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- / ISBN・EAN: 4988113831031
感想・レビュー・書評
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今読んでる「Bookmark」に出てきて思い出し記録。これの原作がバンド・デシネ(漫画)だったことは知らなかった。
この映画の主題はレズビアンの二人の物語だけど、実はテーマはフランス映画の伝統、「社会階層の違い」なのかなと思った。
LGBTの割合は2~10%、その中で運命の人に出会うのは難しい。社会階層の違いが二人を阻むならなおさら。そんな寂しさが胸をつく作品でした。
ただ社会階層問題は普段日本人は意識しないので、この映画がカンヌ受賞しても「なんで?」と感じる方も多いのではないかと思います。
翻って個人的な話。
ゲイの友達は何人も思い浮かぶんだけど、レズビアンの友達は控えめにカミングアウトしてくれた一人しか知らない。LGBTの中でも男女の違いによって生きやすさの違い(カミングアウトのしやすさの違い)ってあるのだろうか、っていうのが、この映画観てから気になってる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
DVD
高校生の少女が性に目覚め、一人の女性に恋をし、そして別れる物語。
とても好みな雰囲気の映画。ただ何年の月日が経っても、主人公のアデル役の女の子が18歳の少女にしか見えないのが残念だった。本当にパルムドール?
レアセドゥは、ミステリアスな年上の女性で素敵。ブルーの瞳が美しい。 -
高校生のアデルは、交差点ですれ違ったブルーの髪の女性エマと視線を交わした瞬間、心を奪われた。偶然にもバーで再会を果たし、知的でミステリアスなエマにますます魅了されていく。週末、ふたりきりでデートに出かけ、見つめ合い、キスを交わし、そして互いを求めあった。初めて知る愛の歓び。情熱と刺激に包まれた運命的な愛に、アデルは身も心ものめりこんでいく……。
トマと付き合いながらもエマに惹かれるアデルの戸惑い、文学が好きで勉強中のアデルと美術の勉強中のエマが惹かれ合い愛し合う展開(アデルがエマの絵のモデルになったり、エマがアデルの論文の手伝いをしたりデモに参加する中で惹かれ合い愛し合う)、レズビアンである娘に理解のあるエマの両親やアデルの両親との交流、芸術を追究出来るエマと堅実に夢を追究するアデルの生き方の差違を越える情熱的な恋、自由に夢を追究するエマに憧れながらも置いていかれそうな寂しさを感じエマとの同居を同僚に隠してるアデルとアデルに文学に挑戦して欲しいエマのすれ違い、自由でアーティスト気質なエマを演じるレア・セドゥのクールな魅力とピュアで情熱的なアデルを演じるアデル・エグザルコブロスの魅力、傑作恋愛映画です。 -
とても良かったです。
普遍的な、でも上質な恋愛映画でした。
出会って、別れて、戻れないと知る。それでも、お互いに気持ちは抱き続ける。。
切ないけど美しいです。
アデルのアデルさん、幼く無防備に見えてでも時折妖艶で、初めの方は食べ方と口がずっと半開きなのちょっと…と思ってたけどだんだんと好きになりました。感情が表に出まくるのすごい。
それよりエマのレア・セドゥさん…拝見するの「ミッドナイト・イン・パリ」以来ですが今回もとても素敵でした。大好きな人に笑顔を向けるときに眩しそうな顔になるの堪らないです。
序盤の高校?の描写かなりキツかったけれど。なんであんな人たちと一緒に居るんだろう…アデル、彼女たちほんとに友だちとして好きで付き合ってるのかな?と。エマと出会ってからの方が生き生きしてた。
ふたりが一緒にいるときすごく幸せそうなのですが、芸術を志す人と、安定を求める人と、長くは続かないだろうな、って感じさせるのも儚くて。
でも別れた後にカフェで再会するシーン、泣けました。言葉も、言葉に出してないふたりの気持ちも伝わってくるのがもう。。
生涯に一度、出来るか出来ないかの恋だろうな。それが幸せかはわからないけれど。
3時間、あっという間でした。フランス映画、好きです。 -
アデルのように、咽び泣き、思う。
果たしてエマはアデルを本気で愛していたのだろうか。愚問が残る。
若者同士が次から次へと恋愛をするように、人生の中のたった一瞬の恋人関係だったのか。育った環境や社会的立場、階級、思想にズレを感じていくうちに、エマが他の女性を好きになってしまった、そしてアデルが男と浮気をした、ただそれだけの事だったのか。
ストーリーとしてはアデルの視点から物語が進むが、エマの過去のトラウマや恐怖心、苦悩や葛藤が見え隠れする。
まぁ、男女間でも同性愛でも同様なことは往々にして起こり得るが、同性愛という障壁や苦悩は計り知れない。
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そして、翌日もう一度見返して、感じた。
エマはアデルを愛するが故に、彼女の幸せを願うが故に別れることを選ぶ。
アデルが求める安定を願って。 -
女子高生アデルと青い髪の女性アーティスト、エマの恋の話。
エマは表情がリバー・フェニックスみたいだなと前半ずっと思いながら見ていた。
あんな笑い方されたら恋にも落ちます。
二人の関係の描き方がとても丁寧だった。
私はもう少しテンポが速い方が好きだし、何よりアデルが好きになれなくて引いて見てしまったにだけど、そこは好みの問題。
