『陰陽師 天鼓ノ巻』 夢枕獏 (文春文庫)
久しぶりの陰陽師。
神がいて鬼がいて、業があり呪いがあり。
琵琶の音、笛の音。
そして、季節ごとに趣を変える庭を愛でながら酒を飲む仲良し二人組。
そんないつもの風景が嬉しい。
短編には大きな事件を盛り込まない、と以前作者が言っておられたが、今回も結構平和だ。
今までになく“神様”がたくさん出てきたので、しゃばけを読んでいるようだった。
天地の気をくらう神“泰逢(たいほう)”、蝉丸の琵琶と博雅の笛に誘われて童子の像に宿り、一夜のセッションを楽しんで天に帰って行った“霹靂(はたた)神”。
「ものまね博雅」は、博雅の笛に感応した“一言主(ひとことぬし)の神”が憑いたもう一人の博雅に、本物の博雅が悩まされるという話。
そこで博雅を助けてくれたのが、“大山昨神(おおやまくいのかみ)”という真面目な神様なのだった。
「鏡童子」では、藤原兼家への届け物が鏡だったために方違えが逆になり、“歳徳神(としとくじん)”のいる南の方角へ行くつもりが、逆に北の“金神(こんじん)”と、南東の“天一神(なかがみ)”に出会ってしまい、ちょっかいをかけられてしまうという話だ。
博雅は心根が素直すぎて、実にいろんな神様に憑かれてしまうのだ。
「おまえの笛はみごとだが、めったな神の前ではたやすく吹かぬがよいのかもしれぬなぁ……」
と晴明。
そういえば、前にも博雅の葉二は、船岡山の神様を眠りから覚めさせたり、天竺の神様を舞い踊らせたりしたんだった。
八編の中でいちばん良かったのは、「器」という話だ。
おまえは器としてすぐれたものを持っている、と晴明が博雅に言う。
「よい器によい酒を注ぐように、おまえという器には、良いものが注がれて、そのすぐれたもので、おまえという器が満たされている」
これさ、ものすごい褒め言葉だと思うんだけど、天然な博雅くんはこう言い放つ。
「褒めてくれたようだが、晴明よ、おれには何のことか、よくわからぬ」
そして、呪(しゅ)の話をしてよいかと言う晴明に、いつものように嫌な顔をするのである。
この絶妙なズレ具合が、この二人の会話の最大の魅力なのだ。
ここで晴明が語る“器”の話がいい。
「たとえば、言葉というものは、心を盛るための器なのだ」
「なに !? 」
「桜という言葉もそうだな。桜という言葉があって初めて、あのように立つ樹の姿、ほころびかけた蕾、散りゆく花びら、その、心に浮かべることのできる全ての桜の姿を、その言葉の中に盛ることができるのだ」
「む……」
「ある意味では、この世の多くのもの、存在というものは、器であるといってよい。いや、正しく言えば、人が認知する全てのものが、器と、そして盛られるものとの関係によって成り立っているといってよい」
「むむむ……」
たとえ話が、しっかり呪の話になっていることに気付かない博雅の素直さは、やっぱりこのシリーズの宝物だ。
さて今回は、蝉丸の過去が初めて語られる「逆髪の女」が印象に残った。
なんと、蝉丸は、彼を恨んで死んでいった元妻・草凪の霊を憑かせたまま、三十年間暮らしていたのだった。
蝉丸の弾く琵琶に合わせて、草凪が桜の下で踊り狂う場面は、飛天ノ巻の「鬼小町」を思い出させる。
「鬼小町」を読んだ時、いつも万能な晴明にもどうすることもできないことがあるのだと思い、そこがとてもいいなと思ったのだ。
自分が生きていくためには博雅が必要なのだそうだ。
そんなちょっと人間臭い晴明がとてもよかった。
次回も陰陽師!