華氏451度〔新訳版〕 [Kindle]

  • 早川書房
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感想・レビュー・書評

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  • レイ・ブラッドベリの焚書をテーマにしたもはや古典のディストピア小説。
    火を愛し、書物を燃やすファイアマン(昇火士)のガイ・モンタークはある少女との出会いと彼女の家が燃やされたときから
    自らの職務、書物を忌避する人々への疑問を持つ。
    そして彼は書物を守ろうとする人々に近づいていく。

    タイトルの華氏451度は紙が自然発火する温度を示す。(摂氏232.8度)
    火を消す者ではなく火をつける者がファイアマンと呼ばれる時代。
    淡々とした暗いストーリーながら、書物と好奇心を守るための葛藤や誇りが描かれており、結構ドラマティック。人類の蓄積、歴史が紡ぐ物語を燃やし尽くすのは一瞬である、そこに美を見出す人もいる。
    本を燃やすファイアマンだったモンタークが、同僚に目を付けられ、心を変えていくまでのプロットには正直粗い部分もあると思ったが、昔のSFっぽさが満載。それにしても面白かったし、ラストが非常にかっこいい。本好きの心をくすぐる一冊です。

  • ブラッドベリの本はこれが初めてだった。
    SFを読むならということで勧められたのがこれだ。
    新訳、旧訳、Kindleのサンプルを読み比べ、読みやすそうなこちらを読んだ。正直どちらも読みにくかった。多分ブラッドベリの文体がそうなんだろうと思う。

    焚書する主人公モンターグの職を実在の消防(消火)士とかけて「昇火士」と表してるのが洒落てる。英語でも消防士はファイアマンというが、このファイアマンは火を使って焼く側。
    この昇火士の言葉遊びを始めとして、本書ではかっこいい言い回しがよく表れる。

    普遍的な風刺を込めたSF小説。
    本書の中で一番気になる登場人物が主人公の上司のベイティだ。彼は本の所持が禁止された時代にありながら本に詳しく、本の内容から主人公をからかって見せる。焚書を肯定しながら、文学かぶれと主人公の浅薄さを見破るように批難する姿は、本当はベイティは本が好きなんじゃないか、もしくはかつて好きだったんじゃないかと想像してしまう。本の価値を知りながら、焚書を良しとする社会に迎合するしかない、または適応してしまった個人に見えるのだ。そんな描写は一つもないのでただの想像でしかないけど。

    物語の後半、主人公の思う「ちゃんと生きている人間に会いたかった」にはきっと沢山の人が共感するんじゃないだろうか。私達が他人と接する上で深い話ができたと思う瞬間はなんだろう?相手の出自や年齢に関係なく。
    歳や性別に限らず、頭に入れずに語り合ったという経験や、人の思慮深さに驚いた経験。私にとっての生きている人間に会うことはこれな気がする。物語を通して、生きている人間に会えたと掴めるようなことが、自分にとって何なのか思い起こさせてくれるような気がした。
    主人公は、ボウルズ夫人の言う「本が人を傷付ける(意訳)」という批難で知ることを遠ざける人間になりたくなかったんだろうと思う。そしてそれに共感して知らないままを選ぶ人間に囲まれたくなかった。
    途中で焚書の為に家を焼かれた老女が、燃える家の中にそのまま残る場面がある。本と共に死ぬ衝撃的なシーンだ。彼女にとって生きている人間を感じられるもの、つまりかつての思考する人間を感じ取られるものが本だったんだと思う。彼女が本を取り上げられ燃やされて、その目に世界がどんな姿で映っていたかという部分が、そのまま筆者の抱く危機感に繋がっている。
    私達が一時的な楽しさや気分を優先して、何かを蔑ろにした時の未来にこのディストピアが側にあるという想像を持たせてくれるのが、(ドラマチックに煽っている面はあるにせよ)この本の大きな価値だと思う。


    つくづく本は人の頭の中を整理した状態で見せてもらえる道具だと思う。
    私はこの本の登場人物が言う以下の台詞が特に好き。本への敬愛やこの本にとっての知性がどういうものなのか端的に表わしてくれている気がするから。

    ❝われわれは決して重要人物などではないということだ。知識をひけらかしてはならない。他人よりすぐれているなどと思ってはならない。われわれは本のほこりよけのカバーにすぎない。❞
    ❝わたしの頭蓋骨をはずすと、脳味噌のしわの上に祖父の親指の指紋がくっきりとついているのが見える。祖父がわたしに触れた証拠だ。❞

  • 本を持つことが禁止されている世界で、違法に本を持っている人の住居諸共、本を燃やす仕事をしている昇火士(ファイアマン)の、ガイ、モンターグ。モンターグは、散歩好きの少女や本を守るために死んだ老女らと出会って、考え悩み、結局は、体制に反旗を翻す。

    モンターグの奥さんのミルドレッドは、寝る時もパンを焼く時も超小型ラジオの《巻貝》を両耳に入れている。ミルドレッドは三方の壁のモニターに映し出される人たちと、与えられた会話をすることを楽しみにしている。
    ゆっくり考えたり、ゆっくり観察したりしない世界。考えない事イコール幸せになってしまった社会。

    帯には、「反知性主義を風刺した予言的傑作」とある。今の日本も同じ様なところを感じる。電車の中でもホームでも、みんなイヤホンをしてスマホを見つめている。周りを見やしない。おすすめコンテンツが出てくるので、選ぶのさえ人任せ。スピードや簡潔さが尊ばれる。
    政府は、直ぐ役立つ研究にばかり助成して、基礎研究にはお金を出さない。2015年には、文科省が人文学にはは廃止や改革を迫った事が議論になった。菅首相が日本学術会議の会員候補6名を拒否したことも思い出される。空恐ろしい。

    皆んなに読んでもらいたい。勤務していた中学校の男子文芸部員は好きだっただろうな。彼等が私にdystopiaの言葉を教えてくれた。

    翻訳者のあとがきも、面白かった。

  • 入り込むのに苦労する文体(おそらくブラッドベリものか)だが、それもまた狙いのよう。時間をかけ、手を止めて考えながら、読むことを求められる。

    女ともだち三人の、全然中身のない会話にブチ切れるモンターグ、おもしろい。本の名前を冠する老人たち、かっこよくて好きだー。

  • Chat GPTが流行りだして、人が考えなくなる未来について気になっていたので読んだ。翻訳がイメージしにくい箇所がある。SFよりサスペンスに近い?

