ハンナ・アーレント [DVD]

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監督 : マルガレーテ・フォン・トロッタ 
出演 : バルバラ・スコヴァ  アクセル・ミルベルク  ジャネット・マクティア  ユリア・イェンチ  ウルリッヒ・ノエテン 
  • ポニーキャニオン (2014年8月5日発売)
  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988013710467

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ハンナ・アーレント [DVD]の感想・レビュー・書評

  • \*\ 思考の風よ、吹け! /*/






     すり鉢状の教室で学生達を前に講義を行なうラスト間近のシーンに、ハンナが己の一生に費やした事の総てが集約されており、当然だがハンナ・アーレントに扮した女優:バルバラ・スコヴァの力演は見事!  


     この講義のシーンが私には、「セント・オブ・ウーマン~夢の香り~」で、クリス・オドネルの思考・スタンスを正当なものだとし擁護。持論を展開し学校の方針の根底にある腐敗した部分を言及、明言したアル・パチーノの、あの毅然とした素晴らしい公述(スピーチ)と重なってくるものを感じた。 


     ヘビースモーカーのハンナが燻らす喫煙の所作も、なかなかのもの。 グレー味がかった薄紫の副流煙の中に彼女が自問自答、言及し続けている「悪」の所在が見え隠れするようなタッチは絶妙である。

     ある時にはそんな彼女の所作(喫煙という行為)が、あたかも猫科の動物に於ける毛繕いの真意にも思えてしまい… 


    ☆.:*・’・*:.。☆。.:*・’・*:.。☆。.:*・’・*:.。☆。.:*・’・*☆


     以下、講義中で語られたアーレントの言葉で胸に響いたものを上げさせていただく。 



     (1)「(アイヒマンを指し)彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが、理解を試みるのと許しは別です。この裁判について文章を書く者には理解する責任があるのです!」 


     (2)「思考の風がもたらすのは知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。」  

     (3)「ソクラテスやプラトン以来、私たちは思考をこう考えます。自分自身との静かな対話だと… 人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐な行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。」     


    ★そして 彼女は結論へと導く・・・



    『私が望むのは考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことでーー破滅に至らぬよう…』    



     //今、ISISが起こしている問題が緊迫した展開を見せている中、本作を真夜中にオンデマンド観賞いたしました。胸が苦しく締めつけられています。

    *人の「命」は地球よりも重いのではないのか。 
    *武力(暴力)で圧することの意義はどこにあるのだろう。 
    *人間を「カード」と呼称しての取引き。 


     戦争を経てきている我が国に生まれ、その悲惨さをシリアスに体験談として語り継げる者が居なくなろうとも、断じて過ちが繰り返されることがないよう… 


    「思考の風よ、吹け!」私はそう強く願い、彼女のこの言葉を今一度 熱く心に焼印しながらこの寄稿を閉じさせていただきます。  


    『危機的状態にあっても、考え抜くことでーー破滅に至らぬよう』 //



    2015-1-29(Thu) * 小枝  記 * 

  • ユダヤ人移民の哲学者ハンナアーレントが、ナチ上層部アドルフ・アイヒマンの裁判に立ち会って…。

    結局、上の命令にしたがったまでだ、と、アイヒマンは主張した。そこに信条や、いわゆる悪魔的なものはなかった。ただ、アイヒマンはナチという法律に従った「役人」だった。

    そんな、「悪の凡庸さ」について語るハンナ。
    "思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為走る。"
    "考えることで人間が強くなることを私は望む。"

    最後の学生たちへの演説は、何度でも聴く価値があると思います。

    何にでも素直に従うことが美しいのではない。
    「何に」従うのかは、私たち自身がしっかり考えなければならない。
    ハンナの主張は今の私たちも、というか、今の私たちこそ、耳を傾けなければならないと思います。

    これはぜひ若いうちに観てほしいなぁ。

  • 1960年、ナチスドイツの軍人で、ホロコーストの責任者の一人であるアドルフ・アイヒマンが、逃亡先のアルゼンチンでモサド(イスラエルの諜報機関)に見つかりイスラエルへ連行された。彼は翌61年に「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する罪」などの罪状で起訴され、裁判を受けて有罪となり、62年に処刑された。

