ハンナ・アーレント [DVD]

  • 322人登録
  • 3.83評価
    • (33)
    • (64)
    • (36)
    • (8)
    • (2)
  • 56レビュー
監督 : マルガレーテ・フォン・トロッタ 
出演 : バルバラ・スコヴァ  アクセル・ミルベルク  ジャネット・マクティア  ユリア・イェンチ  ウルリッヒ・ノエテン 
  • ポニーキャニオン (2014年8月5日発売)
  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988013710467

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
有効な右矢印 無効な右矢印

ハンナ・アーレント [DVD]の感想・レビュー・書評

並び替え:

表示形式:

表示件数:

  • \*\ 思考の風よ、吹け! /*/






     すり鉢状の教室で学生達を前に講義を行なうラスト間近のシーンに、ハンナが己の一生に費やした事の総てが集約されており、当然だがハンナ・アーレントに扮した女優:バルバラ・スコヴァの力演は見事!  


     この講義のシーンが私には、「セント・オブ・ウーマン~夢の香り~」で、クリス・オドネルの思考・スタンスを正当なものだとし擁護。持論を展開し学校の方針の根底にある腐敗した部分を言及、明言したアル・パチーノの、あの毅然とした素晴らしい公述(スピーチ)と重なってくるものを感じた。 


     ヘビースモーカーのハンナが燻らす喫煙の所作も、なかなかのもの。 グレー味がかった薄紫の副流煙の中に彼女が自問自答、言及し続けている「悪」の所在が見え隠れするようなタッチは絶妙である。

     ある時にはそんな彼女の所作(喫煙という行為)が、あたかも猫科の動物に於ける毛繕いの真意にも思えてしまい… 


    ☆.:*・’・*:.。☆。.:*・’・*:.。☆。.:*・’・*:.。☆。.:*・’・*☆


     以下、講義中で語られたアーレントの言葉で胸に響いたものを上げさせていただく。 



     (1)「(アイヒマンを指し)彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが、理解を試みるのと許しは別です。この裁判について文章を書く者には理解する責任があるのです!」 


     (2)「思考の風がもたらすのは知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。」  

     (3)「ソクラテスやプラトン以来、私たちは思考をこう考えます。自分自身との静かな対話だと… 人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐な行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。」     


    ★そして 彼女は結論へと導く・・・



    『私が望むのは考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことでーー破滅に至らぬよう…』    



     //今、ISISが起こしている問題が緊迫した展開を見せている中、本作を真夜中にオンデマンド観賞いたしました。胸が苦しく締めつけられています。

    *人の「命」は地球よりも重いのではないのか。 
    *武力(暴力)で圧することの意義はどこにあるのだろう。 
    *人間を「カード」と呼称しての取引き。 


     戦争を経てきている我が国に生まれ、その悲惨さをシリアスに体験談として語り継げる者が居なくなろうとも、断じて過ちが繰り返されることがないよう… 


    「思考の風よ、吹け!」私はそう強く願い、彼女のこの言葉を今一度 熱く心に焼印しながらこの寄稿を閉じさせていただきます。  


    『危機的状態にあっても、考え抜くことでーー破滅に至らぬよう』 //



    2015-1-29(Thu) * 小枝  記 * 

  • ユダヤ人移民の哲学者ハンナアーレントが、ナチ上層部アドルフ・アイヒマンの裁判に立ち会って…。

    結局、上の命令にしたがったまでだ、と、アイヒマンは主張した。そこに信条や、いわゆる悪魔的なものはなかった。ただ、アイヒマンはナチという法律に従った「役人」だった。

    そんな、「悪の凡庸さ」について語るハンナ。
    "思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為走る。"
    "考えることで人間が強くなることを私は望む。"

    最後の学生たちへの演説は、何度でも聴く価値があると思います。

    何にでも素直に従うことが美しいのではない。
    「何に」従うのかは、私たち自身がしっかり考えなければならない。
    ハンナの主張は今の私たちも、というか、今の私たちこそ、耳を傾けなければならないと思います。

