ハンナ・アーレント [DVD]

監督 : マルガレーテ・フォン・トロッタ 
出演 : バルバラ・スコヴァ  アクセル・ミルベルク  ジャネット・マクティア  ユリア・イェンチ  ウルリッヒ・ノエテン  ミヒャエル・デーゲン 
  • ポニーキャニオン
3.81
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感想 : 72
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  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988013710467

感想・レビュー・書評

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  • \*\ 思考の風よ、吹け! /*/






     すり鉢状の教室で学生達を前に講義を行なうラスト間近のシーンに、ハンナが己の一生に費やした事の総てが集約されており、当然だがハンナ・アーレントに扮した女優:バルバラ・スコヴァの力演は見事!  


     この講義のシーンが私には、「セント・オブ・ウーマン~夢の香り~」で、クリス・オドネルの思考・スタンスを正当なものだとし擁護。持論を展開し学校の方針の根底にある腐敗した部分を言及、明言したアル・パチーノの、あの毅然とした素晴らしい公述(スピーチ)と重なってくるものを感じた。 


     ヘビースモーカーのハンナが燻らす喫煙の所作も、なかなかのもの。 グレー味がかった薄紫の副流煙の中に彼女が自問自答、言及し続けている「悪」の所在が見え隠れするようなタッチは絶妙である。

     ある時にはそんな彼女の所作(喫煙という行為)が、あたかも猫科の動物に於ける毛繕いの真意にも思えてしまい… 


    ☆.:*・’・*:.。☆。.:*・’・*:.。☆。.:*・’・*:.。☆。.:*・’・*☆


     以下、講義中で語られたアーレントの言葉で胸に響いたものを上げさせていただく。 



     (1)「(アイヒマンを指し)彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが、理解を試みるのと許しは別です。この裁判について文章を書く者には理解する責任があるのです!」 


     (2)「思考の風がもたらすのは知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。」  

     (3)「ソクラテスやプラトン以来、私たちは思考をこう考えます。自分自身との静かな対話だと… 人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐な行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。」     


    ★そして 彼女は結論へと導く・・・



    『私が望むのは考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことでーー破滅に至らぬよう…』    



     //今、ISISが起こしている問題が緊迫した展開を見せている中、本作を真夜中にオンデマンド観賞いたしました。胸が苦しく締めつけられています。

    *人の「命」は地球よりも重いのではないのか。 
    *武力(暴力)で圧することの意義はどこにあるのだろう。 
    *人間を「カード」と呼称しての取引き。 


     戦争を経てきている我が国に生まれ、その悲惨さをシリアスに体験談として語り継げる者が居なくなろうとも、断じて過ちが繰り返されることがないよう… 


    「思考の風よ、吹け!」私はそう強く願い、彼女のこの言葉を今一度 熱く心に焼印しながらこの寄稿を閉じさせていただきます。  


    『危機的状態にあっても、考え抜くことでーー破滅に至らぬよう』 //



    2015-1-29(Thu) * 小枝  記 * 

  • ユダヤ人移民の哲学者ハンナアーレントが、ナチ上層部アドルフ・アイヒマンの裁判に立ち会って…。

    結局、上の命令にしたがったまでだ、と、アイヒマンは主張した。そこに信条や、いわゆる悪魔的なものはなかった。ただ、アイヒマンはナチという法律に従った「役人」だった。

    そんな、「悪の凡庸さ」について語るハンナ。
    "思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為走る。"
    "考えることで人間が強くなることを私は望む。"

    最後の学生たちへの演説は、何度でも聴く価値があると思います。

    何にでも素直に従うことが美しいのではない。
    「何に」従うのかは、私たち自身がしっかり考えなければならない。
    ハンナの主張は今の私たちも、というか、今の私たちこそ、耳を傾けなければならないと思います。