    この裁判を傍聴し、『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さ(banality)についての報告』をザ・ニューヨーカー誌に連載したのがこの映画の主人公:ハンナ・アーレントだった。そのレポートの特徴は、アイヒマンが「上からの指示に従っただけ」と言い訳を繰り返すことに注目し、彼が極悪非道で暴力志向の強い人間などではなく、むしろ命令に忠実に従うだけの小心者の一官吏にすぎなかったということを明らかにした点にある。それはとりもなおさず、官僚機構のような徹底した分業化により巧妙に暴力性を隠ぺいすると同時に、当事者の責任意識を希薄化することによって集団構成員の想像力が失われ、平凡な人間が巨悪をなすに至った、というホロコーストの本質を見事に剔抉している。人類史上最悪の虐殺事件は、決して嗜虐志向の強い少数の異常者のみが引き起こしたのではない。むしろどこにでもいる「一般の人たち」が、特定の状況に陥ると暴力装置に変わってしまうというという点が最も恐ろしいのである。ホロコーストも文化大革命もポル・ポトの蛮行も決して他人事ではない。社会状況が変われば、我々も同じ行動を起こさないという保証はないのだ。

    しかし彼女の慧眼は、「誰か悪いやつがいてすべてそいつのせいだ」という結論を期待し、アイヒマンが一般人とは全く違う論理で動く「悪の権化」であることを確認して安心を得たかった当時の市民には受け入れがたいものであった。特にレポートの中に、ユダヤ人自治組織(ユダヤ人評議会、ユーデンラート)の指導者が強制収容所移送に手を貸したとする記述があったため、内外のユダヤ人社会からの激しい反発を招いた。自らもドイツ系ユダヤ人であり、抑留された経験も持つアーレントからすれば、筆舌に尽くし難い苦難だったに違いない。

    しかし彼女は、壮絶なバッシングのなかでも自分の主張を翻すことなく、想像力の欠如が招いた惨劇を再び現出させまいとして「考えることが人を強くするのだ」と辛抱強く説き続けた。映画はセンセーションの顛末やその後の彼女の人生については一切触れずに終わっているが、それは観客に「環境によって人は誰でも悪に手を染める可能性がある」ということを、自分の身に引きつけて考えてもらいたかったからだと思う。悪を自分には関係ないものだと考えてニュースや雑誌で娯楽的に消費する、あるいは思考停止状態で無批判に命令を実行することが一番危険だ、ということを。

    何か問題が起こった時、それを個人の責任に帰するのはたやすい。しかし安易な因果論や自由論から一線を画し、その行為を生み出すに至った集団の力学へ目を配ると同時に、そもそも責任が発生する根拠は何か(個人の行動に選択の余地、自由があるからか。しかし本当に「選択の自由」などがありうるのか)を真剣に問い直す姿勢が大事だと感じた。興味を持った人は小坂井敏晶のいくつかの本、例えば『社会心理学講義』や『責任という虚構』を手にとってみることを薦める。

  •  1960年、数百万人もの人々を強制収容所に送る指揮を執ったアドルフ・アイヒマンが拘束され、裁判にかけられることとなった。ユダヤ系の哲学者ハンナ・アーレントはその裁判を傍聴し記事を発表するが、その記事は大きな波紋を呼ぶ。

     ”悪の凡庸さ”
     テレビ番組でスタンフォード監獄実験のことを知った時の衝撃はいまだに忘れられません。普通の人が権力を得、目の前に見下げるべき弱者がいるといくらでも変わりうる、そしてそれは他人事ではない、という事実が何よりも怖かったのだと思います。

     アイヒマン実験というものもあります。これも権力の後ろ盾があるとき人はどう変わるか、という心理学の実験です。そしてもちろんこの名前の由来は、アドルフ・アイヒマンの存在です。

     裁判でアイヒマンは多くのユダヤ人を強制収容所に送ったことについて「ただ上からの命令に従っただけ」と答えます。こうした発言やアイヒマンの態度から、ハンナ・アーレントはアイヒマンを”悪”ととらえず”役人”と捉えるようになります。

     そしてアーレントは大衆が望む、アイヒマン絶対悪の記事とは少し違う論調の記事を書きます。そしてもう一つ触れたことはユダヤ人組織が強制収容所の移送に関わっていたことでした。この二点で彼女は世間や自身が勤める大学関係者、同朋のユダヤ人や夫からも非難を受けます。

     そんな中での彼女の大教室での講義シーンは非常に見ごたえがありました。語りの演技の素晴らしさや、大事なところではたばこを吸いながらの熱弁がかっこよく、そして内容も非常に深いです。