  • 焚書(ふんしょ)(言論統制・思想弾圧のために書物を焼却する行為)に従事する主人公が人間本来の在り方に気付いてしまった話。
     私を含めて多くの人がGAFAに思考を奪われている現在、同じような世界が1953年発表の本作で描かれており、その先見性に驚愕しました。
     メディア(テレビや動画など)から提供される情報は即時性があり拡がりもあります。更に個人の端末からはこうした方がいい、ああした方がいいと次々にレコメンド。どれも正しい気がしますし正しいのでしょう。結論も早いので反論する暇もありません。一方で読書の主体は我々にあり。思考したければ本を閉じて考える。人は本に対して優先権を持てますが、メディアは向こうの思う通りのかたちで我々に干渉してきます。
    全体主義に陥らないためにも、思考し抵抗するという哲学的態度の重要性を改めて実感しました。

  • 本が焚書され、エモーショナルが優先され、それに水を差すインテリジェンスが忌避されるディストピアを描いた名作。

    ブラッドベリは赤狩りによる弾圧への怒りでこの作品を書いたらしいが、今は積極的な表現への弾圧をおこなうのが左派側になってしまっているのが世の奇妙さだな。

  • 昇火士の服務規程書。
    「創立1790年。植民地各地において英国の影響下に著された書籍の償却を目的とす。昇火士の嚆矢ベンジャミン・フランクリン。

    規定1 通報を受けたるときは速やかに行動せよ。
      2 昇火は迅速なるを要す。
      3 一点も残さず償却せよ。
      4 終了後はただちに帰還することを要す。
      5 つぎの通報にそなえて待機せよ。」

    ---------------------------

    オーディブルは今朝からレイ・ブラッドベリ『華氏451度』を聴き始める。タイトルは、本の材料である紙が引火し、燃え始める温度。「ファイアマン」が火を消す「消火(消防)士」ではなく、書物に火を点ける「昇火士」を意味する世界線。ベイティー隊長が語る昇火士の歴史。

    「この状況はいつから始まったんだろう? 当然そういう疑問はわくな。どうしてこんなことになったのか、どこで、いつ? まあ、おれの見るところ、そもそもの始まりは南北戦争とかいうものがあったころだ。もっとも服務規程書によれば、基盤ができたのはもっと早いというがね。実際のところ、われわれの暮らしにまとまりができはじめたのは、写真術が確立されてからなんだ。つぎにはーー活動写真、20世紀初頭のころだな。ラジオ、テレビジョン。いろんな媒体が大衆の心をつかんだ」
    「そして大衆の心をつかめばつかむほど、中身は単純化された」「むかし本を気に入った人びとは、数は少ないながら、ここ、そこ、どこにでもいた。みんなが違っていてもよかった。世の中は広々としていた。ところが、やがて世の中は、詮索する目、ぶつかりあう肘、ののしりあう口で込み合ってきた。人口は2倍、3倍、4倍に増えた。映画や、ラジオ、雑誌、本は、練り粉で作ったプディングみたいに大味なレベルにまで落ちた。わかるか?」
    「19世紀の人間を考えてみろ。馬や犬や荷車、みんなスローモーションだ。20世紀にはいると、フィルムの速度が速くなる。本は短くなる。圧縮される。ダイジェスト、タブロイド。いっさいがっさいがギャグやあっというオチに縮められてしまう」
    「古典は15分のラジオプロに縮められ、つぎにはカットされて2分間の紹介コラムにおさまり、最後は10行かそこらの梗概となって辞書にのる。もちろん、これは誇張だよ。辞書は参考に使うものだ。ところが『ハムレット』について世間で知られていることといえば(お前は題名ぐらい知っているな、モンターグ。あんたには多分どこかで聞いたことのある名前だな、といった程度でしょう、ミセス・モンターグ)、つまり、いまもいったように『ハムレット』について世間で知られていることといえば、《古典を完全読破して時代に追いつこう》と謳った本にある1ページのダイジェストがせいぜいだ。わかるか? 保育園から大学へ、そしてまた保育園へ逆もどり。これが過去5世紀かそれ以上もつづいてる知性のパターンなんだ」

    時間こそ最大の希少資源とばかりに、長い本や映画は忌避され、お手軽なダイジェスト版、まとめ動画で読んだ気、見た気になり、長いスレは今北産業で「3行でまとめろ」といい、できた動画も倍速で視聴して、とにかく効率重視、コスパ重視でうわっつらの知識だけを吸収して「学んだ気」になる人が多すぎる。調べればすぐに手に入る「知識」を覚えることに意味なんてないといったのは誰だったか。そう、重要なのは、雑学程度の底の浅い知識をどれだけ持っているかではなく、ある情報に触れたときに、「それって、これと同じことだよね(共通点を抽出する)」「これと関連してるかも(関連性や結びつきを類推する)」「こっちと結びつけるとおもしそう(セレンディピティで新たな気づきを得る)」と思えることであって、そうした気づきが新たなイノベーションやクリエイティブを生み出す土台となる。

    同じ情報に触れても、そこから次々とアイデアがわき出してくる人と、単なる雑学として消費するだけで終わる人がいるのは、元のデータ(生のテキスト、作り込まれた作品、古典と呼ばれる人類知の集積)から自分なりの知見を引き出す訓練をどれだけ積んできたかで違ってしまうから。本を読んだり、映画を見たりして、自分なりに考えて大事なポイントを抽出する、つまり「まとめ」をつくる作業そのものが思考訓練なのであって、誰かがまとめてくれた「結果」だけを受け取って満足してしまう人は、そうした知的トレーニングをほとんど経験しないまま大人になってしまったかわいそうな人だと思う。受験生のころ、世界史や日本史、生物、古文なんかの「暗記科目」は、自分なりにノートにまとめて覚えた人も多いはずだけど、その内容をいま覚えているかどうかなんて、たぶんどうでもよくて、「自分なりにまとめる」という作業をしたかどうかに意味があるってこと。これ、意外と知られてないことだと思うので、あえて書いておきます。

