2巻までなんとか読み切った。
第一話で提示されたテオのキャラクターは、プロファイリングの名手的なエピソードが登場したにもかかわらず、それを活かせてない話だった。
兄フィンセント・ヴァン・ゴッホもなんかうすぼんやりしたキャラのまま、いくら「後付けで焔の画家は誕生しました」をやるにしても、薄味すぎないかってくらいフィンセントが影薄すぎのウスバカゲロウである。
怒りの感情を持たない、という設定が、ただ弟の言葉に語られるのみ、弟の葛藤ぽいものに影響しているのみで、それで作中誰も困らないし、他のキャラを動かすこともない。
この設定要らなくないですか。
アカデミーの権威は薄っぺらい悪党でしかなかったし。
「恋だよ」等の思わせぶりな台詞は語るが、それを駆動力とした物語になってない。
各話でぶつ切れた印象のエピソードをつないで、末尾で上手くまとめました!的な物語だった。
第一話で、マダム・ブールジーヌに見事プロファイリング通りの「義理の息子に恋をした王妃の悲劇」絵を売りつけたのだから、そのまま
「我々画商は絵を売っているのではない。顧客のはまれる『物語』を売っているのさ!有閑マダムには絶好のセンズリのネタをな!」
くらい喝破してほしかった。ラーメン発見伝のハゲ(芹沢達也)のごとく『画商は物語を売りつけている』キャラ立ててからの、
「『神話』や『伝説』といった高尚な衣で飾ったアカデミーの絵はもう要らん!
赤裸々な物語!
あらたな文学の時代だ! 共和主義思想に対し、宗教保守主義は復権の機を狙っているぞ!
ヴィリエ・ド・リラダン『残酷物語』を読んだか?
ユイスマンスの『さかしま』は?
これら新しい物語に対応する、新しい絵が必要なんだ!
その為のアンデパンダン展だ!」
くらい言い放って既存のアカデミー画壇に挑むような話だったら、星5つつけていた。
印象派の画家が登場するが、美術史的にもフランス文化史的にも見るべきものがない。最後に取って付けたように登場する戯曲作家に至っては名前すら出てこない。
どうせならブールジェ(問題小説『弟子』の著者)でも呼び出して、エゴイズムとニヒリズムに引き裂かれた世代の天才としてフィンセントを描かせればよかったのに。
漫画家の穂積氏の、短編集はきちんと纏まった小粒ながら光る作品が多い。
だが長編には別の力量が必要だ。
いい短編をつなげてもいい長編はできない。
そこは編集者の力量もあろうが、『物語に一本通った筋』のようなものが感じられない。
故に星一つとした。
これが「このマンガがすごい」一位だったというので、2014年は漫画界不作の年だったと思われる。