     ユダヤ人虐殺を単に絶対悪の問題で考えず、思考を放棄した”普通”の一人の人間がたどり着いた結末として考えること、
    悪を単に断罪するのではなく、その悪の本質を理解すること、
    そしてそうした悪に飲まれないように自分たちはどうあるべきなのか、

     そして、そうしたメッセージが必ずしも正確に伝わるわけではない、という皮肉さや寂しさ、
    表層的な面に囚われ思考を停止する人々の存在も描いた、派手さはなくてもとても濃密なラストだったと思います。

     こうした悪に対抗できるのは単純な道徳論なんかではなく”思考”なのだろうな、と彼女の話を聞いていて思いました。哲学については考え始めたらきりがない、と思って敬遠していましたがハンナ・アーレントの著作はちょっと調味が出てきました。

  • アーレントは、自ら抑留体験をもつユダヤ人でありながら、シオニズムに与せず、イスラエルからもドイツからも離れたコスモポリタン性に希望を見出だそうとし続けたひとである。ほんとうの「公共」とは、民族や国家ではないはずだ。
    人間の本源的活動を、労働や仕事と峻別し、常に思考し、企て、始動することによってのみ、人間は関係付けられ、世界は形成される。
    しかし、このような思想が、既存勢力(固定観念と言ってもいい)に対していかに受け入れられにくいものであるかということもこの映画は教えてくれる。
    凡庸な悪、思考停止は、ますます世界を覆っている。
    21世紀にこの映画が訴える意味をよくよく考えて見なければならない。

  • 人は感情に翻弄されやすい生き物であって、感情というノイズを切り離して純粋な思考・認識力を働かせられるハンナ・アーレントのような人は、ほんの一握りしかいないのではないか…と観ながらどうしても絶望的になってしまう自分がいました。

    ハンナ・アーレントの意見に深く共感すると同時に、人間の弱さと愚鈍さを改めてまざまざと思い知った気分です。この弱さと愚鈍さという感情による不完全性こそが、人間という存在の大きな魅力でもあるのでしょうが…

    実際ハンナ・アーレントと彼女を批判する人々との差を考えると、それは自らの傷と向き合う勇気や、感情と思考を分離させ、客観的な視点で物事を分析するための集中力と意志力の有無だったのではないかという気がしてきます。

    客観的な視点から自らの傷を俯瞰して分析し、深い洞察と共に乗り越えるのか、それとも、主観性に囚われて感情に翻弄され、傷の痛みに耐え切れずに責任転嫁することで逃げ出すのか?

    心の傷によって引き起こされた感情の嵐は、人々から思考力を奪い、それこそアイヒマンのような『平凡な悪』以上の、自発的で攻撃的な『根源的な悪』へと向かう可能性を秘めているのではないでしょうか?

    つまり、悪の根源というのは人の心にある深い傷から生み出されるものなのではないか?ということです。そして、主観的に自らの傷の痛みに向き合うことが出来なければ、客観的に思考を働かせることはできないので、まずは思考以前に、感情の問題に取り組むべきなのではないか?

    やはりハンナ・アーレントがあの文章を世の中に出すには人々の傷は深すぎて、時期が早すぎたのでしょう。彼女は人間の心理については苦手分野だったのでしょうか?何よりも、映画の中での彼女は人を信じる純粋な気持ちが初々しく、私には羨ましくさえ思えました。

  • こんな凛とした女性がいるんだなぁ…。
    その強さはまさに、偽善や権力に飲み込まれない根源的な思考の力を持つ彼女だったからこそ、できたことなのかもしれない。

    ユダヤ人として自身が亡命した経験を持つハンナは、
    その後アメリカで哲学の教授となるも

    ユダヤ人大虐殺ホロコーストの指揮をとったアドルフ・アイヒマンが極秘逮捕された知らせを受け、

    裁判が行われたイェルサレムへ裁判を傍聴しに向かう。

    アイヒマンを”悪の権化”として見つめる裁判官や傍聴者の目線の中で、たったひとりハンナだけは、どうも”悪の権化”としてはアイヒマンがあまりに 凡庸すぎる という違和感を持った。


    これが全てのはじまり。

    アイヒマン自身はユダヤ人に対する憎悪も個人的な恨みも何もなく、「ただ命令に従っただけ」と繰り返す。

    「義務と良心の間を行ったり来たりしたが、上からの命令=法律のため、ただただ法律を遵守したに過ぎなかった。当時のSS組織のヒエラルキーの中で、良心を訴えることで何かが変わる要素があったかと言えば、そうでなかった。つまり、意識的に義務と良心を完全に分断していた。そうせざるを得なかった。」