    「フィルムもスピードアップだ、モンターグ、速く。カチリ、映像、見ろ、目、いまだ、ひょい、ここだ、あそこだ、急げ、ゆっくり、上、下、中、外、なぜ、どうして、だれ、なに、どこ、ん? ああ! ズドン! ピシャ! ドサッ! ピン、ポン、パーン! 要約、概要、短縮、抄録、省略だ。政治だって? 新聞記事は短い見出しの下に文章がたった2つ! しまいにはなにもかも空中分解だ! 出版社、中間業者、放送局の汲みとる力にきりきり舞いするうち、あらゆるよけいな込み入った考えは遠心分離機ではじきとばされてしまう!」
    「就学年限は短くなり、規律はゆるみ、哲学、歴史、外国語は捨てられ、英語や綴りの授業は徐々に徐々に遠ざけられ、ついにはほとんど完全に無視されてしまうだろう。時間は足りない、仕事は重要だ、帰りの道でいたるところに快楽が待っている。ボタンを押したり、スイッチを入れたり、ボルトやナットを締める以外にいったいなにを学ぶ必要がある?」
    「ジッパーがボタンに代わり、おかげで人間は夜が明けて服を着るあいだ、ものを考えるたったそれだけの時間もなくしてしまったーー哲学的なひととき、いうなれば愁いのひとときを」
    「人生は挫折の集合なんだ、モンターグ。バン、ボコッ、ワーオ! なにもかもがこのとおりさ」

    「それじゃ、ここでわれらが文明諸国における少数派に目を向けようか。人口が増加すれば少数派も増える。愛犬家や愛猫家たちの踵を踏まないように。医者、弁護士、商人、上司の踵を踏むな。モルモン教徒、バプテスト、ユニテリアン、中国系2世、スウェーデン系、イタリー系、ドイツ系、テキサスっ子、ブルックリンっ子、アイルランド系、オレゴンやメキシコから来た人びとにも同様な配慮を。本書、本劇、本連続プロに登場する人物たちは、実在するいかなる画家、製図家、機械工を表現したものでもありません。市場が大きくなればだ、モンターグ、なればなるほど論争は避けたい。いいか、モンターグ、ここは覚えておけよ! どんなちっぽけな取るに足りない少数派でも、へそは清潔にしておきたい。物書きたちよ、邪悪な思想に満ちた者たちよ、タイプライターに錠をかけてしまえ。連中はそうしたんだ。雑誌はバニラタピオカの口当たりのいいブレンド。その一方で、本は皿を洗ったあとの汚れ水となった。鼻つまみの俗物批評家連中はそういい、本が売れなくなるのも道理だといったが、一般大衆は自分がほしいものをちゃんと心得てるので、上機嫌でくるくる舞いながら、コミックブックはしっかりと押さえて手放さなかった。それから、もちろん立体のセックス雑誌もだ。見てのとおりさ、モンターグ。これはお上のお仕着せじゃない。声明の発表もない、宣言もない、検閲もない、最初からなにもないんだ。引金を引いたのはテクノロジーと大衆搾取と少数派からのプレッシャーだ。おかげで、いまはみんな夜も昼もしあわせに暮らし、政府お目こぼしのコミックと古き良き告白(コンフェッション)ものと業界紙を読んでいる」
    「そう。しかし昇火士はこれにどうからむんですか?」
    「それか」「こんなに楽に説明できて、こんなに当たり前のものもないさ。学校がスポーツ選手、資本家、農家、製造業、販売業、サービス業、修理屋を世に送りだすことに熱心で、審査する人間や、批評する人間、発想豊かな創作者、賢者の育成をおこたるうち、”知識人(インテリ)”ということばは当然のようにののしり語となった。人はいつでも風変わりなものを恐れるな。お前のクラスにもいただろう。人一倍頭がよくて、暗誦したり先生の質問に答えたりをひとりでやってのけてるやつが。ほかの生徒はみんな鉛の人形みたいに黙りこくってすわり、そいつを嫌ってるという図だ。放課後、きみらがいじめたり殴ったりする相手に選んだのは、そういう俊才君じゃなかったか? もちろん、そうだよな。みんな似たもの同士でなきゃいけない。憲法とは違って、人間は自由平等に生まれついてるわけじゃないが、結局みんな平等にさせられるんだ。誰もがほかの人をかたどって造られるから、誰もかれも幸福なんだ。人がすくんでしまうような山はない、人の値打ちをこうと決めつける山もない。だからこそさ! となりの家に本が一冊あれば、それは弾をこめた銃砲があるのとおなじことなんだ。そんなものは焼き払え。弾丸を抜き取ってしまえ。心の城壁をぶち破れ。本読みの心がつぎに誰を標的にすると思う? おれ? 考えていたら1分と耐えられんね。というわけで家々がひとしなみに防火建築になってしまうと、世界じゅうで古くさい”ファイアマン”は必要なくなった(火を消すのが仕事だったんじゃないかと、おれに聞いたな。あの節は事実だよ)。彼らは新しい職にありついた。われわれの劣等意識が凝集するその核心部を守る人間、心の平安の保証人、公認の検閲官兼裁判官兼執行官になったのだ。それがお前だ、モンターグ、それがおれなんだ」

    他人の足を引っ張っても、自分が賢くなるわけじゃないし、ベースラインに全体をそろえる発想はいつの時代も悪平等でしかない。伸びようとする心、あいつに勝ちたいという気持ち、もっと知りたいという好奇心、モチベーションの源泉は違っても、そういう欲求を抑えつけてしまうと、新しいチャレンジは生まれず、世の中は停滞し、平穏無事かもしれないが、なんのおもしろみもない、退屈な日常が延々と続くことになる。