    これはぜひ若いうちに観てほしいなぁ。

  • 前々から観なくてはと思っていたが、アマプラで無料視聴にならないことを理由に二の足踏んでいた。でも、100de名著のディレクターが、「名著の予知能力」で紹介していて、レンタル料金払って観ましたよー。
    概要は掴んでいたので、衝撃的な何かがあったわけではなかった。
    ハンナの主張するアイヒマンの「凡庸な悪」が、どうしてハンナの愛する友人ユダヤ人に伝わらないんだろうと思った。自己の経験からくる憎悪は、客観的な視野を歪ませて、ヒステリックになる。どんなに主張が違っていても、感情ではなく、理屈を通して寛容になるべきだ。誹謗中傷は方法としては最低だ。自分の意見と違うからと言って、暗殺するのと同じだ。ハンナの主張は、誰もがアイヒマンになり得ること示唆する。アイヒマンを悪の権化として裁くのは簡単だが、アイヒマンはごく普通のどごにでもいる思考停止の小役人だったのだから、

  • こんな凛とした女性がいるんだなぁ…。
    その強さはまさに、偽善や権力に飲み込まれない根源的な思考の力を持つ彼女だったからこそ、できたことなのかもしれない。

    ユダヤ人として自身が亡命した経験を持つハンナは、
    その後アメリカで哲学の教授となるも

    ユダヤ人大虐殺ホロコーストの指揮をとったアドルフ・アイヒマンが極秘逮捕された知らせを受け、

    裁判が行われたイェルサレムへ裁判を傍聴しに向かう。

    アイヒマンを”悪の権化”として見つめる裁判官や傍聴者の目線の中で、たったひとりハンナだけは、どうも”悪の権化”としてはアイヒマンがあまりに 凡庸すぎる という違和感を持った。


    これが全てのはじまり。

    アイヒマン自身はユダヤ人に対する憎悪も個人的な恨みも何もなく、「ただ命令に従っただけ」と繰り返す。

    「義務と良心の間を行ったり来たりしたが、上からの命令=法律のため、ただただ法律を遵守したに過ぎなかった。当時のSS組織のヒエラルキーの中で、良心を訴えることで何かが変わる要素があったかと言えば、そうでなかった。つまり、意識的に義務と良心を完全に分断していた。そうせざるを得なかった。」

    こう述べる裁判でのアイヒマンはとても冷静で、いわゆるエリートサラリーマンのような物言いで淡々と話す。
    そして、被害者達の訴えがまるで見当違いかのように怒りをこめて。

    確かに、原告たちは迫害された憎しみをアイヒマンに対して感情的に訴えるけど、それはアイヒマンの”管轄外”の話ばかりであり、その場全体の違和感をぬぐい去るような帰結は最後まで見当たらなかった。

    ハンナの目には、アイヒマンは極めて 凡庸 であり、
    だからこそ、 思考停止 状態となってあれほどまでの残虐行為ができたのではないかとの仮説を持った。

    それが、生涯彼女が主張し、持ち続けた命題となる【悪の凡庸さ】につながる。



    ナチである彼を最強の極悪人として仕立て上げることを望む社会的な空気は、彼女に対して強い敵意をむき出しにする。

    しかしその悪の凡庸さの本当の恐ろしさー誰もが持つ可能性のある凶悪性ーの恐怖を底から感じた彼女は、勇気を持ってそれを世間に出版した。


    ハンナは生涯の終わりまで、その批判の目にさらされることとなるが、それでも出版したことを後悔しない彼女の姿は、、、、、、

    本当に美しいと思った。
    ああ知性ってこういうことなのかなって。


    偽善で真実を多い隠すのは非常に容易いし、ましてや自分が見るも明確な被害者であれば、自分の意見の正当性は認められやすい。

    そんな中でも、感情や空気を切り離して真実を冷静に見つめた彼女は、理解し、伝えるという本当の意味での義務を果たしたうちの一人だと思う。
    アイヒマンを決して許しはしないが、理解しようとした人。