    これはぜひ若いうちに観てほしいなぁ。

  • 1960年、ナチスドイツの軍人で、ホロコーストの責任者の一人であるアドルフ・アイヒマンが、逃亡先のアルゼンチンでモサド(イスラエルの諜報機関)に見つかりイスラエルへ連行された。彼は翌61年に「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する罪」などの罪状で起訴され、裁判を受けて有罪となり、62年に処刑された。

    この裁判を傍聴し、『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さ(banality)についての報告』をザ・ニューヨーカー誌に連載したのがこの映画の主人公:ハンナ・アーレントだった。そのレポートの特徴は、アイヒマンが「上からの指示に従っただけ」と言い訳を繰り返すことに注目し、彼が極悪非道で暴力志向の強い人間などではなく、むしろ命令に忠実に従うだけの小心者の一官吏にすぎなかったということを明らかにした点にある。それはとりもなおさず、官僚機構のような徹底した分業化により巧妙に暴力性を隠ぺいすると同時に、当事者の責任意識を希薄化することによって集団構成員の想像力が失われ、平凡な人間が巨悪をなすに至った、というホロコーストの本質を見事に剔抉している。人類史上最悪の虐殺事件は、決して嗜虐志向の強い少数の異常者のみが引き起こしたのではない。むしろどこにでもいる「一般の人たち」が、特定の状況に陥ると暴力装置に変わってしまうというという点が最も恐ろしいのである。ホロコーストも文化大革命もポル・ポトの蛮行も決して他人事ではない。社会状況が変われば、我々も同じ行動を起こさないという保証はないのだ。

    しかし彼女の慧眼は、「誰か悪いやつがいてすべてそいつのせいだ」という結論を期待し、アイヒマンが一般人とは全く違う論理で動く「悪の権化」であることを確認して安心を得たかった当時の市民には受け入れがたいものであった。特にレポートの中に、ユダヤ人自治組織(ユダヤ人評議会、ユーデンラート)の指導者が強制収容所移送に手を貸したとする記述があったため、内外のユダヤ人社会からの激しい反発を招いた。自らもドイツ系ユダヤ人であり、抑留された経験も持つアーレントからすれば、筆舌に尽くし難い苦難だったに違いない。

    しかし彼女は、壮絶なバッシングのなかでも自分の主張を翻すことなく、想像力の欠如が招いた惨劇を再び現出させまいとして「考えることが人を強くするのだ」と辛抱強く説き続けた。映画はセンセーションの顛末やその後の彼女の人生については一切触れずに終わっているが、それは観客に「環境によって人は誰でも悪に手を染める可能性がある」ということを、自分の身に引きつけて考えてもらいたかったからだと思う。悪を自分には関係ないものだと考えてニュースや雑誌で娯楽的に消費する、あるいは思考停止状態で無批判に命令を実行することが一番危険だ、ということを。

    何か問題が起こった時、それを個人の責任に帰するのはたやすい。しかし安易な因果論や自由論から一線を画し、その行為を生み出すに至った集団の力学へ目を配ると同時に、そもそも責任が発生する根拠は何か(個人の行動に選択の余地、自由があるからか。しかし本当に「選択の自由」などがありうるのか)を真剣に問い直す姿勢が大事だと感じた。興味を持った人は小坂井敏晶のいくつかの本、例えば『社会心理学講義』や『責任という虚構』を手にとってみることを薦める。

  •  1960年、数百万人もの人々を強制収容所に送る指揮を執ったアドルフ・アイヒマンが拘束され、裁判にかけられることとなった。ユダヤ系の哲学者ハンナ・アーレントはその裁判を傍聴し記事を発表するが、その記事は大きな波紋を呼ぶ。

