図書館で上橋さんの「精霊の守り人」を借りて以来、嵌りに嵌った上橋ワールド。 その後「守り人 & 旅人」シリーズ全作、「獣の奏者」、「狐笛のかなた」、「月の森に、カミよ眠れ」、「隣のアボリジニ――小さな町に暮らす先住民」と彼女の手になる作品をそれこそ貪るように読み耽った日々が昨日のことのように思い出されます。
彼女の作品を読み進むにつけ、どこか根っこの部分で彼女の感性のようなものと KiKi 自身の感性のようなものにある種の親和性みたいなものを感じるようになりました。 そして彼女のプロフィールを眺めてみたらほぼ同い年であることが判明! KiKi が感じる親和性の正体は「ある種の時代感覚か?」と思ったものでした。 そしてその後インタビュー記事やら岩波少年文庫の発刊60周年記念リーフレット、更には「『守り人』のすべて 守り人シリーズ完全ガイド」などを読んでみてわかったことは、彼女と KiKi は子供時代に同じような本を読んで感銘を受けていたんだなぁということでした。
昨今と比べれば上橋さんや KiKi の子供時代は「子供用の本」が限られていたから、「同じような本を読んでいた」という体験そのものは必ずしも珍しいものでもなかったけれど、肝心なのはその同じような本を読んでいた中で「お気に入りだったのがどの本だったのか?」という点で、彼女と KiKi の趣味はまさにベスト・フィット。 ああ、だから感じる親和性なのか!と納得したのがこの本を読む前までの KiKi の感想でした。
さて、そして今回この本に出会いました。 すると気になるフレーズが次から次へと出てきます。 全部数え上げるときりがないからその一部を紹介すると・・・・・・
子供時代、「夢見る夢子ちゃんだった」
あれ? どっかにもいたよなぁ、そんな子。
子供時代、キュリー夫人に憧れた
あれ? どっかにもいたよなぁ、そんな子。
小学生時代、学研の「科学」と「学習」という雑誌が大好きだった。
あれ? どっかにもいたよなぁ、そんな子。
時の流れはいつ始まって、いつ終わるのだろう。 (中略) 広大無辺な闇の中に放り出されたようで、いまでも、背筋がぞくぞくするくらいこわくなります。
あれ、ちょっとだけ違うけど、似たような体験をしたっけなぁ。 KiKi の場合は家にあった KiKi が赤ちゃん時代に飲んだのであろう粉ミルクの缶に描かれた絵を見ていて、ブラックホールに吸い込まれるような感覚に陥ったんだっけ・・・・・。 その缶には粉ミルクの缶を抱えた女の人の絵が描かれていたんだけど、その女の人が持っている缶にもその絵が描かれていました。 その絵を見ているうちに、「どこまでいけばこの絵は終わるんだろう?」とか、同じポーズで KiKi がこの缶を抱えたら、その缶をかかえた KiKi の姿を同じように抱える誰かがいるんだろうか?とか夢想し始め、その気の遠くなるような連鎖を考えたらものすご~く心細くなって、自分という存在があってないようなものに感じられ始めた・・・・・そんな体験でした。
自分は正しい。 そう強く思うときほど、注意深くなろう。 物事は、深く考えれば考えるほど、どちらとも言えなくなるのだから。
そうそう、そういうことをあれこれと考えた末に得た KiKi の1つの結論こそが「正義とは立場が異なれば違うもの」というものだったっけ。
本はすごく好きだったけれど、自分で何かをする実体験が浅いことを、ずっと気にしていたのです。
私は「私って、何?」ということよりも「人間って、何?」ということに関心がありました。
「夢見る夢子さん」と言われるのが嫌だったら、甘ちゃんなくせに、どこか傲慢な自分が叩きのめされる瞬間を、あえて味わいに行かないといけないんじゃないか。
あれ? どうしてこの人、若かりし頃の KiKi と似たような思考回路なんだろう??
たくさんの物語を読むことで、いろんな可能性に、目を開かせてもらいました。 世の中にはさまざまな立場で生きる、さまざまな人たちがいて、その物語を一緒に生きることで、その人たちの人生を泣きながら、笑いながら、感動しながら体験してきたのです。 それは私にとって本当に宝物のような、大切な体験ではあったけれど、自分自身ではなんのリスクも負わずに、美しいもの、豊かなものを受け取るだけ、受け取ってきたのです。 そういう自分のことをちょっとずるいな、と思っていました。
これだぁ! KiKi がどこかで強く感じていた、彼女の精神との親和性の一番の元はここだぁ!! 本が大好きで、その物語世界に遊ぶ楽しさ、ラクチンさを堪能した頃に訪れた、変化の兆し。 そこにあるのは主体性というか能動性への渇望。 どこかおっかなびっくりながらもその一線を自分が能動的に越えることに対する意味づけ。 そういう思考回路にこそ親和性の根っこがあった・・・・・そんな風に感じました。
その後彼女は文化人類学者としてフィールド・ワークの旅に出たわけだけど、KiKi はまず自分の力で食っていくことから手掛ける必要があったために、普通のOLにと道は分かれました。 彼女は学問の世界の中で、しかも机上の空論には終わらないフィールド・ワークを大切にしたわけだけど、KiKi の場合は現代の世の中を動かしている経済社会へとそれぞれ足を踏み出して行った・・・・。 進む道こそ大きく異なれど、そこにある「夢見る夢子ちゃんでは終わらない!」という覚悟のようなもの、そこに共通点があったんだと感じ入りました。
結局、KiKi は日本社会の縮図のような日本的な会社のOLからスタートし、もっと広い世界とその自分とは価値観の異なる世界に住む人たちとの出会いを求め、外資系企業に転職。 世界のあちこちへ出て行って上橋さんとは異なる社会体験を積んできたわけだけど、自分を動かす行動原理みたいなものはずっと似通っていた・・・・・。 だからこそ感じる彼女の作品に対する親和性なんだろうな・・・・今はそう思います。
そして KiKi 自身は?と言えば45歳を超えたあたりから、文明社会にどっぷりと浸りきって、何でも「カネ」で買えばいいという生活に今度は倦み始めました。 あれこれ試行錯誤してみた結果、今度は自然の中で自然と共に生き抜く、消費する生活ではなく生産する生活を身を以って知りたい!とばかりに、経済的には大きなリスクをとることになる今の生活を選んで Lothlórien_山小舎生活が始まったのです。
物語作家である上橋さんの生き様を読むことによって、何故か自分の来し方を振り返る読書になってしまった・・・・・。 そんな読後感でした。