    こう述べる裁判でのアイヒマンはとても冷静で、いわゆるエリートサラリーマンのような物言いで淡々と話す。
    そして、被害者達の訴えがまるで見当違いかのように怒りをこめて。

    確かに、原告たちは迫害された憎しみをアイヒマンに対して感情的に訴えるけど、それはアイヒマンの”管轄外”の話ばかりであり、その場全体の違和感をぬぐい去るような帰結は最後まで見当たらなかった。

    ハンナの目には、アイヒマンは極めて 凡庸 であり、
    だからこそ、 思考停止 状態となってあれほどまでの残虐行為ができたのではないかとの仮説を持った。

    それが、生涯彼女が主張し、持ち続けた命題となる【悪の凡庸さ】につながる。



    ナチである彼を最強の極悪人として仕立て上げることを望む社会的な空気は、彼女に対して強い敵意をむき出しにする。

    しかしその悪の凡庸さの本当の恐ろしさー誰もが持つ可能性のある凶悪性ーの恐怖を底から感じた彼女は、勇気を持ってそれを世間に出版した。


    ハンナは生涯の終わりまで、その批判の目にさらされることとなるが、それでも出版したことを後悔しない彼女の姿は、、、、、、

    本当に美しいと思った。
    ああ知性ってこういうことなのかなって。


    偽善で真実を多い隠すのは非常に容易いし、ましてや自分が見るも明確な被害者であれば、自分の意見の正当性は認められやすい。

    そんな中でも、感情や空気を切り離して真実を冷静に見つめた彼女は、理解し、伝えるという本当の意味での義務を果たしたうちの一人だと思う。
    アイヒマンを決して許しはしないが、理解しようとした人。

    見たものを、感情のまま、世間の期待するままに答える人間は必要ない。エンターテイメントの世界ならまだしも、これは世界規模の倫理、モラル、人間性についての大きな課題が議論される場。


    思考する人間だからこそ、果たすべき役割があるのだなと痛感した作品。


    ショボい例だけど、ブラック企業の洗脳とか、思考停止の社畜とか、芸能人バッシングしている人とかってのは…
    こういった場面においてとても浅はかな人間性を暴露していることと同じなのだと思う。
    いわゆる、知性を持たない”凡庸な大衆”。

    自分の思想や感情、行為を冷静に見つめ直す意識をくれる作品でした。
    ああ、やっぱドイツって哲学の国なんですね。


    以下引用

    ・ソクラテスやプラトン以来わたしたちは”思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。
    人間であることを拒否したアイヒマンは、... 続きを読む

  • 世界がわかりすぎてしまうのも
    すごく大変なんだろう

    根源的な悪と凡庸な悪は違う

    平時なら納得できたかもしれない理論でも
    たとえヒステリック気味だとしても
    否定しないではいられない
    それほどのことだった、ということでもあるのかも

    ハンナの最後の講義の演説は
    知っておくべき、聞いておくべきものだと思う
    特に、いまの日本において。

    特別な悪、理解できないような悪魔によって
    引き起こされたんだ、と皆が考えるなら
    同じことが再び起こりうると思う

    平凡な人間がゆえの凡庸な悪による悲劇
    だと皆が直視すること、そのとてつもない必要性

  • 2013年公開
    監督 : マルガレーテ・フォン・トロッタ
    ==
    大戦後のエルサレムで裁かれたある「戦犯裁判」を巡って巻き起こった”悪”と”人間”についてのお話し。

    重々しかったですね。
    ドイツ、って感じ笑

    テーマが何しろ深淵かつ陰惨なのと、難しいというのと、映画として2時間で切り出す難しさみたいなものが大きかったなあという読後感。終わり方も、「終わらないテーゼが提示されたのであった」っていう終わり方なので、物語としては全然終わってない、終わり方でした。

