり方、林に流れていく川の水、雨の音、結納の盃に落ちる水滴、などなど。
    (自然物・人工物・機械・建物・人の表情ややわらかさ、などなど描写はこれまでのジブリの総決算といっていいほど、多種多様。)
    遠近感を完全に無視して飛んでいる飛行機(の理想像)を手にとって紙飛行機のように自分の手で推進する場面とか。ああ。
    また、「生きねば」や、「生きて。あなたは生きて」に鼻白んでしまったが、それは誤りだった。
    また、純愛純愛いって手練手管を弄しているくせに、とも思っていたが、それも誤り。
    まずは社会認識として、ピラミッドのある世界とない世界のどちらを選ぶ、という問いかけに、はっきりとは言わずとも、ピラミッドのある世界で美を追求することを選択する。
    飛行機は呪われた美しい夢、という点も合わせると、その残酷さが浮き立つ。
    絵や歌のような単純な芸術と異なり、飛行機作りには莫大な金が要る。
    金を吸い上げるには戦争が、「なければならなかった」のだ。あの状況下では。
    一方二郎は、人情知らずとはいえ正義感は強い(下級生いじめは許さない・また、かつてはあんなに夢憧れた飛行機の飛ぶ草原の夢に、現れた零戦の残骸群を越えて「地獄かと思いました」)。
    夢を実現するため、結果、多くの人を犠牲にした件の贖罪を、菜穂子はほどこしているのだ。
    ほんとうだったら人殺しの道具づくりに、妻は関係ない。しかし「許す」という言葉をもたらすためにこそ、彼女は存在していたのだ。
    それは家庭を顧みない仕事人間や芸術家にもあてはまる、一種のマチズモでもある。
    (さらには、過去のトラウマだとか戦禍などの状況による悲恋、ではなしに、性格による悲劇、という悲恋物語は、いまどき珍しい。二郎も菜穂子も歪みを抱えて……)
    この点で、菜穂子の愛は純愛といってもいいだろう。(誘う女というテーマももちろん含みつつ)
    常に夢見心地で、ぼーっとしていて、薄情モンで、女好きで、はじめは忘れていたくせに「帽子をとってくれたときから愛していた」なんて言えて(そして悪意がない)、顔を見れば「美しいよ」(性格が好きとは言わない)とばかり言い、だがともすれば自分よりも飛行機を取ってしまいそうな二郎を、それでも好きでたまらない。
    「都合のええ女じゃね!」という感情的批判もあり。しかし、こんなに「美しいから」と愛してくれる男も、いない。
    飛行機に命を与える女性。風のように美しい、そして許してくれる女性。こんな女性に出会いたいよ。

    ジブリの映画ではなく駿映画。

    最期に一番心に残った台詞を。
    「創造的人生の持ち時間は10年だ。 芸術家も設計家も同じだ。 君の10年を力を尽くして生きなさい」(カプローニ)

  • 飛行機という夢に向かって、まっすぐに、誠実にすすんでいく堀越二郎の姿が美しくて、せんりつした。
    二郎と菜穂子の純情な愛にも胸をうたれ、涙があふれた。
    宮崎監督の心のなかを見たような映画だった。

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