きみの友だち(新潮文庫) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 小学校高学年から中学生の友だちについての悩みが書かれています。
    主人公の「きみ」が一話ごとに変わり、その中のどれかの「きみ」が自分に当てはまるようになっている気がします。

    私はもう40代で、「きみ」の世代から大きく離れてしまっていますが、改めて「友だちって何だろう?」と考えさせられました。
    この小説の核となる恵美は、
    「一緒にいなくても寂しくない相手」
    「同級生だから友だちーー嘘だと思う」
    と言っています。
    40代になってなかなか友だちとも気軽に会えないようになるとその言葉の意味がよくわかるな~。
    小学生、中学生の時って毎日同じメンバーで一緒にいて、一緒にいる時間が長い人が友だちや親友だと思っていたけれど、今は時間じゃないなと思います。
    どちらかというと全然会っていなくても、たまにどうしているかなと考える相手、楽しく過ごしていてくれればいいなと思える相手なのかも。

    また「みんな」がキーワードになっていると思いました。
    恵美は、
    「みんながみんなでいるうちは友だちじゃない。」と言ったり、
    「一人ひとりの子は悪くない。でもその子が「みんな」の中にいる限り、きみは笑顔を向けない」という態度です。
    同じ人でも、一人でいるときと、みんなでいるときで人が変わってしまうことってよくあります。
    みんなといると影響力の強い人に巻かれてしまうんですよね。特に学生時代は。
    その人の個性が消されてしまう。
    だから、みんなでない個人の人をみていくのは、特に学生時代は大事なのかもしれません。

  • 重松清さんの本はいつでも暖かい.
    ちょっと恥ずかしい表現もあるけれど,愛情に満ちていると言うか,人を励ます本を書く人で,時々戻ってくるととても懐かしくて良いね.
    とても個人的なことだけど,この小説では,最終章のタイトルでぞくっと感動してしまいました.

  • 各章が様々な登場人物の視点での短編になっている。小学生、中学生の登場人物の心理描写が、子供の頃の不器用な考え方を思い出させる。そういうのあったよね!そういう子いたなー、みたいな。何はともあれ胸熱な小説だった。

  • この年代の話しが好きだが、主人公が変わる度に「きみ」と呼び名が変わるのが煩い。
    最終章に違和感を覚えた。

  • この本を読んで改めて「友だち」って誰なんだ?って考えさせられました
    このお話に出てくるたくさんの「きみ」は、「自分」に置き換えた時。色んな世代でキャラ変しながら生存競争していた「自分」で作られたものだったなぁ。と、つくづく痛切に感じました。

    この本を最後まで読んで、 友達は「作る」物ではないんだ!?と学んだ。

  • ワンピースのキャラと同じだと思う、だからいい

  • 「みんな言ってるよ」

    そんなセリフはこの小説には出てこない。しかし「みんな」ということばの痛みや怖れを「きみ」である「私」があのときどう感じたのかを、この小説はまざまざと思い出させてくれる。だから前半部分で、もしかすると「きみ」は読むのが辛くなって、この本を投げ出したくなってしまうかもしれない。

    けれど、くじけずに読んでほしい。松葉杖がないと歩けない恵美ちゃんと病気がちな由香ちゃんが、どんな風な友だちだったのかを知ってほしい。

    恵美ちゃんは言う。「だから・・・・・・『みんな』に付き合ってる暇なんてない」と。そんなときにそらを見上げると、青い空に真っ白な小さな雲が浮かんでいるはずだ。それは由香ちゃんが好きな『もこもこ雲』かもしれない。

    生きるのに不器用であることが辛くないなんてことはない。でも、探してみれば、きっと青い空に『もこもこ』とした雲があるはずだ。それは由香ちゃんと恵美ちゃんの雲だ。読み終えた私たちは明日からそんな『もこもこ雲』をきっと探してしまう。小さな心の痛みを感じながら。

    --------
    「きみの友だち」。よい題の小説だと思う。小説を読みながら、自分の中の自分に「友だちってなんだと思う?」と、静かに問いかけてみたくなる。

    子どもの頃に、「友だちって何だろう?」と考えたことは誰にでもあるはずだ。「クラスが同じだったら友だち?」、「家に遊びに行ったら友だち?」。 小説を読み終えて、自分にはまだその結論が出せていないことがわかる。

    小説は、一風、アンソロジーのように書かれているが、時間や登場人物が交錯し、最初のうち、少し読みにくいと感じるかもしれない。あるいは登場人物たちの誰かに自らが重なり、心がざわついてしまうかもしれない。そして、「あの頃の思い出はそんなに素敵ではないよ」という気持ちになるかもしれない。しかし、読み終わってみれば、いまの自分いる。

    もし、「私は私。そうだよね?」と尋ねたら、「きみ」は一体どんな風に答えるだろうか。そっけなく、ちょっと怒った声で答えるだろうか、「『みんな』じゃないってことだけじゃ十分じゃないよ」と。それとも黙って空を見上げるだろうか。

    ---
    1969年に書かれた児童小説に大石真の「教室二〇五号」という小説がある。そこで描かれているのは60年代の子どもたちだ。36年たって描かれた現代の子どもたちとは単純には比較できないのは自然なことだ。しかし、両者はどこか本質的に違う。

    教室二〇五号では少年たちは、物理的な秘密の部屋を共有する。現代の子たちには物理的な秘密の部屋はなく、あるのは心理的な秘密の部屋だけなのかもしれない。60年代の子どもたちに辛い気持ちがなかったということではない。いじめや嫌がらせがなかったともいわない。靴を隠して知らないふりをする卑怯者もいた。心の秘密の部屋に逃げ込むしかないこともあった。けれど、個が侵蝕される度合いはこの小説ほどだったのだろうか。

    生態系という言葉が浮かぶ。そう、この二つの時代では、どこか生態系が異なるのだ。生態系の違いが、個への著しい侵蝕を生み、個と集団の区別がつかなくなってしまっている。過剰反応のような自己防衛的な攻撃と、すべてを0か100かに区分けするデジタル的な態度と、抑圧的な同調とが、他の植物の生長を抑制するセイタカアワダチソウなどが持つアレロパシーのように作用する。他感作用と和訳されるアレロパシーは、ギリシア語の「互いに」と「感受」からなる合成語だという。子どもの世界が互いに発するアレロパシーによって支配されている。そこにあるのは、生態系という「逃れられない世界」だ。

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    最終的に「きみの友だち」に答えはない。ヒントだけ。それは、生態系としての逃れられない世界に生きる小さな者たちへの、著者のさしのべる救いとやさしさのまなざしのように思える。

著者プロフィール

重松清
1963年岡山県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。91年『ビフォア・ラン』でデビュー。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、『エイジ』で山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』で直木三十五賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞を受賞。著書に『流星ワゴン』『疾走』『その日のまえに』『カシオペアの丘で』『とんび』『ステップ』『きみ去りしのち』『峠うどん物語』など多数。

「2023年 『カモナマイハウス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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