- Amazon.co.jp ・電子書籍 (196ページ)
感想・レビュー・書評
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歴史探偵こと半藤一利氏と昭和史の作家・保阪正康氏の対談形式の著作。
メディアが社会においていかに重大な役割を占めているかを、戦前昭和史を題材に語ったもの。
新聞などのジャーナリズムには、売り上げを伸ばして食っていくという組織の論理があり、ジャーナリスト個人の論理よりも組織のそれの方が優先されがち。
だから、国家や軍部の情報統制に追従する道をひた走ることになった。
戦前において、国家とジャーナリズムは一体のものであり、新聞や雑誌などのメディアは国家宣伝部の役目を果たした。
戦争協力に邁進した朝日新聞などの大手メディアが、敗戦を機に「これからは民主主義の時代!」と戦前の軍国主義へのシンパシーを節操もなくかなぐり捨てたことには違和感を感じざるを得ない。
終章にて、歴史を学ぶにあたっては同時代性を持つことが大切と触れられていたが、まさにその通りだと思う。
戦前にもし生きていたとしたら、自分はどう考えて行動したのだろうか?
歴史の結末を知る我々が現代の尺度のみで歴史を評価するのでは、歴史から何も学ぶことはできないだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
タイトル通りの内容。3年に及ぶコロナ狂乱の責任の一端は間違いなくメディアにあり、10年前の本書の警鐘が実感出来るし、文庫化のタイミングがもう少し遅い20〜22年ならなお良かったかもしれない。興味深かったのは、二・二六事件当時起きた阿部定事件にメディアが一斉に飛びついた話で、ネタに飢えていた状況ゆえに、その事象が本来のバリュー以上に報じられた事は、報道の本質のひとつに思えた。ジャーナリズムの未成熟や、煽られるまま国がおかしな方向に向かう現象は、何も日本だけの問題ではないが、日本固有の事情があるとすれば、戦時中の強烈な失敗体験を持っていることで、本書の趣旨もそこにある。ただそのアドバンテージを活かせているかどうか。
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このタイトルから、何故日本の大衆は開戦に喜び戦争報道に熱狂したのか、という疑問が解決できるかと思って読み始めたが、全く解決できなかった。
周知の事実である、マスコミは大衆にウケがよく売れる戦争賛成報道に走った。政府の伝達役になった。という内容。その態度がジャーナリストではないという非難。
何故戦争を賞賛する内容が大衆に受け入れられたのか、何故慎重論は大衆に受け入れられなかったのか、その考察はない。
当時の226事件の大衆の反応など、興味深い情報は所々にあった。
ただし、全体的に「今時の若者は……」という論調で、若者の不勉強を嘆くのに、自分はSNSなどついていけないから勉強しない、という二律背反的な態度がどうなのか、と思いながらもやもやしつつ読み進めた。 -
【由来】
・図書館、マイライブラリ画面の「新着資料一覧」で
【期待したもの】
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【要約】
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【ノート】
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『あの戦争と日本人』のあとがきで著者は、メディアの果たした役割に言及するのが抜けていたと語っている。本書はちょうどその不足を補うようなテーマで、保阪正康との対談形式で存分に語っている。
まず最初の段階で指摘されているのは、戦時中の新聞が政府に迎合することしか書けなかったのは、言論統制されて仕方なかったという新聞各社の釈明がウソだということだ。著者いわく、日本の新聞は、好戦的で戦争を煽る記事を書いた方が「売れる」ということを日露戦争の時にはっきり学び、それを昭和になって存分に活かしたというのだ。
もちろん新聞も営利企業である以上、不買運動などされれば経営できなくなるのだから仕方ない面はあるだろうが、しかし気概のあった明治の新聞と違い、昭和の新聞はあからさまに「売れる記事」を書いていたようだ。
とはいえ、言論弾圧がなかったというわけではない。たとえば本書で繰り返し取り上げられている桐生悠々のようなジャーナリストが弾圧されたのは事実のようだ。しかしそれは本当に一部の話に過ぎないのだろう。
本書は2013年に発行されたもので、かなり時事的な話題も盛り込まれている。読むなら早いうちがいいと思う。数年経てばまた状況は変わってくる。多分、著者らが危惧する方に。 -
昭和史は戦争の歴史であり、その中で日本のメディアがどのように機能不全に陥り、戦争に加担したのかを振り返る。
今どきの若いジャーナリストは現在のことは詳しいが歴史に疎いというのがお二人の見解。歴史に学ぶことで、ジャーナリズムが適切に機能するよう取り組む必要があるという指摘。ここでは特にジャーナリストに焦点が当てられてはいるが、情報を選び受けとる一般人も同じように歴史に学ぶ必要がある。