    見たものを、感情のまま、世間の期待するままに答える人間は必要ない。エンターテイメントの世界ならまだしも、これは世界規模の倫理、モラル、人間性についての大きな課題が議論される場。


    思考する人間だからこそ、果たすべき役割があるのだなと痛感した作品。


    ショボい例だけど、ブラック企業の洗脳とか、思考停止の社畜とか、芸能人バッシングしている人とかってのは…
    こういった場面においてとても浅はかな人間性を暴露していることと同じなのだと思う。
    いわゆる、知性を持たない”凡庸な大衆”。

    自分の思想や感情、行為を冷静に見つめ直す意識をくれる作品でした。
    ああ、やっぱドイツって哲学の国なんですね。


    以下引用

    ・ソクラテスやプラトン以来わたしたちは”思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。
    人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは、思考する能力です。

    ・思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。

    ・”思考の風”がもたらすのは知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。
    私が臨むのは、考えることで人間が強くなることです。
    危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。

  •  1960年、数百万人もの人々を強制収容所に送る指揮を執ったアドルフ・アイヒマンが拘束され、裁判にかけられることとなった。ユダヤ系の哲学者ハンナ・アーレントはその裁判を傍聴し記事を発表するが、その記事は大きな波紋を呼ぶ。

     ”悪の凡庸さ”
     テレビ番組でスタンフォード監獄実験のことを知った時の衝撃はいまだに忘れられません。普通の人が権力を得、目の前に見下げるべき弱者がいるといくらでも変わりうる、そしてそれは他人事ではない、という事実が何よりも怖かったのだと思います。

     アイヒマン実験というものもあります。これも権力の後ろ盾があるとき人はどう変わるか、という心理学の実験です。そしてもちろんこの名前の由来は、アドルフ・アイヒマンの存在です。

     裁判でアイヒマンは多くのユダヤ人を強制収容所に送ったことについて「ただ上からの命令に従っただけ」と答えます。こうした発言やアイヒマンの態度から、ハンナ・アーレントはアイヒマンを”悪”ととらえず”役人”と捉えるようになります。

     そしてアーレントは大衆が望む、アイヒマン絶対悪の記事とは少し違う論調の記事を書きます。そしてもう一つ触れたことはユダヤ人組織が強制収容所の移送に関わっていたことでした。この二点で彼女は世間や自身が勤める大学関係者、同朋のユダヤ人や夫からも非難を受けます。

     そんな中での彼女の大教室での講義シーンは非常に見ごたえがありました。語りの演技の素晴らしさや、大事なところではたばこを吸いながらの熱弁がかっこよく、そして内容も非常に深いです。

     ユダヤ人虐殺を単に絶対悪の問題で考えず、思考を放棄した”普通”の一人の人間がたどり着いた結末として考えること、
    悪を単に断罪するのではなく、その悪の本質を理解すること、
    そしてそうした悪に飲まれないように自分たちはどうあるべきなのか、

     そして、そうしたメッセージが必ずしも正確に伝わるわけではない、という皮肉さや寂しさ、
    表層的な面に囚われ思考を停止する人々の存在も描いた、派手さはなくてもとても濃密なラストだったと思います。

     こうした悪に対抗できるのは単純な道徳論なんかではなく”思考”なのだろうな、と彼女の話を聞いていて思いました。哲学については考え始めたらきりがない、と思って敬遠していましたがハンナ・アーレントの著作はちょっと調味が出てきました。

  • アーレントは、自ら抑留体験をもつユダヤ人でありながら、シオニズムに与せず、イスラエルからもドイツからも離れたコスモポリタン性に希望を見出だそうとし続けたひとである。ほんとうの「公共」とは、民族や国家ではないはずだ。
    人間の本源的活動を、労働や仕事と峻別し、常に思考し、企て、始動することによってのみ、人間は関係付けられ、世界は形成される。
    しかし、このような思想が、既存勢力(固定観念と言ってもいい)に対していかに受け入れられにくいものであるかということもこの映画は教えてくれる。
    凡庸な悪、思考停止は、ますます世界を覆っている。
    21世紀にこの映画が訴える意味をよくよく考えて見なければならない。