    「黒人は『ちびくろサンボ』を好まない。燃やしてしまえ。白人は『アンクル・トムの小屋』をよく思わない。燃やしてしまえ。誰かが煙草と肺がんの本を書いた? 煙草好きが泣いてるって? そんな本は燃やしてしまえ。平穏無事だ、モンターグ。平和だ、モンターグ。争いごとはそとでやれ。焼却炉で燃やしてしまえば、もっといい。葬式は悲しみをもたらすし、異教の匂いがする。ならばそれも燃やしてしまえ。人が死んだら5分後には、ヘリコプターで全国津々浦々どこへでも届けてもらえる火葬炉”大炎管”へ直行だ。10分後にはほんの少量の黒い塵になっている。故人を偲んでああだこうだいうのはよそう。忘れてしまえ。ぜんぶ燃やしてしまえ、なにもかも燃やしてしまえ。火は明るい。火は清潔だ」

    自分の好みに合わないから、という「お気持ち(好き嫌い)」だけで、他人の表現を排除しようとする人たちが、後をたたない。お気持ちで誰かの表現をなかったものにしたい人たちは、やがて、別の誰かのお気持ちによって、自分の言葉を奪われることになる。国による検閲があってもなくても、言葉狩りをしたがる人はいるし、度重なる炎上は、知らず識らずのうちに、クリエイターの心理に自主的な規制を植えつけ、表現をしばるようになる。従来の常識を覆すようなエッジの効いた表現は、当たり障りのない表現に丸められ、誰も傷つかないが誰の心も揺さぶらない、凡庸な表現ばかりが世にあふれ、なにか新しいことが始まるワクワク感や、少し後ろめたい気もするけど覗いてみたくなるようなゾクゾク感が失われたジャンルは、結局衰退していまう。大昔に流行った「古典芸能」として時に振り返られることはあるかもしれないが、若い才能が続々と参入してくるような勢いがなければ、カルチャーもまた、寿命を迎えてしまうのだ。

    「となりのうちに女の子がいたんです」「もういません。死んだんだろうと思います。顔も思いだせないくらいです。でも、その子はほかの人間とは違っていたんです。いったいーーいったいどうしてそうなったんでしょうか?」
    「どうしてもときどき、ああいう子が出てくるものなんだ。クラリス・マクレランだろ? 署にはあの一家の記録がある。慎重に監視していたんだ。遺伝と環境というのは不思議なものでな。2年や3年では、変わり種は排除しきれない。学校でがんばってみても、家庭環境でもとの木阿弥だからな。幼稚園に行かせる年齢が年々低下して、いまじゃゆりかごからひったくっていくみたいになっているのは、そのせいだ。マクレラン一家がシカゴに住んでいたときに何度か通報があったが、ぜんぶ誤報でな。本は一冊も見つからなかった。伯父というやつが怪しげな経歴の持ち主で、反社会的と記録されている。女の子か? あの子は時限爆弾だったな。学校の記録からすると、家族が潜在意識にいろいろ吹きこんでいたのはまちがいない。あの子は物事がどう起こるかではなく、なぜ起こるかを知りたがっていた。これは厄介なことになりかねない。いろいろなことに、なぜ、どうしてと疑問を持ってばかりいると、しまいにはひどく不幸なことになる。気の毒だが、死んだほうがよかったんだ」
    「さいわいなことに、ああいう変種はそうしょっちゅう現れるわけではない。こっちも、早いうちに芽を摘み取る方法を知っているしな。釘と材木がなければ家は建てられない。だから家を建てさせたくなければ、釘と材木を隠してしまえばいいんだ。誰かを政治問題で悩ませて不幸な思いをさせるのは忍びないと思ったら、ひとつの問題に2つの側面があるなんてことは口が裂けてもいうな。ひとつだけ教えておけばいい。もっといいのは、なにも教えないことだ。戦争なんてものがあることは忘れさせておけばいいんだ。たとえ政府が頭でっかちで、税金をふんだくることしか考えていない役立たずでも、国民が思い悩むような政府よりはましだ。平和がいちばんなんだ、モンターグ。国民には記憶力コンテストでもあてがっておけばいい。ポップスの歌詞だの、州都の名前だの、アイオワの去年のトウモロコシ収穫量だのをどれだけ憶えているか、競わせておけばいいんだ。不燃性のデータをめいっぱい詰めこんでやれ、もう満腹だと感じるまで”事実”をぎっしり詰めこんでやれ。」

    マトリックスを何度つくっても一定の割合でアノマリー(説明できない異分子)
    が生じてしまう。だから、アノマリーが力を持ったらソースコードに送って、想定外の事態を取り込んだうえで、マトリックスそのものをアップロードする。でも、やっぱり、そこには収まらないアノマリーは出現する。生命がそういうものであってよかったと心から思う。

    「ただし国民が、自分はなんと輝かしい情報収集能力を持っていることか、と感じるような事実を詰めこむんだ。そうしておけば、みんな、自分の頭で考えているような気になる。動かなくても動いているような感覚が得られる。それでみんなしあわせになれる。なぜかというと、そういうたぐいの事実は変化しないからだ。哲学だの社会学だの、物事を関連づけて考えるような、つかみどころのないものは与えてはならない。そんなものを齧ったら、待っているのは憂鬱だ。テレビ壁を分解して、またもとどおりにできる人間は、まあ、いまはおおかたの人間ができるわけだが、そういう人間は、計算尺と巻尺で宇宙を測って計算して方程式で示そうとする人間よりしあわせなんだ。そんなことをしたって宇宙は測りきれないし、ぜんぶをイコールで結ぼうとすれば、人間が野蛮で孤独だってことを思い知らされるだけだからな。おれにはわかる。いまいましい話だが、やったことがあるんでな。だから必要なのは、趣味の集まりにパーティ、アクロバットに手品師、無謀な遊び、ジェットカー、バイクヘリコプター、セックスにヘロイン、自動的な反射作用でできる、ありとあらゆるものってことだ。もしドラマがつまらなかったら、映画を見てもなにも伝わってこなかったら、芝居の中身がスカスカだったら、テルミン(電子楽器の一種)でガンガン刺激してくれりゃあいい。そうすればこっちは芝居に反応している気になれる。たとえそれが振動にたいする触覚の反応にしぐなくてもな。かまやしないさ。こっちはしっかり愉しめればなんでもいいんだから」

