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感想・レビュー・書評
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想像よりも面白い。
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吉川英治作品初読です。司馬遼太郎に似た読み口と感じました。これの次の巻の冒頭を読んでいるところですが武蔵が登場しないシーンの描写が多く、そして結構長いので不安(不満?)に思いつつもそんなものかと読み進めてます。読みやすいのであまり気にせず気長に読もうかと。いずれにせよ青空文庫で無料でそしてKindleで読めるのはありがたいですね。
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[再読]
何回か読んで、物語も知っているのだが、武蔵の成長していく姿に胸の高鳴りが抑えられない。
成長していく武蔵がまるで目に見えるようだ。
ここから、武蔵の旅が始まる。
正に不朽の名作。 -
吉川作品はご都合主義が甚だしく主人公補正もかなり効いている。ただ文体のリズムがよくストーリーもわかりやすいため暇つぶしには最適。疲れない。
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16/3/30
武蔵が人間になった
お通は如何あってもかわいそう
孤児だし捨てられるし
男に依存しすぎな -
覚禅房胤栄という人が、小柳生の城主柳生宗厳のところへ出入りしたり、また宗厳の交わりのある上泉伊勢守
権律師胤舜
武蔵
無為の病。
光悦といえば 、今 、京都の本阿弥の辻には 、天下に聞えわたっている同じ名の人間が住んでいる 。加賀の大納言利家
いちど受けた傷手の深刻な苦さが 、錯然と 、日が経っても皆の顔にただよっていて 、なにを相談するにつけても敗者の傾きたがる消極か ― ―また極端な積極へと走りたがってまとまらない 。
人間のすべての事業は 、創業の時が大事で難しいとされているが 、生命だけは 、終る時 、捨てる時が最もむずかしい 。 ― ―それによって 、その全生涯が定まるし 、また 、泡沫になるか 、永久の光芒になるか 、生命の長短も決まるからである 。
われ事において 、後悔せず
たとい剣において 、望むがごとき大豪となったところで 、それがどれほど偉大か 、どれほどこの地上で持ち得る生命か 。武蔵は 、悲しくなる 。いや富士の悠久と優美を見ていると 、それが口惜しくなってくる 。畢竟 、人間は人間の限度にしか生きられない 。自然の悠久は真似ようとて真似られない。
人間の眼に映って初めて自然は偉大なのである 。人間の心に通じ得て初めて神の存在はあるのだ 。だから 、人間こそは 、最も巨きな顕現と行動をする ― ―しかも生きたる霊物ではないか 。 ― ―おまえという人間と 、神 、また宇宙というものとは 、決して遠くない 。おまえのさしている三尺の刀を通してすら届きうるほど近くにあるのだ 。いや 、そんな差別のあるうちはまだだめで 、達人 、名人の域にも遠い者といわなければなるまい 。
世々の道に反かざる事 。
村の者心得べき事鍬も剣なり剣も鍬なり土にいて乱をわすれず乱にいて土をわすれず分に依って一に帰る又常に世々の道にたがわざる事
「あれになろう 、これに成ろうと焦心るより 、富士のように 、黙って 、自分を動かないものに作りあげろ 。世間へ媚びずに 、世間から仰がれるようになれば 、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる 」