     ”悪の凡庸さ”
     テレビ番組でスタンフォード監獄実験のことを知った時の衝撃はいまだに忘れられません。普通の人が権力を得、目の前に見下げるべき弱者がいるといくらでも変わりうる、そしてそれは他人事ではない、という事実が何よりも怖かったのだと思います。

     アイヒマン実験というものもあります。これも権力の後ろ盾があるとき人はどう変わるか、という心理学の実験です。そしてもちろんこの名前の由来は、アドルフ・アイヒマンの存在です。

     裁判でアイヒマンは多くのユダヤ人を強制収容所に送ったことについて「ただ上からの命令に従っただけ」と答えます。こうした発言やアイヒマンの態度から、ハンナ・アーレントはアイヒマンを”悪”ととらえず”役人”と捉えるようになります。

     そしてアーレントは大衆が望む、アイヒマン絶対悪の記事とは少し違う論調の記事を書きます。そしてもう一つ触れたことはユダヤ人組織が強制収容所の移送に関わっていたことでした。この二点で彼女は世間や自身が勤める大学関係者、同朋のユダヤ人や夫からも非難を受けます。

     そんな中での彼女の大教室での講義シーンは非常に見ごたえがありました。語りの演技の素晴らしさや、大事なところではたばこを吸いながらの熱弁がかっこよく、そして内容も非常に深いです。

     ユダヤ人虐殺を単に絶対悪の問題で考えず、思考を放棄した”普通”の一人の人間がたどり着いた結末として考えること、
    悪を単に断罪するのではなく、その悪の本質を理解すること、
    そしてそうした悪に飲まれないように自分たちはどうあるべきなのか、

     そして、そうしたメッセージが必ずしも正確に伝わるわけではない、という皮肉さや寂しさ、
    表層的な面に囚われ思考を停止する人々の存在も描いた、派手さはなくてもとても濃密なラストだったと思います。

     こうした悪に対抗できるのは単純な道徳論なんかではなく”思考”なのだろうな、と彼女の話を聞いていて思いました。哲学については考え始めたらきりがない、と思って敬遠していましたがハンナ・アーレントの著作はちょっと調味が出てきました。

  • アーレントは、自ら抑留体験をもつユダヤ人でありながら、シオニズムに与せず、イスラエルからもドイツからも離れたコスモポリタン性に希望を見出だそうとし続けたひとである。ほんとうの「公共」とは、民族や国家ではないはずだ。
    人間の本源的活動を、労働や仕事と峻別し、常に思考し、企て、始動することによってのみ、人間は関係付けられ、世界は形成される。
    しかし、このような思想が、既存勢力(固定観念と言ってもいい)に対していかに受け入れられにくいものであるかということもこの映画は教えてくれる。
    凡庸な悪、思考停止は、ますます世界を覆っている。
    21世紀にこの映画が訴える意味をよくよく考えて見なければならない。

  • 人は感情に翻弄されやすい生き物であって、感情というノイズを切り離して純粋な思考・認識力を働かせられるハンナ・アーレントのような人は、ほんの一握りしかいないのではないか…と観ながらどうしても絶望的になってしまう自分がいました。

    ハンナ・アーレントの意見に深く共感すると同時に、人間の弱さと愚鈍さを改めてまざまざと思い知った気分です。この弱さと愚鈍さという感情による不完全性こそが、人間という存在の大きな魅力でもあるのでしょうが…

    実際ハンナ・アーレントと彼女を批判する人々との差を考えると、それは自らの傷と向き合う勇気や、感情と思考を分離させ、客観的な視点で物事を分析するための集中力と意志力の有無だったのではないかという気がしてきます。

    客観的な視点から自らの傷を俯瞰して分析し、深い洞察と共に乗り越えるのか、それとも、主観性に囚われて感情に翻弄され、傷の痛みに耐え切れずに責任転嫁することで逃げ出すのか?

    心の傷によって引き起こされた感情の嵐は、人々から思考力を奪い、それこそアイヒマンのような『平凡な悪』以上の、自発的で攻撃的な『根源的な悪』へと向かう可能性を秘めているのではないでしょうか?