    「最後にひとつだけ」「昇火士の仕事をしていると、誰でも少なくとも一度は、むずむずっと来るもんだ。本はなにをいってるんだろう、と思うわけさ。で、そのむずがゆいところを掻くために、な? いいか、モンターグ、おれのことばを信じろ。おれは若いころ、本のなんたるかを知る必要に迫れれて何冊か読んだことがあるんだが、本はなにもいってないぞ! 人に教えられるようなことなんかひとつもない。信じられることなんかひとつもない。小説なんざ、しょせんこの世に存在しない人間の話だ、想像のなかだけの絵空事だ。ノンフィクションはもっとひどいぞ。どこぞの教授が別の教授をばか呼ばわりしたり、どこぞの哲学者が別の哲学者に向かってわめきちらしたり。どれもこれも、駆けずりまわって星の光を消し、太陽の輝きを失わせるものばかりだ。お前は迷子になるだけだぞ」
    「じゃあ、そのう、もしも昇火士がたまたま、わざとではなく、ほんとうになにかの拍子で、本を家に持って帰ってしまったら、どうなるんです?」
    「そいつは無理からぬあやまちだ。たんなる好奇心からしでかしたことだからな」「われわれはやたら心配するわけでもないし、怒り狂ったりもしない。24時間は、その昇火士に本を預けておく。もし24時間たってもそいつが本を燃やさないようなら、われわれが出動して、そいつの代わりに燃やしてやるだけだ」

    失敗する自由を若い人から奪ってはいけない。おれはやってみたけどムダだったよという経験は、おれの経験であって、他人が同じ感想を得るとは限らないし、仮に同じ感想をもったとしても、それは経験したからこそわかることであって、しかも、まわりの人が行かないような、一見ムダな回り道のなかに、宝物が埋まっているかもしれず、それは、その道を行った人にしか得られない経験だ。そもそも、他人にいわれて「はい、そうですか」というだけの人には、自分で考える力など、つくわけがない。他人の言葉をすなおに聞き入れることと、そこに疑問をもたないことは、イコールではない。教えは教えとして受け止め、自分が同じような状況に陥ったときにその言葉が蘇ってくればめっけものだし、蘇ってこなくても、それはそういう人もいるんだな、という経験として、自分のなかにもっておけばいいだけのこと。

    オーディブルはレイ・ブラッドベリ『華氏451度』の続き。

    ラウンジに入り浸る妻ミリー(ミルドレッド)の姿はさながらメタバースに入り浸りすぎて日常生活に支障が出てきたゲイマーのようだ。ラウンジの壁に映し出されるアナウンサーは、1人ひとりの名前で呼びかけ、さながらパーソナライズされたターゲティング広告のようでもある。自分1人の時間をもって、自分自身と向き合うこと、じっくり考えをめぐらすことをやめてしまった人間は、インプットしたものを消火しきれず、右から左に垂れ流すだけになり、どんどん中身が先細って、やがてジリ貧になる。それはたぶんそのとおりなんだけど、じゃあ、モンターグの、世の中に向けた独りよがりの怒りは許されるのかというと、そんなはずはないでしょ、と全否定する自分がいる。

    自分以外の全員ががバカに見えてしまう、あまりにも視野の狭い中二病に冒されたモンターグ。彼から見れば、ミリーもそのママ友たちとの他愛のない会話も、昇火士の同僚たちもみんな、政府?によって真実(核戦争に勝利し、今も続く戦争の現実とか、敗戦国の貧しい人たちの存在とか)に蓋をされ、目の前にブラインドを降ろされたあわれな(あるいは、マヌケな)人にしか見えない。世の中のみんなは騙されてる、自分だけが真実を知っているということを真顔で言う人は、現代人の感覚では、カルトの信者か、陰謀論者か、特定の○○イズムに頭が毒され、それ以外の見方や意見に(主義主張というのは人によって違うのは当たり前という最も基本的な事実すら忘れて)耳をかせなくなった無敵の人、ということになっている。あれ? この物語って、そこまで未来を見通してた???(なわけないよね笑)

    焚書や思想統制のディストピアSFが人々の心を引きつけるのは、それに近い現実がいつも、どんな時代にも、身近に感じられるからだろう。中国やロシアの専制国家、強欲資本主義の権化のようなビッグテック、つねに他人に、さらにはAIに監視されるネット世界。国家による検閲がなくたって、ビッグテックが世の中に流通してもいい意見を自主的に選別するし、ネット民による言葉狩りが横行して、言論の自由を封じ込めようという勢力には事欠かない。

    だが、一方で、どんなに独裁国家が強権的で、思想統制に熱心であっても、どんなにマーケティングに毒され、どんなにメディアに洗脳されているように見えたとしても、人々の自由意志が失われることはなかった。アウシュビッツのような絶望的な状況でさえ、生存者の中には最後まで自我を失わず、考えることをやめなかった人がいた。『これが人間か』のプリーモ・レヴィ、『夜と霧』のヴィクトール・フランクル。彼らがその証明だ。

    だとしたら、モンターグの怒りは、誰に向けたものなのか。そもそも、すべての人が読書に親しみ、知識を渇望して勉学に勤しむのが日常だった時代なんて、あったはずがないのだ。多くの人にとって、日々の糧を稼ぎ、毎日を平穏無事に暮らすことが人生の目的であって何が悪い? その人たちが本を読まずにテレビばかり見たからって、誰が非難できる? その人たちが何も考えていないとでも言うつもりか? 思い上がりもはなはだしいよ。何も考えてない人なんていない、ということは、1人ひとりの顔を見て、相手のことをちゃんと知れば、すぐにわかる。それがわからないのは、「その他大勢」でひとくくりにして、顔のない集合体としての人間を思い浮かべて、勝手に妄想をふくらませるからだ。

    本を書くのは、たいてい本を読んで育った人たちだ。なかには、みんなが楽しく遊んでいるときに、1人すみっこで本を読んでたタイプもいるだろう。そんな人から見れば、友だちと交わす他愛のない会話に、意味なんかないと思うかもしれない。だが、そうした何気ない会話の中に、コミュニティを維持する大事な秘密が隠されていることもあるし、実は熾烈なマウント合戦が繰り広げられていることもある。それに気づかないのは、自分が中に入れてもらえなかったからではないか。ひょっとして逆恨みか?