常々師の光悦が申すことには ― ―由来 、日本の刀は 、人を斬り 、人を害すために鍛えられてあるのではない 。御代を鎮め 、世を護りたまわんがために 、悪を掃い 、魔を追うところの降魔の剣であり ― ―また 、人の道を研き 、人の上に立つ者が自ら誡め 、自ら持するために 、腰に帯びる侍のたましいであるから ― ―それを研ぐ者もその心をもって研がねはならぬぞ ― ―と何日も聞かされておりました 」
聡明な人で 、精神家というよりも 、理性家であった 。
神子上典膳と称っていたが 、関ヶ原の戦後 、秀忠将軍の陣旅で 、剣法講話をしたのが機縁で 、幕士に加えられ 、江戸の神田山に宅地をもらって 、柳生家とならんで師範に列し 、姓も 、小野治郎右衛門忠明とかえたのである 。それが神田山の小野家だった 。神田山からは 、富士がよく見えるし 、近年 、駿河衆が移住して来て 、邸宅の地割がこの辺に当てられたので 、この山一体を 、近頃は駿河台とも呼び始めている 。
先人ヲ追イ越スハ易ク
後人ニ超サレザルハ難シ
「そんならなぜ仏様は 、悪人も忠臣も 、同じみたいなことをいうんですか 」 「人間の本性そのものは皆 、もともと 、同じ物なのだ 。けれど 、名利や慾望に眼がくらんで 、逆徒となり 、乱賊となるもある 。 ― ―それも憎まず 、仏が即心即仏をすすめ 、菩提の眼をひらけよかしと 、千万の経をもって説かれているが 、それもこれも 、生きているうちのこと 。 ― ―死んでは救いの手にすがれぬ 。死してはすべて空しかない 」
「悪い名を残せば悪い名が 、 ― ―いい名を残せばいい名が 」 「むむ 」 「白骨になってもね 」 「 … …けれど 」と武蔵は 、彼の純真な知識慾が 、一途に呑みこんでしまうことを惧れて 、それにまたいい足した 。 「だが 、その武士にはまた 、もののあわれというものがある 。もののあわれを知らぬ武士は 、月も花もない荒野に似ている 。ただ強いのみでは 、おとといの晩の暴風雨も同じだ 。 ― ―剣 、剣 、剣 、と明け暮れそれを道とする身はなおさらのこと 、もののあわれ ― ―慈悲の心がなくてはならぬ 」
「自己の一身など考えていては天下の大事はできませぬ 」 「青二才 」沢庵は 、一喝して 、城太郎の頰をぐわんと撲った 。城太郎はふいを打たれて 、頰をかかえたが 、気をのまれたように為すことを知らなかった 。 「自己が基礎ではないか 。いかなる業も自己の発顕じゃ 。自己すら考えぬなどという人間が 、他のために何ができる 」
わしの野望は 、地位や禄ではない 。烏滸がましいが 、剣の心をもって 、政道はならぬものか 、剣の悟りを以て 、安民の策は立たぬものか 。 ― ―剣と人倫 、剣と仏道 、剣と芸術 ― ―あらゆるものを 、一道と観じ来れば ― ―剣の真髄は 、政治の精神にも合致する 。 … …それを信じた 。それをやってみたかったゆえに 、幕士となってやろうと思った 」
「迷いも実 。悟りも真 。わしはそう思う 。噓と観たら 、この世はないからな 。 ― ―いや御主君に一命をさし上げている侍奉公の身には 、かりそめにも虚無観があってはなるまい 。わしの禅は 、ゆえに 、活禅だ 。娑婆禅だ 、地獄禅だ 。無常におののき 、世を厭う心があって 、侍の奉公が成ろうか 」
自分で自分を 、だめだと見限ったら 、もう人生はそれまでのものだ 」と 、励ましたが ― ―しかし 、と付け加えて 、 「とはいえ 、かくいう武蔵も 、実は今 、何かまったく 、壁のような行止りと 、ともすれば 、おれは駄目かな ? ― ―と疑いたいような 、虚無に囚われて 、何をする気も失せているのだ 。そういう無為の病に 、自分は三年に一度か 、二年に一度ずつは 、きっと罹るのだが 、その時 、駄目と思う自分を鞭打って励まし 、無為の殻を蹴やぶって 、殻から出ると 、また新しい行くてが展けてくる 。そして驀しぐらに一つの道を突き進む 。 ― ―するとまた 、三年目か四年目に 、行止りの壁につき当って 、無為の病にかかってしまう 。 … … 」
