無印ニッポン 20世紀消費社会の終焉 (中公新書) [Kindle]

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  • 中央公論新社
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  • 「無印ニッポン 20世紀消費社会の終焉」堤清二、三浦展対談
    2009年に行われた堤清二と「下流社会」の三浦展との対談。
    「衰退途上国」がなぜ起こったのか?という私の問題意識から、読み進めている本である。
    「下流社会」の著者である三浦展は、かってはセゾングループで働いていた。その総帥である堤清二との対談は、おもしろかった。堤清二が、率直に話し、三浦展が率直に質問している。
    堤清二を「つねに新しい情報やものの見方を学ぼう、時代の波打ち際の空気を吸おうとする」と評価をする。三浦展の「波打ち際の空気」という表現が素晴らしい。
    さらに三浦展はいう「定義することは重要だが、定義にとらわれて行動するのは官僚的である。いや、まさに体制的である。そこでは個人の自由が損なわれる。大事なのは、定義をしながら、つねにそこからはみ出していることである」という。これも、いい表現だ。三浦展は、堤清二を敬服している。同じような思想を持つ師弟関係のような感じを受ける。
    このころの麻生首相に対して、「えらい人が、あれだけ漢字が読めないというのは驚異ですね。しかも読めないことを恥ずかしいと思っていないようなのが驚異です」と堤清二はいう。教養人である。
    ここでの対談は、大量消費社会を批判して、どんな消費社会が望ましいかを論じている。

    環境問題が叫ばれ、いい機会だから、節約生活、シンプル生活をしようとする人が増える。車離れ社会が起こり、車社会の味気なさが明らかになってきた。人々が車がなくても暮らせる社会になった。
    無印良品のコンセプトは、シンプルな暮らしであり、「これがいい」から「これでいい」「これで十分だ」に変えた。生き方の価値観の変化に対応した。
    竹中平蔵の「農産物なんて、安いところから買ったほうがいい」という考えに堤清二は反対する。ある意味では、日本に非情なシステムを作った竹中平蔵・小泉純一郎と批判する。
    堤清二は、日本の財界人が、基本的な人権のかなりの部分を占める労働権を本質的に認めていないことを批判する。スト権を労働者のわがままと言うのを批判する。
    アメリカでは、911テロ事件が起こってから、女性たちがハイヒールを履かなくなった。何かが会った時に逃げられることを考え、そしてファッションもカジュアルになったという。
    堤清二は、百貨店文化を作ったと三浦展は評価する。百貨店に美術館を作り、新しい芸術を積極的に
    紹介した。最初にやった美術展がクレー展(1961)だった。社会の平等化が進むと消費が拡大する。
    アメリカがベトナム戦争をストップできたことを堤清二は評価する。それは、アメリカというコミュニティの強さであるともいう。
    便利になり、チェーン店、ユニクロ、マクドナルド、スターバックス、ツタヤが田舎にできたことが都会になったと誤解している。地方から固有の地域が消えてきている。それは、シチズンシップ、つまり「地元への愛着や誇り、責任」が消えてしまっているという。このシチズンシップという表現もいいなぁ。
    堤清二は、コンビニなどの「24時間化」が日本人の暮らしをすごくゆとりのない貧しいものにしたという。無印良品は、「反体制商品」と訴えたが、わかってもらえなかった。あくまでも大量生産消費社会に対して、「じぶん・新発見」という品質がブランドと同じでブランドをつけない商品だった。消費過程に、個性を復活させることを目標にしたという。個人主義化より個人化を目指した。無印良品は便利になると豊かでなくなることを訴えた。アメリカ型大衆消費社会は、私有物を増やすことであるが、私有物を増やさなくてもいい社会消費生活がある。
    日本人は、空気を読むが、空気を作る人がいないのが問題という。個人の誇りとは、「人と違っても俺は大丈夫だ」とおもえることだ。
    なるほど、堤清二のセゾン文化とは、反体制だったのだ。この対談はおもしろかった。

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