    モンターグがミリーやそのママ友たちの言動にいらつき、呆れ、怒りを覚えるのも、見方を変えれば、自分以外の考えを認めないモンターグの独りよがりな思い込みになるわけで、力づくで妻に言うことを聞かせる暴力夫、という物語にだって、なりうるのだ。だから、ディストピアSFが煽る思想統制の恐怖というのも、頭から信じ込むのではなく、眉唾で聞かなきゃいけない。誰かの言うことを何も考えずに鵜呑みにすることこそ、ディストピアSFの作者が最も嫌うところのはずだから。そうじゃない、おれの言うことを聞け、というなら、それこそ、「ミイラ盗りがミイラになってるぞ、おまえの存在こそディストピアじゃ」と言い返してやればいい。

    フェーバー教授いわく。

    「きみに必要なのは本ではない。かつて本のなかにあったものだ。今日の”ラウンジの家族”のなかに、おなじものがあってもよかったはずなんだが。本とおなじだけの膨大な事柄、意識の覚醒がライジやテレビから生きいきと伝えられてしかるべきだったんだが、そうはなっていない。そうとも、きみがさがしておるのは本などではない! さがしものは、手にはいるところから手にいれればよいのだ。古いレコード、古い映画、古い友人。自然のなかに求めてもよい。みずからのなかに求めてもよい。書物は、われわれが忘れるのではないかと危惧する大量のものを蓄えておく容器のひとつのかたちにすぎん。書物には魔術的なところなど微塵もない。魔術は、書物が語る内容にのみ存在する。書物がいかに世界の断片を継ぎあわせて一着の衣服に仕立てあげたか、そこにこそ魔術は存在する」

    本という記録メディアの非力なところは、文字を介しているために、抽象度の高い情報しか伝えられないことだ。人は見たもの、考えたことを文字に起こす過程で、言語化=抽象化という工程を経ざるを得ない。見たまんまを伝えるなら映像記録、思いついたまんまを伝えるなら(まだ実用化されていないが)テレパシーのほうが優れている。だが、見たまんま、思いついたまんまをダイレクトに伝えてしまうと、受け取った側は、送った側と同じ作業を一からしなければいけなくなる。フィルタリングされていない情報を咀嚼するために、自分で言語化=抽象化する必要があるからだ。何を見て、何を思い浮かべるかも1つのフィルターには違いないが、具体的すぎる情報(情報量が多すぎてそのままでは処理しきれない情報)を自分の思考に取り込むには、やはり言語化=抽象化が必要という意味で、受け取る側にとってはフィルタリングされていないナマ情報(自分の五感が直接拾ってくる外部の情報)に等しくなる。

    文字の場合は、誰かが抽象度を高めて、扱いやすい材料にしてくれたおかげで、受け取る側はそこをスタートラインとして考え始めることができる。ただ、他人が見たもの、他人が思いついたことは、自分にとっては自分が考えを深めるときのリソースにすぎないので、誰かがアウトプットした情報を自分にインプットして、自分の中にある別の情報と比べて優劣を考えたり、共通点を見つけたり、経験則を導き出したりして、考えをまとめたら、今度は自分がそれをアウトプットして誰かに伝える。そうやっていろいろな人の脳内でこねくり回され、引き伸ばされたり、圧縮されたり、引きちぎられたり、別のものと組み合わされたりして、代々受け継がれてきた思考の連なりみたいなものが、人類の知とでも呼ぶべきものの正体なのだと思う。

    余談だが、受信中心の映像メディアばかり見てると、インプットした情報量が多すぎて消化しきれず、受け取るばかりでアウトプットしにくい体質になりがちなのは、ナマ情報の消化・吸収(それは、思考のエサとするなら言語化=抽象化を指す)というトレーニングの絶対量が不足するからだと睨んでる。テキスト情報が有利なのは、すでに1回、誰かによって抽象度が高められているから、そこからさらにメタ情報を抽出するトレーニング教材として優れているのではないかと思うのだ。思いつきをそのまま垂れ流せるテレパシーを手に入れない限り、言葉を通じたコミュニケーションはなくならないので、言葉を操る能力(思いつきを言語化し、相手が理解できる言葉におきかえ、相手がわかるように順序立てて説明する能力)の重要性は変わらず、それを鍛えるには、やはり同じ言葉を使ったメディア=おもにテキスト情報が優位なはず(語彙力を高める意味でも)。だから本は読んだほうがいい、とは思うのだけど、読まない人を否定するつもりはまったくない。人それぞれ、向き不向きがあって当たり前なのだから。