ラストも結び方としてはいいものの、何となく腑に落ちないところがあって、それは二人だけに焦点が合い過ぎていて周囲がこちらに見えて来ないことと、丁寧なのに時々ぽんと二人のことでさえ飛ばしていくことだった。
けれど、原題が「アデルの人生 第一章と第二章」だと知って納得した。
これはアデル個人の話、そしてそれはまだ終わらない。
恋愛を中心としながら実は片方だけの話だったというところで、「(500)日のサマー」を少し思い出した。
ただ、アデルは原作のタイトルが「ブルーは熱い色」だそうなので、本来は二人を描いたものだったのかも。 -
大人になるっていうのは、後悔や別れを積み重ねて孤独を受け入れていくことなのかなあ。そんな淋しさばかりじゃなくて、エマとのきらめく思い出を後生大事に愛でるばかりじゃなくて、アデルのその後の人生が幸せであるといいなと思ったラストだった。
エマの青い髪、大人や開放や自由の象徴だったんだろうか。途中で金髪に変わってしまって、かわりにアデルは最後青いドレスを着ている。 -
レズセシーンにいや長い、長い長い、と口に出してつっこみを入れてしまった、それくらい圧巻でした。でも泣くシーンにしろ別れにしろなんにしろ尺の取り方が丁寧で、じっっくりとアデルの心境を描いている。男性となら誰でも見目さえよければしちゃえば?な女友達からの同調圧にくらべて、レズビアンが獲得する愛、エマにそういった強烈な愛をもらったアデルはそれ以上を求めるというのはかなりハードルの高いことなのだろう。そういう恋愛が一生に一度できる人が果たしてどれだけいるだろうか?自分は残念ながらできない。
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もうだいぶ前のパルムドール受賞作。観ないまま何年も過ぎて、GYAOで垂れ流されてたのでラッキーだなと思いつつ、鑑賞後に調べててアンラッキーなことに気づいた。
「劇場公開版はR18で激しいセックスシーンがあります」
なん…だと…?GYAO版はR15で、該当シーンはカットされてたのか……。
いや毎回言うけどそういうシーンが見たいわけではなくて、この映画の場合カットしちゃうと「映画のテーマが大きく違って見えてくる」。
私が観たR15版で最も感動したのは、前半の恋愛描写の部分だった(泣きました)。しかし、最後まで観てカットされた部分のことを加味して考えると、この映画のテーマって「セックスそのもの」じゃないのか?という考えに……。
「この映画のテーマは云々」と書くのは私は実は嫌いなのだけど、人に伝えるために止むを得ず書くことが多い。
英語版ウィキペディアによると、ひとつはセクシュアリティ。これは観たらわかることなので別にいい。
もうひとつは社会階級について。アデルは労働者階級、エマは中産階級と対照的に描写されているのがわかる。
しかし、そういうのってよくある話だよねえ……でも良い例が思い浮かばないなと思っていたところ、たまたまテレビで観たけど『サタデーナイトフィーバー』とかがそうだと思う。
アデルとエマの関係を見てると、別に共通の趣味があるわけではないし、お互いの事を理解しようとしていないように思える。もちろん恋愛初期にはそういうシーンはあった(食べ物の話)。映画なので時間経過はカットして処理され、次は倦怠期に。
エマにとっての絵画は重要なものだし、アデルが自己を確立させていくことも同様に重要。エマはアデルに文章を書くことを薦めるが、アデルはエマの絵画についてほとんど理解しようとしない。
これでは結局、「社会階級の分断は埋まらない」と言うようなもの。あるいは、「アデルのような選択や考え方をすると、幸せにはなれませんよ」と言ってるようなもの。少なくとも私にはそう思える。
コロナ禍になって以降、私もよく考えるようになったが、「分断」の溝を埋める唯一のものは、対話やコミュニケーションなのではないかと思う。しかし、それがこの映画の描きたいことであったか?というと微妙。
話を戻して、では彼女たちが惹かれ合ったのは何故なのか……冒頭のシーンから文学の授業で、一目惚れと「欠落」「足りないもの」についての話があって、それが伏線になっている。
一目惚れして、運命の人だと直感して……それは「愛」ではあると思うけど、「セックスそのもの」でもあると思う。このふたつは分けられないと私は考えているし、この映画でもそう描かれている。もしくは、「セックスのみ」が描かれている。
アデルが海でプカプカと浮かぶシーンがある。これは何なのか、一日考えて思ったのは、「エマとのセックスの代償行為」であるということ。
細かい点。
アデル一家のボロネーズの食い方が汚い笑。ところが、中産階級の人たちの食い方も汚い。このふたつの汚さは違う意味に捉えられるけど、汚さは同じ。だから別に対照的ではない。
LGBTに対するアデルの同級生たちの考え方。これはやはり社会階級によって違うのではないか。意地悪そうな顔の子がそのまま意地が悪い笑。
映画を最後まで観て、原題がわかって驚いた。『La vie d'Adele : Chapitres 1 et 2』=『アデルの人生:第1章と第2章』。
私がすごく好きなのは、やはり第1章の部分。冒頭からエマと再会するまでの助走が30分ほどあってけっこう長い。この部分が本当に退屈でかったるく、映画の心理的色彩もグレーに感じる。アデルの顔に笑顔もない。
しかし、エマと再会するシーンから、映画そのものが一気に楽しくなる。色彩も、ものすごく鮮やかに見えてくる。
だから最初の30分がかったるいのは心理的に必要な時間であって、我々がアデルと共にエマに恋してしまう!また、エマの顔が思いっきり「獲物狙っとんな、誘っとんな〜」と見えて、イイ!