無為の苦しさは 、無為を悶える者でなければ分らない 。安楽は皆人の願うところだが 、安楽安心の境地とは大いにちがう 。なさんとして 、何もできないのである 。血みどろに踠きながらも 、頭も眸もうつろに呆けたここちである 。病かというに 、肉体にはかわりはない 。
間髪のまに 、処する方法が立っていた 。兵法によらず 、すべての理は 、それを理論するのは 、平常のことで 、実際にあたる場合は 、いつも瞬間の断決を要するのであるから 、それは理論立てて考えてすることではない 。ひとつの 「勘 」であった 。平常の理論は 「勘 」の繊維をなしてはいるが 、その知性は緩慢であるから 、事実の急場には 、まにあわない知性であり 、ために 、敗れることが往々ある 。「勘 」は 、無知な動物にもあるから 、無知性の霊能と混同され易い 。智と訓練に研かれた者のそれは 、理論をこえて 、理論の窮極へ 、一瞬に達し 、当面の判断をつかみ取って過らないのである 。
武蔵は恐いのである 。理解ある人の好意には 、襟を正すが 、その衆望が浮薄化して 、人気というような波に乗せられることを 、恐ろしいと思った 。ふとすれば 、自分も凡夫だし 、思い上がらないものでもない 。
心をそこにおく時 、彼は 、世間に対して慎む心こそあれ 、迷惑がる気もちなど起すのは勿体ないと知るのだったが ― ―しかし 、その好意が余りに 、自分の真価に対して過大であり過ぎる時 、彼は 、世間を恐れずにいられなかった 。
「また 。修行は寺でもできぬことはないが 、世間の修行が難事 。汚いもの 、穢れたものを忌み厭うて 、寺にはいって浄いとする者より 、噓 、穢れ 、惑い 、争い 、あらゆる醜悪のなかに住んでも 、穢れぬ修行こそ 、真の行であるともいわれました 」
「兵法ではすべて 、早速の機というものを尊ぶ 。こちらに備えあるも 、敵が備えを破るに備えの裏を搔いて来る場合は 、かえって 、こちらが出鼻の誤算を取ってしまうような例が往々ある 。臨機に自由にありのままな心をもって臨むに如かずです 」
平常は何事も 、朋輩衆よりも控え目に 、ことある時は 、人の避けることも進んでするようにな 」 「 … …はい 」 「そちにも 、母がない 、父もない 。肉親のない身は世の中をつめたく見 、ひがみ易い 。 … …そうなってはならぬぞ 。あたたかい心で人のなかに住め 。人のあたたかさは 、自分の心があたたかでいなければ分る筈もない 」
技か 。天佑か 。否 ― ―とは直ぐいえるが 、武蔵にも分らなかった 。漠とした言葉のままいえば 、力や天佑以上のものである 。小次郎が信じていたものは 、技や力の剣であり 、武蔵の信じていたものは精神の剣であった 。それだけの差でしかなかった 。
波騒は世の常である 。波にまかせて 、泳ぎ上手に 、雑魚は歌い雑魚は躍る 。けれど 、誰か知ろう 、百尺下の水の心を 。水のふかさを 。
一 、世々の道にそむくことなし一 、身に 、たのしみを 、たくまず一 、よろづに依怙の心なし一 、身をあさく思ひ 、世をふかく思ふ一 、われ 、事において後悔せず一 、善悪に他をねたむ心なし一 、いづれの道にも 、わかれを悲まず一 、れんぼの思ひに 、寄るこゝろなし一 、わが身にとり 、物を忌むことなし一 、私宅においてのぞむ心なし一 、一生のあひだ 、よくしんおもはず一 、こゝろつねに道を離れず一 、身をすてゝも名利はすてず一 、神仏を尊んで 、神仏を恃まず -
悪童と呼ばれた武蔵(たけぞう)は、沢庵の導きで書物に囲まれ3年間のひきこもり修行へ。
そこから宮本武蔵(みやもとむさし)が始まる。