    揺さぶられたい人向けの作品。答えは提示されないのでそこはそのつもりで。

  • 「ハンナ・アーレント」と題された映画でありながら、ハンナ・アーレントを扱うことが主眼にないのが、この映画の最も面白いところだろう。

    考察すべきは、第一にアーレントの提唱した「悪の凡庸さ」であり、第二にハンナが精神を削って書いた記事に対する、周りのあまりの無理解と、不寛容さである。

    彼らはハンナがユダヤ人に寄り添っていないと盛んに非難したが、物事を表層的にのみ捉え、ハンナの記事を理解しようともしなかったのは他でもない批判者たち自身なのだ。

    これこそがハンナが鋭く批判した全体主義のもたらす思考停止であり、凡庸な人を悪にしてしまう現象ではなかろうか。
    だからこそ、我々は考え続けなければ(denken)ならない。(映画でハイデッガーが自分で認めている通り、彼は考え続けることに失敗してしまったようだ。しかし、「またいつでも始められる」という趣旨の発言をしていることが、ハイデッガーのみならずハンナの批判者たちの将来を考える上で希望を抱かせる)

    ハンナが「私が愛するのは一つの民族じゃない、友人なのよ」というシーンがあるが、これは民族を「国」や「宗教」に置き換えることで、現在にも十分意味を持つセリフだろう。

    ハンナの思考・精神の強さにはただただ驚くばかりである。

    -------------------
    途中でハンナがイスラエルの出版停止要請という名の脅迫に断固として反抗する場面があるけれども、これはハンナが実際に現場に行き、事実に基づいて記事を書いているから許されるわけであって、昨今の左右様々な記事をみているとハァ...って感じではある。

  • 「アイヒマンの擁護などしてません。
    私は彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが
    《理解を試みるのと、許しは別》です。
    この裁判について書く者には、理解する責任があるのです」

    「彼は検察に反論しました。何度も繰り返しね。
    ”自発的に行ったことは何もない。
    善悪を問わず、自分の意思は介在しない
    命令に従っただけなのだ" と」


    「思考の風がもたらすのは、知識ではありません。
    善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。

    私が望むのは、考える事で人間が強くなることです。
    危機的状況にあっても考え抜くことで、破滅に至らぬよう…」


    「=思考=をこう考えます。自分自身との静かな対話だと」

  • ハンナ・アーレントの半生を追った映画。とりわけイエルサレムのアイヒマン出版前後の大論争をメインにして描かれている。
    この時代のことを詳しくも、ハンナ・アーレントという人も元々知っていたわけでもなかったので詳細にはわからない部分も多かったけど、終盤の彼女の講義は圧巻だった。無思想性からくる凡庸な悪。それが未曽有の大虐殺を引き起こした一旦となった。このハンナが生涯かけて取り組んだ全体主義という事の問題、今の日本にも何か感じる所があってなんだかモヤモヤと考えてしまった。

    これを気に周辺の時代彼女の著作を掘ってみようかなという気にもなれた。

    演出的なものとしてはタバコを印象的に使うシーンが多く、昨今の流れとして規制されがちなものであるけどやはり演出の上ではとても素晴らしいものだと思った。

  • 見終わってからもう一度最初から観たいと思った。思考する事とはどういうことなのか。ただ漠然と考えることと思考は違うように思う。全体主義の恐怖を味わって、アイヒマンの命令を受けたからしたことだという言いぶんをどんな風に受け止めたのかニューヨーカーに書く。ハンナ・アーレントはユダヤ人指導者がアイヒマンの部署と関わりがあって、彼らが動けば600万人ものユダヤ人が死ななかったのではないかと書く。そのことで友達から去られても、考えることをやめなかったし、主張する。思考が止まったときに凡庸な悪は出現する。今、観るべき映画だと思う。この監督の新作観に行くのでとりあえず観てみたけど、とりあえずなんて失礼だった。

  • 凡庸さの見事な愚劣さ、怖さを描く。
    アイヒマン、ハイデガー、アーレント・・・全ての登場人物が有能で凡庸だ。
    これが作品として成り立ち、歴史として立ち上がってくるのは悲しいが皮肉としか言いようがない。
    映像は雄弁だ。
    何でもないようなことが生きる上で重要で、何でもないようなことが人を死に追い込む。
    凡庸な中にもわずかな差を持ったアーレントが救い。
    一つの民族ではなく、一人の友人を愛するアーレントが。アイヒマンを許さずとも理解するアーレントに。
    戦中も、戦後も全体主義はあるのだ。抜きがたき凡庸さゆえに。