    「足りないものは三つある」と嘯くフェーバー教授。

    「その一。こうした書物がなぜ重要なのか、おわかりかな? それは本質が秘められておるからだ。では、本質なる言葉がなにを意味するのか? わたしはそれぞれのものが持つ特性だと思っておる。この本には毛穴がある。目鼻がある。この本を顕微鏡でのぞけば、レンズの下に命が見える。命が際限なく、ふんだんんい流れていくのが見える。一枚の紙の一インチ四方あたりの毛穴の数が多ければ多いほど、誠実に記された命の詳細な記録が、より多く得られ、読んだ者はより”文学的”になる。なんにせよ、それがわたしの定義でね。細部を語れ。生きいきとした細部を。すぐれた作家はいくたびも命にふれる。凡庸な作家はさらりと表面をなでるだけ。悪しき作家は蹂躙し、蝿がたかるにまかせるだけ。
     さあ、これでなぜ書物が憎まれ、恐れられるのか、おわかりになったかな? 書物は命の顔の毛穴をさらけだす。気楽な連中は、毛穴もなくつるんとした、無表情の、蝋でつくった月のような顔しか見たがらない。われわれは、花がたっぷりの雨と黒土によって育つのではなく、花が花を養分として生きようとする時代に生きておるのだよ。花火でさえ、あれほど美しいにもかかわらず、大地のふしぎな化学作用の産物だ。それでもなぜかわれわれは、現実に立ちもどるサイクルを完結させることなく、花や花火を糧に生きていけると思ってしまう。ヘラクレスとアンタイオスの伝説はご存知かな? アンタイオスは大地にしっかりと立っておるあいだは剛力無双の巨人だった。ところがヘラクレスにかかえあげられて大地に足がつかなくなってしまったとたん、あっさり討ち果たされてしまった。もしあの伝説に、この時代、この都市で、きょうという日を生きるわれわれの実になるものがないとしたら、わたしは完全な狂人ということになる。さて、これで必要なもののひとつめがあきらかになった。情報の本質、特性だ」
    「では、二つめは?」
    「余暇」
    「はあ、しかし仕事をしていない時間ならいくらでもありますが」
    「仕事をしていない、暇な時間ならばたしかに。しかし考える時間はどうかな? 時速百マイル、危険以外のことは考えられない速度で車を走らせておるのでなければ、ゲームに興じているか、一方的に話すだけのテレビに四面を囲まれた部屋にすわりこんでおる。ちがうかね? テレビは”現実”だ。即時性があり、ひろがりもある。あれを考えろ、これを考えろと指図して、がなりたてる。それは正しいにちがいない、と思ってしまう。とても正しい気がしてくる。あまりに素早く結論に持ちこんでしまうので、”なにをばかな!”と反論するひまもない」
    「あの”家族”だけが”人”なんです」
    「どういうことかな?」
    「妻は、本は”現実”ではないというんです」
    「やれやれ。本は”ちょっと待っていなさい”といって閉じてしまえる。人は本にたいして神のようにふるまうことができる。しかし、テレビラウンジに一粒の種をまいて、その鉤爪にがっしりとつかまれてしまったら、身を引き裂いてそこから出ようとする者など、おるかね? テレビは人を望みどおりのかたちに育てあげてしまう! この世界とおなじくらい現実的な環境なのだよ。真実になり、真実として存在してしまう。本は分別をもって叩きのめすことができる。しかし、わたしの全知識と懐疑主義をもってしても、百人編成のオーケストラだの総天然色だの三次元だのを相手に論じあえたためしがない。あの信じがたいほどすばらしいラウンジに入り、その一部になると議論することなどかなわない」

    人には1人になる時間が必要だ。孤独に耐えるものだけが考えをめぐらすことができる。おっしゃるとおり。大賛成。だが、そうでない人のことをバカにしたり、存在を否定したりする人とは相容れない。そうでない人にはその人なりの人生がある。それが自分と違うからって、なんで、そこまで頭ごなしに否定できるの?(すなおな疑問) 自分以外の他者に対するリスペクトを忘れずに!

    「これからどうすればいいんでしょう? 本はぼくらを助けてくれるんでしょうか?」
    「必要なものの三つめが手にはいりさえすれば。ひとつめは、最前にいったとおり、情報の本質だ。二つめは、それを消化するための時間。そして三つめは、最初の二つの相互作用から学んだことにもとづいて行動を起こすための正当な理由だ」

    本は誰かを救うこともあるが、何もしてくれないことも多い。能動的にアクセスしてきたものには見返りを与えることもあるが、それは、準備が整えたものが最適なタイミングでその本を手にとったときだけ。その時点で、本(とそこに思いを込めた著者)と自分とのコラボレーションが成立しているからで、本を読みさえすれば救われるという言い方にはどこか欺瞞のにおいがする。モンターグも、「わたしは、蜂の巣で安穏とすごす嬢王蜂だ。きみは働き蜂、移動する耳になってもらう」と嘯くフェーバーの言うなりに動くだけではダメで、フェーバーとコラボできてはじめて主体性を取り戻すことになる。

    オーディブルはレイ・ブラッドベリ『華氏451度』の続き。

    ガイ・モンターグが現場に復帰したとき、通報を受けた昇火士が向かった先は、モンターグの自宅だった。自分の手で本と家を焼くように命じられるモンターグ。だが、耳の中に仕込んでいた無線を奪われ、やむなくベイティー隊長を火炎放射器で焼き殺してしまう。

    「たしかに、それも観客を惹きつけるひとつの手だな。人に銃を突きつけて演説を聞かせるか。さあ、やってくれ。こんどはなんの話だ? おれにシェイクスピアでも吐きかけたらどうだ? お前みたいなぶきっちょは、どうせしどろもどろだろう。《いくら脅そうと、キャシアスめ、誰が恐れるものか、おれは誠実という鎧にしっかりと守られているのだ。脅しなどただの風、そよりと吹き抜け、おれはいっこうに意に介さぬ》どうだ? さあ、やれるものならやってみろ、この安受け売りの文学かぶれめ、引き金を引いてみろ」

    火炎放射器を向けられながら、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の引用でモンターグを煽るベイティー隊長。彼こそは、誰よりも本を愛し、あきれるほど文学にかぶれた張本人でなかったか。「ベイティーは死にたがっていた」のだ、この世界に絶望して。

    オーディブルはレイ・ブラッドベリ『華氏451度』が今朝でおしまい。

    行方を見失ったモンターグの代わりに機械猟犬に追い詰められる名もなき犠牲者。国家は、権力者は決して間違えないという無謬性を強調すれば、失敗したという事実は隠蔽され、ウソがまかり通り、そのウソを隠すために、ウソがウソで塗り固められることになる。

    「これは、やらせだ。きみは川で彼らをまいた。彼らとしては、それを認めるわけにはいかないんだ。それに、観客を長いこと惹きつけておくのはむずかしいことも承知している。ショウにはびしっと決まるエンディングが欠かせないからな! 川をさがしはじめたら、ひと晩じゅうかかる。そこでこの一件を鮮やかに終わらせるために、身代わりの匂いを追いかけているというわけだ。見ていてごらん。あと五分でモンターグをつかまえるぞ!」

