読み始めてまず、iPhoneやインターネット、Siriなど現代のテクノロジーに対する予見に驚く。それを一人称の僕が説明しているのがちょっとおかしいが、この作品はストーリーとは別にそうした未来の社会や科学についての予見を示すという目的があったのだろう。
作中でのヴィジフォーンってまさにiPhoneだな。さすが。
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“ぼくが中学にあがるころは、「本」というものさえ、ある程度消滅しかけていた。(中略)それ自体が骨董的価値をもつような美しい書物以外、新しい出版物はほとんど電子図書館から、ヴィジフォーンについているコピー機にとって読む習慣が普及しかけていた。”
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1968年にこう書かれている小説を、今iPhoneのKindleで読んでいる。過去の未来と現在がまさに手の中で結びついている。SFがSFでなくなっている。ちょっとすごいことじゃないか。
さらに、文書は音声タイプで入力された後、地球上はおろか月までネットされた電子脳に格納され、どこからでも引き出せる、とある。
まさにインターネットの出現を予見していてのか。感心することしきり。<電子脳>という言葉がなんとも良い。しかし、ここまでテクノロジーが発達しているのに、黒板にチョークなのか(笑)。
よく考えたらビジフォーンって、まだ携帯電話の影も形もない頃に、iPhoneのように電話をベースにしたネットワーク情報端末という概念を提示しているのってすごくないか?(解説によると、ビジフォーンは通信端末だけど、電子書籍を読むようなタブレットではないらしい、あれ?)
と、まあ、未来のテクノロジーを予見する慧眼には驚かされたが、小説の楽しみとしてはまあ普通かな。タイトルと序章で、もっと大きな宇宙の意志みたいなものが関係する話かと思ったら違った。前半の賢者とタツヤとの会話で、「知と力、それを超えるもの、人類が自らの滅亡を肯定してまで、次にやってくる存在を祝福する、それは愛である」、みたいなやり取りがあって、やはり地球人類の滅亡とそのあとを継ぐ何らかの存在が宇宙からやってくるのか。と期待したら、肝心の賢者は後半いいところなしだし。
電気・電波人間<ホモ・エレクトリウス>は面白いといえば面白いけれど、「復活の日」「日本沈没」のあとだど、ちょっとスケールが小さく感じてしまった。しかもその新人類としての歴史を老人が語ったという体裁ながら地の文が一気に説明するというのもやや興ざめ。
薬によって生殖ができなくなり一代で滅亡となってしまうのもちょっとなあ。フウ・リャンの伏線がどう回収されるのか? 実は彼女もホモ・エレクトリウスであって、新人類は南米だけに出現したわけではなかった、ということかと思ったら違ってた。なるほどそう来たか、というかそれぐらい予想しろよ、俺。解説にはジュブナイルSFとしての味わいも、とあったが、そこまでキュンとくる話でもないしなあ。
飽きずに一気に読めたのは良かったけれど、ちょっと期待が高すぎてしまった感は否めない。