  • これを社会問題として区切っていいかどうかはわからんというか区切ること自体がおこがましいけども。
    事前知識がちょろっとだけあったのでそれなりについていけました。
    知っててよかった。
    その時代を体験してないし、ユダヤ人が被った苦しみもわからない。
    だけど、アーレントの発言は間違ってなかったからココからだから言える。
    あの時代、同じユダヤ人としてあの発言ができるのは自分の論理に自身があるかどうかではなく、完全に大衆を信じていたからだと思う。
    同じ思考をしてくれれば必ず同じ結論にたどり着いてくれるはずだ。
    そうでないならば理性的な(学問的に建設的な)反論をしてくれるはずだ。
    という。そういう信頼。
    ほんと凄い。自分には絶対できない。
    尊敬の念を禁じ得ない。

  • ☆☆☆講義が感動的☆☆☆以下は抜粋

    ソクラテスやプラトン以来私たちは思考とは
    自分自身との静かな対話と考えます
    人間であることを拒否したアイヒマンは、
    人間の大切な質を放棄しました
    それは思考する能力です
    その結果モラルまで判断不能となりました
    思考ができなくなると
    平凡な人間が残虐な行為に走るのです
    過去に例がないほど大規模な悪事を
    私は実際—
    この問題を哲学的に考えました
    “思考の風”がもたらすものは知識ではない
    善悪を区別する能力であり
    美醜を見分ける力です
    私が望むのは考えることで人間が強くなることです
    危機的状況にあっても考え抜くことでー破滅に至らぬよう

  • 世界最大の悪はごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。

  • 淡々とした映画
    徹底的に考え抜くことをいまに伝えている

  • 系推薦図書 総合教育院
    【OPACへのリンク】
     https://opac.lib.tut.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=172322
    【推薦理由】
    哲学、ドイツ語の授業で使用。

  • 戦後70年に生きる日本人としては、アイヒマンを「凡庸な悪」と評すること、また、ユダヤ人指導者の中にナチに加担した(せざるを得なかった)人達がいたとの指摘に対し、凄まじい批判の嵐が巻き起こったという事実に疑問なり、違和感を覚える。しかし、私自身、何時いかようにもハンナを糾弾する立場にもなり得るし、あまつさえアイヒマンやユダヤ人指導者の立場にもなり得ることは想像に難くない。そう考えると非常に恐ろしい。やはりハンナが全身全霊で訴えかけたように、「思考すること」がとにかく大事なのだ。ああ、平時と思えるまさに今こそ。その渦中にいるよりは、多少なりとも客観的に考えられるだろうから。

  • 「イスラエルのアイヒマン」をニューヨーカー誌に発表し論争を巻き起こした、ドイツ系ユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントの話。ユダヤ人の強制収容所への輸送を担当したSS将校、アイヒマンの裁判を傍聴したアーレントは、アイヒマンはユダヤ人に敵意があったわけではなく、「命令に従っただけ」の平凡な役人だったとの結論に至る。一方で、むしろユダヤ人指導者の中にはナチに手を貸す者もいたとするアーレントの議論は、友人も含めユダヤ人及び反ナチの人々から痛烈な批判を浴びる。アーレントの視点からその苦悩を描いた作品。例え一人ひとりのSS将校には敵意がなかったとしても、ナチスの組織の中でユダヤ人迫害に関する仕事が分担され、それぞれの役人が歯車として考えることも良心の痛みもなくホロコーストに加担していたとしたら恐ろしい。組織の中に、何らかのストップ機能を設けられなかったのだろうか。いま誰もがホロコーストの残酷さを理解していて一人ひとりが善人だったとしても、組織の問題だったのであれば、そこを改善しないと今後も類似のことが起きてしまう危険性がある。