アデル役の子の顔はあまり好きではない。特に口の形。
レアセドゥの方は、目の下のクマが良い。青い髪のショートカットというのは、やはりセーラーマーキュリー以来のね!以来のやつだね!!
女性も読むかもしれないレビューだからあえて書くと、私はAVなどのレズもの百合ものには全く興味がない。エロなしの百合ものも同様(男性全体だと、好きな人はけっこういるのではないかと思う)。
だからこの映画を性的嗜好のレズものとしては全く見ていない。性別関係なしに、「個」と「個」の恋愛映画として見ていたし、そう描かれていると感じた。恋愛映画として第1章は本当に優れていると思う。だって、ウキウキしながら観たもの。
最後に。
社会階級がテーマになっていて、ふたつの階級が描かれた。では、この映画の監督であるアブデラティフ・ケシシュはどの階級になるのか。
作中にひとりだけ、アラブ系の登場人物が出てくる。きっと彼が監督に一番近いのだろうと思う。
この映画を観る際には、彼が最後にどうなるか、アデルにとってどういう存在であるのかにも注目してみて欲しい。 -
これを電車でスマホで見るのは厳しかった。横か覗かれて、電車でポルノを見ている変態と思われないかと、集中できなかった…。余計な男の裸が映らないという点では非常にありがたくはありますが(不謹慎)。
とにかく長い映画なのですが、主人公アデルに心の揺れやじっくり描かれています。周囲の偏見の晒されたり、高校生だった主人公が様々ま経験をして最後には立派な社会人に成長していたりと、興味深いところはあります。ただ、わりと淡々としているというか、物語のドラマチックな盛り上がりが希薄で、結果的に2人の性愛の激しさしか印象に残らなかったのが残念。 -
初恋な。ささりまくる。髪の毛青くないエマがめっさ可愛い。
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★★★liked it
『アデル、ブルーは熱い色』 アブデラティフ・ケシシュ監督
La vie d'Adèle - Chapitres 1 et 2
ふたつ続けてアブデラティフ・ケシシュ監督だ~!
これも食事シーン多かった、ボロネーゼ食べたくなった
アブデラティフ・ケシシュinterview
「食事をしている姿を撮るというのは、キャラクターに人間らしさを付加する。そこに生命、やさしさ、官能性を見出して美しいと思いながら撮影するのです。食べたり、踊ったり、泣いたり、笑うことは自分が受けてきた教育や慣習から開放する瞬間だと思うのです。より自分自身に近づいて、本来の自分を見つける瞬間なのです」
二人の環境が対比して描かれる
庶民的で保守的なファミリーとオープンな芸術家ファミリー
堅実に先生と生きるアデルと芸術家として生きようとするエマ
芸術の難しい会話をするエマ&インテリな友人達
『あんたも本当にすきなことをすれば?』
『今は満たされてる』
そしてSEXを拒んだエマ
考え方や感性のズレで、もう心が離れてたのかなぁ?
浮気がバレての「出ていけ、売春婦」
かって愛したアデルに対してのエマの優しさ?
と思いたいなぁ
う~ん、これは運命の出会いではなかったのかな?
一目ぼれ、運命の出会いって、毎回言う人いるけどね~ -
ブルーは冷たいけど、色っぽい。
ブルーに溺れたい、、、 -
アデルが バーで聞かされる一言・・
「恋は性の垣根を越える」が何気なく耳に残る。
エマと離れてからのアデルの表情は、とても切なく、いたましい。虚無感、焦燥、脱力感、不安定さ・・何をしていても心ここにあらず。。。というような眼差しが、見ていて辛かった。
ラストで、元俳優の男性が追いついてくれたら。。。声を又掛けてくれたら。。と思わず願ってしまった。