    「思いだそうとしなくていいんだよ。必要になれば出てくる。われわれは誰でも、物事を写真に撮ったように正確に記憶しているものなんだ。ところが、じっさいにはそこにあるものが出てこようとするのを邪魔する方法を身につけることに膨大な時間を費やしている」

    学齢期前の子どもの10人に1人が持っているとされる映像記憶能力。大人になるとほとんど失われてしまうらしいが、それは言語化=抽象化能力を見につけたことで、似たような記憶から共通項をくくりだし抽象度を高めて記憶することで、それ以外の(言語化されなかった=意識にのぼらなかった)ナマの情報の大半を捨て去り、記憶の容量がいっぱいになるのを防ぐとともに、検索(思い出す)の容易性を高めるため、なのかもしれない。ナマの映像のまま、全部記憶してたら、たぶん、途中で容量が満杯になってしまって、それ以上覚えられなくなりそうだし。

    「われわれは書籍焼却人でもある。われわれは本を読んだら燃やしてしまうんだ。見つかると困るのでね。マイクロフィルムも具合がわるかった。われわれはつねに移動しているから、どこかに埋めておいてもまたもどってくるというわけにはいかなかったのだよ。いつ発見されてしまうとも限らないし。ならばこの老いぼれ頭にいれておくほうがいい。誰にも見られないし、気づかれることもない。われわれは、歴史や文学や国際法の断片、バイロンやトマス・ペイン、マキャベリ、はたまたキリストの断片の寄せ集めなんだ。それがここにある」

    過去の知識をインプットし、自分の中でかき回し、新たな情報としてアウトプットする人間は誰しもネットワークを構成するノードの役目を果たすが、過去の文脈を踏まえて書かれた本という存在もまた、ネットワークを構成するノードそのものだ。だから、その本を記憶した人がプラトンであり、マルクス・アウレリウスであり、スウィフトであり、ダーウィンであり、アインシュタインである、というのは興味深い符号だ。より多くの先人からの知識を集約し、より多くの未来人に影響を与える人や本は、リンク数と被リンク数がともに膨大で、ページランク上位に表示される「重要度の高い」人や本とみなされる。

    「われわれがやろうとしているのは、この先、必要人になると思われる知識を無傷で安全に保存すること、それだけだ。まだ、おもてだって人を刺激する、あるいは怒りに駆り立てるようなことはしていない。なぜなら、われわれがやられてしまったら、知識が、おそらくは永久に、失われてしまうからだ」「われわれの組織は非常にゆるやかで、断片的で、融通無碍でね。なかには顔を整形して指紋も変えた者もいるくらいだ」

    中央集権、上意下達の軍隊組織とは違う、独立した個人同士のゆるやかなつながり。それは分散型ネットの住民でもあり、テロリストの姿とも重なる。

    「もしそうならなければ、待つしかないだろうな。本を一語一語、口伝えで子どもたちに伝えていくんだ。そして子どもたちも待ちつづけながら、ほかの人間に伝えていく。もちろん、そんなやり方では失われてしまうものも多いだろう。しかし、聞く耳を持たぬ相手に聞かせることはできなんだ。そういう連中も、いずれは、なにが起きたのか、なぜ世界が足もとで爆発してしまったのか疑問に思って、考えを変えるときが来る。いまの状況が永遠につづくわけではない」

    聞く耳を持たない相手を無理やりねじふせて、自分の意見を押しつけても、そこには恨みと反発と無関心(あきらめ)しか残らない。第一、それって、思想統制をする権力者側とやってることは同じだよね。タイミングを間違うと、話し合いはうまくいかない。逆に、たいていのことは時間が解決してくれる。

    「われわれがただひとつ頭に叩きこんでおかねばらならいのは、われわれは決して重要人物などではないということだ。知識をひけらかしてはならない。他人よりすぐれているなどと思ってはならない。われわれは本のほこりよけのカバーにすぎない、それ以上の意味はないのだからな」

    リンク数が多いノードは、放っておいても、その影響力が削がれることはない。むしろ、リスペクトされる存在でいたほうが、影響力の及ぶ範囲は広がるだろう。影響力はパワーそのものだが、パワーがあるからといって偉ぶったり、勘違いしたり、他人に強要したりしていれば、それを嫌った人からの被リンク数が減り、影響力もジリ貧になる。上に立つものほど謙虚でいたいものだ。

  • 70年近く前に書かれた本だが、一部、現在を予見するような内容で、びっくりするし、名作ってこういうことかと思わされる。いわゆるライトノベルとは違う。
    本が禁制品となって、それを燃やす職業の昇火士(ファイヤマン)が主人公。ふとしたきっかけから、本には大切なことが書かれているのではと気付き事件になっていく。
    この頃の流行りなのか、事実の描写と心理の映像化の部分の堺が分かりづらく、読みづらいのが難点。
    今を予見しているなという部分は、リビングの壁掛けテレビを主人公の妻が一日中聞いていたりするところ、こんなの、今のYoutubeを流しっぱなしにしている人に通じる。全体として本を読んで考えるというより、簡単な上辺だけの刺激を大衆が求めているところなんてまさにだと思った。
    ラストが若干ご都合主義なきがするが。。。ちょっと未来はこうなっていくのかと思った。

  • 検閲、情報操作を未だに行っている社会、これから行う可能性のある社会に対する牽制の意図が込められているように感じた。と思いきや、著者自身が、『この作品で描いたのは国家の検閲ではなく、テレビによる文化の破壊』と述べているらしい。

著者プロフィール

1920年、アメリカ、イリノイ州生まれ。少年時代から魔術や芝居、コミックの世界に夢中になる。のちに、SFや幻想的手法をつかった短篇を次々に発表し、世界中の読者を魅了する。米国ナショナルブックアウォード(2000年)ほか多くの栄誉ある文芸賞を受賞。2012年他界。主な作品に『火星年代記』『華氏451度』『たんぽぽのお酒』『何かが道をやってくる』など。

「2015年 『たんぽぽのお酒 戯曲版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

レイ・ブラッドベリの作品

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