「科学者の楽園」をつくった男 大河内正敏と理化学研究所 (河出文庫) [Kindle]

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  • サイエンスの本、っていうより、起業家向けの本って感じ。胸熱。

  • 「科学の発展が自由な性質であるものなら、研究者にも自由を与えなければならない。その意味で、日本の科学史の中で、理化学研究所は、朝永振一郎が回顧したように奇跡とすら言える「科学者の楽園」であり、ここに『理研精神」があった。
    いったい、「理研精神」とは何か。
    それは、科学者の精神の解放であった、といえよう。大河内は、
    「物理が化学を、化学が物理をやっても結構です」といった。
    理研精神の流れをくむがん研究センター長の杉村隆は入所に際し終生の師と仰ぐ中原和郎から「何の研究をしてもよい。数学でも物理でもよい。ガン研究に関係がなくともよい。ただ、独創的研究だけはしなければならぬ」と言われたという。」この中原も野口英世と同時期にロックフェラー研究所に研究をしていたが成果は出ず理研に入って「アメリカでは見られない自由な空気」を呼吸できたと言っている。

    その理研がどうやって生み出され明治を代表する錚々たる物理、化学などの学者が活躍したか、そして自由な研究をするために一方では理研コンツェルンを生み出しまた第二次大戦においては原子爆弾の開発を行うなど環境の変化によりどう変わっていったかを示している。一応の主人公大河内正敏なのだが理研と言う場所自体がテーマになっている。STAP細胞の事件では理研の内部統制のずさんさが眼を引いたがこの本が書かれたのは1983年なので「自由な楽園」をどうマネジメントするかといった視点はない。

    この本では割と西洋のものまねとして進んだ明治初頭の科学技術に批判的で、「模倣によらない独走技術」の開発は、いまいっそう深刻な懸案としてクローズアップされているといえる。そして、画期的な発見は一見「役に立たない」基礎科学の充実なしには、絶対にありえない。と書いている。富国強兵をスローガンとした実学(鉱山学、冶金学、造船学)が主で理科より工科が重視されていたフシがあるそして明治政府の方針を模倣、略奪と言い切っている。この元になるのが岩倉遣米欧使節団の訪問で見聞きした工業の発展による国力の増強であり、当時の感覚では江戸の学問は虚学であり実学や小学校教育からの底上げを重視するものだった。基礎と応用のバランスが追うように偏っていたのも、大きな発見は基礎なしに生まれないとして理研が生まれるもとのしそうになったのもそうだろう。しかし、理研も運営のためには金がかかり鈴木梅太郎の理研ビタミンや清酒市場をせっけんすることになる合成酒(よけいなことをしてくれたもんだがグルメのはずの大河内正敏は世界中どこに主食を潰して国民飲料を作っている国があると書き残した)、また理研コンツェルン企業からの利益の吸い上げで成り立っている。楽園の沙汰も金次第のところもあるのだ。ただ当時は大学の研究予算も少なく教育にも時間を割かれ研究機関として充分な余裕がなかったと言う事情もある。

    そして渋沢栄一を座長とした財界人の集まりでタカジアスターゼやアドレナリンの発明者高峰譲吉が大演説をぶち大隈重信の協力も取り付け、国と財界からの理化学研究所が設立された。長岡半太郎、池田菊苗、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄、寺田寅彦・・・紹介しきれないこれらの人物のエピソードが本書の骨格になっている。その理研を途中から引き継ぎ発展させたのが大河内正敏だ。理研の中では若手の部類だったが貴族議院議員という身分がものをいい、その手腕も将校大臣を約束されているほどだ。理研立ち上げの後押しになったのが第一次大戦での物不足であったこともあり、造兵学が専門の大河内の発想の中には「国民の生活に必要なる諸物資」の自給自足まで計画してこそ「真の国防計画である」と解いている。現代の戦争は武力戦でなく経済戦であるとまで言っている。だからこそ理研コンツェルンが発展したのだろうが、コンツェルンと理研は基本的には交流はなく理研側には研究者に一切を任せる今に連なる主任研究院制度を導入した。予算内では何をやっても自由だ。「研究者の使う研究費などたかの知れたものだ」と言い、数ヶ月で予算を使い果たしても成果を上げれば政府がほっとかないだろうとあまり気にしない。「殿様」とよばれた大河内らしい。ただしコンツェルンの事業家には人柄は求めず某社の取締役が美人タイピストに手を付けた際には「そいつはしまった、だしぬかれた」と言うくらい、取り立てた職工が身を持ち崩したり、気に入らないやつは速達一本でやめさせたりと組織と言うより個人商店の集合と言うのが理研の実態だったようだ。

    サイドストーリーではあるが欠かすことの出来ない人物が一人登場している。これがためにこの本は科学史というにはあまりにも読み物に偏り過ぎてしまっているがある意味理研という組織のおもしろさを代表する例でもある。それが田中角栄だ。新潟から角栄が東京に出てくるきっかけは大河内の書生として採用されるからと言うのが理由で、実際に始めた仕事は理研がらみの建築事務所につとめ、自身の起こした田中土建ではピストンリング(今のリケン)工場の朝鮮移転を請け負い後に理研化学の社長も務めた。理研も新潟県を重要な拠点とみなしたこともあり
    角栄の最初の当選は理研グループのバックアップがあってのものだった。

    現代の日本の物理・化学教室のルーツを追えばほぼ理研、東大、京大のいずれかにたどりつく。そしてこの中でも人材は入れ替わり交流している。あまり科学者の師弟関係の系譜というのは検索しても出てこないのだが例えばこの本に名前の出てくる真島利行ー小竹無二雄というラインはケムステの化学者系譜に出ており私の卒業学部も小竹教授が立ち上げたのもなので当時の先生達の名前も出ている。理研から遡れば仁科芳雄からアインシュタインとの論争で有名なニールス・ボーアにまでたどりつく。今の日本の理工系の出身者は同様にこの本の登場人物に行き着くことだろう。

    この本の書かれた際には当時を知る証言者もまだ数多くいた。一時資料の寄せ集めだけでなく彼らの証言も参考にされており化学読み物とは言え貴重な歴史を記した本になっている。

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著者プロフィール

1931年東京生まれ。医・科学ジャーナリスト。「週刊文春」編集長等を経て、フリー。著書に『毒ガス開発の父ハーバー』(科学ジャーナリスト大賞)、『毒ガスと科学者』など。

「2014年 『「科学者の楽園」をつくった男』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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