  • 全体として、オープニング・エンディングのモノローグも含めてじれったい進行が続くような印象でした。
    一つひとつの場面で描かれる討論の描写は決して上長ではないのですが、映画全体を通してみると、テンポの悪さを強く感じました。

    ただ、アイヒマン裁判の実際の映像(と思われるのですが)を使っているところや、ラストシーンのアーレントの魂のこもった講義(演説)は見る価値があると思います。
    アーレントの著作は難解で手に取りやすい本ではありませんが、思考をやめることは「人間であることを放棄すること」であり、そうして凡庸な存在となったものが人類に大きな被害を与える巨大な悪を行う、というのは、戦争が再び各所で起こっている今こそ、改めて肝に銘じる必要があると思います。

  • 人は感情に翻弄されやすい生き物であって、感情というノイズを切り離して純粋な思考・認識力を働かせられるハンナ・アーレントのような人は、ほんの一握りしかいないのではないだろうか。
    実際ハンナ・アーレントと彼女を批判する人々を比べてみれば、それは自らの傷と向き合う勇気や、感情と思考を分離させ、客観的な視点で物事を分析するための集中力と意志力の有無だったのではないか。

    客観的な視点から自らの傷を俯瞰して分析し、深い洞察と共に乗り越えるのか、それとも、主観性に囚われて感情に翻弄され、傷の痛みに耐え切れずに責任転嫁することで逃げ出すのか?
    心の傷によって引き起こされた感情の嵐は、人々から思考力を奪い、それこそアイヒマンのような『平凡な悪』以上の、自発的で攻撃的な『根源的な悪』へと向かう可能性を秘めているのではないだろうか?

    つまり、悪の根源というのは人の心にある深い傷から生み出されるものなのではないか?そして、主体的に自らの傷の痛みに向き合うことが出来なければ、そもそも客観的な思考を働かせることはできないので、まずは思考以前に、感情の問題に取り組むべきなのではないか?

    やはりハンナ・アーレントがあの文章を世の中に出すには人々の傷は深すぎて、時期が早すぎたのかもしれない。

  • 「アイヒマンの擁護などしてません。
    私は彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが
    《理解を試みるのと、許しは別》です。
    この裁判について書く者には、理解する責任があるのです」

    「彼は検察に反論しました。何度も繰り返しね。
    ”自発的に行ったことは何もない。
    善悪を問わず、自分の意思は介在しない
    命令に従っただけなのだ" と」


    「思考の風がもたらすのは、知識ではありません。
    善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。

    私が望むのは、考える事で人間が強くなることです。
    危機的状況にあっても考え抜くことで、破滅に至らぬよう…」


    「=思考=をこう考えます。自分自身との静かな対話だと」

  • 映画を観るまで彼女のことをほぼ知らなかった。

    ユダヤ人でありながら、事実ベースでホロコーストの裁判を記録した哲学者。

    フランスで抑留された過去をもち、対戦中にアメリカへ亡命。
    大学で教鞭をとりながら、エルサレムで行われたナチス戦犯の裁判傍聴へ。

    そこで、何百万人ものユダヤ人を収容所に送った戦犯の供述を聞き、「正義とは」「悪人とは」を考え続ける。


    そして「悪の凡庸さ」に気づく。

    元々の悪人が大罪に手を染めるのではなく、「思考停止」こそが罪を作るのだと。

    哲学者として、「考えること」の意義を問いた彼女。
    ユダヤ人はじめ世界中から大バッシングを受ける中でも信念は曲げない。

    彼女の意見に賛否両論はあれど、「考え続けること」「思考停止にならないこと」は現代社会への警鐘にも繋がる。情報方の社会だからこそ、自分の頭で考え、内省する時間を意識的にもたねば、と思わされた。

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