    つまり、悪の根源というのは人の心にある深い傷から生み出されるものなのではないか?ということです。そして、主観的に自らの傷の痛みに向き合うことが出来なければ、客観的に思考を働かせることはできないので、まずは思考以前に、感情の問題に取り組むべきなのではないか?

    やはりハンナ・アーレントがあの文章を世の中に出すには人々の傷は深すぎて、時期が早すぎたのでしょう。彼女は人間の心理については苦手分野だったのでしょうか?何よりも、映画の中での彼女は人を信じる純粋な気持ちが初々しく、私には羨ましくさえ思えました。

  • こんな凛とした女性がいるんだなぁ…。
    その強さはまさに、偽善や権力に飲み込まれない根源的な思考の力を持つ彼女だったからこそ、できたことなのかもしれない。

    ユダヤ人として自身が亡命した経験を持つハンナは、
    その後アメリカで哲学の教授となるも

    ユダヤ人大虐殺ホロコーストの指揮をとったアドルフ・アイヒマンが極秘逮捕された知らせを受け、

    裁判が行われたイェルサレムへ裁判を傍聴しに向かう。

    アイヒマンを”悪の権化”として見つめる裁判官や傍聴者の目線の中で、たったひとりハンナだけは、どうも”悪の権化”としてはアイヒマンがあまりに 凡庸すぎる という違和感を持った。


    これが全てのはじまり。

    アイヒマン自身はユダヤ人に対する憎悪も個人的な恨みも何もなく、「ただ命令に従っただけ」と繰り返す。

    「義務と良心の間を行ったり来たりしたが、上からの命令=法律のため、ただただ法律を遵守したに過ぎなかった。当時のSS組織のヒエラルキーの中で、良心を訴えることで何かが変わる要素があったかと言えば、そうでなかった。つまり、意識的に義務と良心を完全に分断していた。そうせざるを得なかった。」

    こう述べる裁判でのアイヒマンはとても冷静で、いわゆるエリートサラリーマンのような物言いで淡々と話す。
    そして、被害者達の訴えがまるで見当違いかのように怒りをこめて。

    確かに、原告たちは迫害された憎しみをアイヒマンに対して感情的に訴えるけど、それはアイヒマンの”管轄外”の話ばかりであり、その場全体の違和感をぬぐい去るような帰結は最後まで見当たらなかった。

    ハンナの目には、アイヒマンは極めて 凡庸 であり、
    だからこそ、 思考停止 状態となってあれほどまでの残虐行為ができたのではないかとの仮説を持った。

    それが、生涯彼女が主張し、持ち続けた命題となる【悪の凡庸さ】につながる。



    ナチである彼を最強の極悪人として仕立て上げることを望む社会的な空気は、彼女に対して強い敵意をむき出しにする。

    しかしその悪の凡庸さの本当の恐ろしさー誰もが持つ可能性のある凶悪性ーの恐怖を底から感じた彼女は、勇気を持ってそれを世間に出版した。


    ハンナは生涯の終わりまで、その批判の目にさらされることとなるが、それでも出版したことを後悔しない彼女の姿は、、、、、、

    本当に美しいと思った。
    ああ知性ってこういうことなのかなって。


    偽善で真実を多い隠すのは非常に容易いし、ましてや自分が見るも明確な被害者であれば、自分の意見の正当性は認められやすい。

    そんな中でも、感情や空気を切り離して真実を冷静に見つめた彼女は、理解し、伝えるという本当の意味での義務を果たしたうちの一人だと思う。
    アイヒマンを決して許しはしないが、理解しようとした人。

    見たものを、感情のまま、世間の期待するままに答える人間は必要ない。エンターテイメントの世界ならまだしも、これは世界規模の倫理、モラル、人間性についての大きな課題が議論される場。