  • 高知県立美術館で観た。講義で感想文を書くことになり、以下はその一部の引用になる。
    ─────────────
    この映画は、ハンナ・アーレント単体のドキュメンタリーではなく、アーレントの自我を尊重した生き方とアーレントが観察したアイヒマンの人間性を失った生き方の対比という形で描かれているように感じた。そういう点で見ればところどころに挟まれる恩師ハイデッガーや友人ハンスとの大学生活の回想のタイミングにも納得がいく。アイヒマンのように、全体主義の流れによって人間の尊厳は簡単に損なわれたが、損なわれたということが逆説的に人間性の存在証明となっている。実際、主人公であるアーレントは世間に流されることなく、自身で正しいと考えたこと、感じたことに忠実に行動していく。逆境に立たされた彼女を支える夫や友人も、時には彼女の行動に苦言を呈することもあるが、アーレントは自分の自我と彼らの自我を尊重しているように描かれている。映画というメディア創作物になった時点である種の脚色にさらされているだろうが、細部に本質が隠れているが本質は細部にはないのである。この映画で重要なことはただひとつ、映画の中でアーレントがナチ時代の体験を語る中で告白しているように、自身がどのように自我と自尊心を保ちながら生きていくことがいかに難しいことであるということと、映画終盤の講義シーンで語ったように人間の尊厳は全体主義という名の人間の手で簡単に壊れていってしまうということなのである。講義を終えた後に彼女の主張に反論していた大学時代からの友人のハンスが、彼女から離れていくシーンがあるが、映画作品として観れば、ここで彼女が彼を追いかけるか、何か言葉を掛けるのが映画的には「ただしい」のだろうと思う。しかし、繰り返すようにこの映画のメインコンテンツは人間の自我と自尊と、それらを保とうとする彼女の生き方なのである。人間の人間らしさ、そしてその危うさを見事に描いた作品であると思う。
    ─────────────
    引用終わり。

  • ナチス親衛隊アイヒマン(ホロコーストに関与)が戦後イスラエルの諜報部隊モサドに捕まり、その裁判を通して、アイヒマンがやったことは誰でもそのポジションにいれば引き起こしてしまったであろうという、思考停止が故に起こる「悪の凡庸さ」訴える。(彼女の著書『全体主義の起源」の直後ぐらいから物語はスタート。) 

    根源的な悪ではなく、「ただ命令されたから遂行したまで」「至って、平凡すぎるほどに普通の」人間がいかにして、人の道に反することであったとしても平気で実行してしまうのか。

    哲学者ハイデガーの愛弟子、ハンナ・アーレントが真理を紐解こうとする。

    当時はこの考え方が、「ユダヤ人がナチスの味方をするのか!」と今で言う炎上を引き起こした。
    その人たちの言い分が、決まってどれも感情論というところも見所かも。

    しかし、現代、それもこの日本においては、このアイヒマンを通して語られる「悪の凡庸さ」こそが重要な問題となっている。
    総理大臣が!官僚が!と憤り、「そいつこそが悪そのものだ!」「悪いのはそいつだ!」といって排除したところで悪は無くならない。

    つまり、全体主義の圧力の中で「思考停止」に陥り、唯々諸々と、また効率的に命令を処理する。

    全体主義(「個人の全ては全体に従属すべきとする思想や運動、体制」)の風潮が強まり、思考停止も色濃く出てくるこの国で、この映画を観る価値は非常にあると思う。


    他にも、英語しかわからないアメリカ人がいる中でのドイツ語での会話(英語は聞き取れそう、ドイツ語意味不明。笑)や、ユダヤ人だがやはりドイツ語を使うことにこだわっているところや、人々(大人と学生など)の反応の違いも楽しく見れた。
    にしても、ワイン飲みすぎ、タバコ吸いすぎ。
    そら身体悪なるわなぁとおも思わされた。笑

    半世紀経って時代は変わったが、2010年代の現在、人間の本性は変わったと言えるだろうか。
    改めて考えてみる必要がある。

    いい映画やった。

    最後の哲学講義は見もの。

    以下、メモ。

    「アイヒマンの擁護などしてません。
    私は彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが
    《理解を試みるのと、許しは別》です。
    この裁判について書く者には、理解する責任があるのです」

    「彼は検察に反論しました。何度も繰り返しね。
    ”自発的に行ったことは何もない。
    善悪を問わず、自分の意思は介在しない
    命令に従っただけなのだ" と」

    「思考の風がもたらすのは、知識ではありません。
    善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。
    私が望むのは、考える事で人間が強くなることです。
    危機的状況にあっても考え抜くことで、破滅に至らぬよう…」
    「=思考=をこう考えます。自分自身との静かな対話だと」

  • ハンナアーレントについて、というよりは彼女の書いた「イェルサレムのアイヒマン」の表層について
    アイヒマンが平凡な役人に過ぎないというのは、今では有名な話だけど、このことを理解し、口に出せないほど、理性を失っていた時代だったということだろう。ただのシステムをそれと理解できないのは人間的と言えば聞こえは良いが、野蛮なだけである。

  • 主催者側も予想しなかった盛況ぶりだったとのこと。
    時代が閉塞感に向かう中で、無意識に女氏のような発想が観直されているのではないだろうか。
    そしてもしそうであれば日本人もそう捨てたものではない。

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