    思考する人間だからこそ、果たすべき役割があるのだなと痛感した作品。


    ショボい例だけど、ブラック企業の洗脳とか、思考停止の社畜とか、芸能人バッシングしている人とかってのは…
    こういった場面においてとても浅はかな人間性を暴露していることと同じなのだと思う。
    いわゆる、知性を持たない”凡庸な大衆”。

    自分の思想や感情、行為を冷静に見つめ直す意識をくれる作品でした。
    ああ、やっぱドイツって哲学の国なんですね。


    以下引用

    ・ソクラテスやプラトン以来わたしたちは”思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。
    人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは、思考する能力です。

    ・思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。

    ・”思考の風”がもたらすのは知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。
    私が臨むのは、考えることで人間が強くなることです。
    危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。

  • 世界がわかりすぎてしまうのも
    すごく大変なんだろう

    根源的な悪と凡庸な悪は違う

    平時なら納得できたかもしれない理論でも
    たとえヒステリック気味だとしても
    否定しないではいられない
    それほどのことだった、ということでもあるのかも

    ハンナの最後の講義の演説は
    知っておくべき、聞いておくべきものだと思う
    特に、いまの日本において。

    特別な悪、理解できないような悪魔によって
    引き起こされたんだ、と皆が考えるなら
    同じことが再び起こりうると思う

    平凡な人間がゆえの凡庸な悪による悲劇
    だと皆が直視すること、そのとてつもない必要性

  • 2013年公開
    監督 : マルガレーテ・フォン・トロッタ
    ==
    大戦後のエルサレムで裁かれたある「戦犯裁判」を巡って巻き起こった”悪”と”人間”についてのお話し。

    重々しかったですね。
    ドイツ、って感じ笑

    テーマが何しろ深淵かつ陰惨なのと、難しいというのと、映画として2時間で切り出す難しさみたいなものが大きかったなあという読後感。終わり方も、「終わらないテーゼが提示されたのであった」っていう終わり方なので、物語としては全然終わってない、終わり方でした。

    揺さぶられたい人向けの作品。答えは提示されないのでそこはそのつもりで。

  • 「ハンナ・アーレント」と題された映画でありながら、ハンナ・アーレントを扱うことが主眼にないのが、この映画の最も面白いところだろう。

    考察すべきは、第一にアーレントの提唱した「悪の凡庸さ」であり、第二にハンナが精神を削って書いた記事に対する、周りのあまりの無理解と、不寛容さである。

    彼らはハンナがユダヤ人に寄り添っていないと盛んに非難したが、物事を表層的にのみ捉え、ハンナの記事を理解しようともしなかったのは他でもない批判者たち自身なのだ。

    これこそがハンナが鋭く批判した全体主義のもたらす思考停止であり、凡庸な人を悪にしてしまう現象ではなかろうか。
    だからこそ、我々は考え続けなければ(denken)ならない。(映画でハイデッガーが自分で認めている通り、彼は考え続けることに失敗してしまったようだ。しかし、「またいつでも始められる」という趣旨の発言をしていることが、ハイデッガーのみならずハンナの批判者たちの将来を考える上で希望を抱かせる)

    ハンナが「私が愛するのは一つの民族じゃない、友人なのよ」というシーンがあるが、これは民族を「国」や「宗教」に置き換えることで、現在にも十分意味を持つセリフだろう。

    ハンナの思考・精神の強さにはただただ驚くばかりである。

    -------------------
    途中でハンナがイスラエルの出版停止要請という名の脅迫に断固として反抗する場面があるけれども、これはハンナが実際に現場に行き、事実に基づいて記事を書いているから許されるわけであって、昨今の左右様々な記事をみているとハァ...って感じではある。

全56件中 1 - 10件を表示

外部サイトの商品情報・レビュー

ハンナ・アーレント [DVD]を本棚に「観終わった」で登録しているひと

ハンナ・アーレント [DVD]を本棚に「いつか観る」で登録しているひと

ツイートする