最終講義 生き延びるための七講 (文春文庫) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 久々に内田樹先生の本を読んだ。
    講義を、文字起こしした形式のせいか何かライブ感というか生々しさがあって新鮮だった。

    いつもどおり内田先生の言葉は節々で刺さってくる。
    今後も定期的に触れていたい。

    # 琴線に触れたところ
    - 利便性や行動から学びは発動しない:学ぼうとする側にはっきりとした「欠落」があるわけではなく、教えようとする側に、必須のコンテンツがあるわけではない。
    教えたいという無償の「おせっかい」と、なんとなく「教わりたい」という思いから、相互交流的に生まれてくるのが学び。
    - 母は、破滅的局面を生き延びることを子どもに求め、父は優劣を競う戦いに勝ち残ることを求める。
    - 成熟とは、矛盾に引き裂かれて、その矛盾に耐えて生きるという経験をすることでしか獲得できない。
    - 二つの異なる育児戦略が拮抗しつつ併存しているというのが、一番バランスがいい。
    - 「大きい公共と小さい公共が対立する場合は、常に小さい公共の側に立て」by昭和残侠伝のメッセージ
    - この国には政治がない。この国にはかつて国際社会に向かって、「私たちはこのような理想的な世界を作りたい」という理想を語った政治家が一人もいない。日本は何も代表していない。 by オリバーストーン
    - 林業や、自治体など、成長ではなく「存続」を第一義に掲げている形態もある。(一方で政治家のCEO化が進んでいる。)
    - 村上春樹「うなぎの話」小説には、自分と、読者と、うなぎ(第三者的ななにか)が必要。

  • - テーマは多岐にわたるが、ハッとさせられる指摘が多く感じる。
    - ***
    - 犯した過誤についてペナルティを科すのではなく、これから行うであろう「よきこと」を支援するという教育もある。評価というのはふつう過去のことについてなされますが、そうではなく、もう一度チャンスを与え未来に何を達成するかを見る。そういう教育がありうる。
    - 学びへの意欲がもっとも亢進するのは、これから学ぶことへの意味や価値がよくわからないけれども、それにもかかわらず何かに強く惹きつけられる状況においてです。かすかなシグナルに反応して、何かわからないけれども自分を強く惹きつけるものに対して、自分の身体を使って、自分の時間を使って、自分の感覚を信じて、身体を投じた人にだけ、個人的な贈り物が届けられる。
    - 経済学部は「存在するもの」を扱っていて、文学部は「存在しないもの」を扱っていると思っているかもしれないけれど、経済学も文学も結局は人間の紡ぎ出す幻想という「存在しないもの」を研究対象にしているという点では一緒。文学研究者は「存在しないもの」を専一的に「存在しないもの」として扱っている。その点では他の人文科学や社会科学よりはだいぶ「正気」の程度が高い。
    - 「愛神愛隣」。「神を愛すること」は今ここですぐに実現できることではない一方、「隣人を愛する」というのは今ここで、目の前で行うことができる。比喩ではなくて、文字通りにそのようにふるまうことを聖書は求めている。そして、そのような具体的な営みの裏付けがない限り、神を愛するという行いは達成しない。自分自身の今ここでの生身の身体が実現できるところから慈愛と正義をこの世界に積み増してゆく。永遠に実現されないかもしれないはるかな理想と、今ここで実践しなければならない具体的行為は表裏一体のものであり、一方抜きには他方も成り立ちがたいということを「愛神愛隣」という言葉は伝えているのだと僕は思います。
    - アカデミックな人は「フロントライン」にいる人間なんです。でも、どこの、誰に対する「フロントライン」なのか、背中に何を背負って「フロントライン」に立っているのか、ちょっとそのことを考えて欲しいと思うんです。せっかく人並み優れてよい頭に生まれついたのなら、他に役に立つ使い道があるんじゃないか。僕はそう思うんです。その稀有の才能を使って、それがどんなふうに「みんなの役に立つか」を優先的に考えるべきだと僕は思います。知性のパフォーマンスを向上させようと思ったら、自分以外の「何か」を背負った方が効率的であるに決まっています。自分の成功をともに喜び、自分の失敗でともに苦しむ人たちの人数が多ければ多いほど、人間は努力する。背負うものが多ければ、自分の能力の限界を突破することだって可能になる。
    - 中学生や高校生に向かって「君たちもフランス文学をやってみないか。面白いぞ」というような激励のメッセージを送った仏文学者がこの三〇年間にいったい何人いましたか。せいぜい片手で数えられるくらいでしょう。仏文科に来る学生がいなくなって、日本中の大学から仏文科がなくなったのは、誰のせいでもないです。われわれが後続世代に「パス」を送る仕事を怠ったせいです。ほんものの学者というのは「いいから俺の話を聞いてくれ」という人なんですよ。自分は哲学的な荒野をこれまで駆けめぐって、それなりに必死に道を切り拓いてきた。それは後続する君たちのためにやったことなんだ。だから俺の話を聞いて、それを理解して、俺の仕事を引き継げ、と。こっちにバシバシと「パス」を蹴り込んで来るわけです。こっちに受けとる技量があるかどうかなんて二の次で、とにかくそこに誰かがいたら「パス」を出す。僕はこのレヴィナスの「そこに誰かいたらとにかくパスを出す」というスタイルがほんとうに素晴らしいと思ったんです。学者というのはこうでなければいけない、と。
    - 相対的競争の勝者となって目立つことを求める父親型育児と、群れに紛れて、あたりと見分けのつかないものになって欲しいという母親型育児、この二つは実は排除し合うものではありません。対になっているんです。その二つの育児戦略の拮抗の中で、子どもはいい具合に育つ。
    - 競争原理は豊かな社会向きルールなのです。資源が貧しくなってきて、分け合う人間の数が増えてくると、それはもう使えない。資源の乏しい環境で、支え合って共に生きるための生活原理はわりとシンプルなものです。エコロジカル・ニッチ、「生態学的地位」をできるだけばらけるようにすることです。限られた資源を複数の個体で分け合うためには、行動パターンを変えなくちゃいけない。ずらしていって、「かぶらない」ようにする。限られた資源を最大限に利用する方法はそれしかないんです。できるだけ類似したふるまいをしない。同一物に欲望が集中しないようにする。競争相手を押しのけて奪い取らないと生き延びられないというような生き方をしない。それが共生の原理なんです。今の若い人たちを見ていると、たしかにそういう方向に微妙に生き方をシフトしているように僕には見えます。そういうふうにいろいろな個性を持った、「余人を以ては代え難い」人たちが、それぞれの特技を生かして相互支援・相互扶助できるゆるやかなネットワークを形成しようとしている。そんな感じがします。
    - まず教える側の「教えたい」という踏み込みがある。それに対して、「教わりたい」という生徒の側の踏み込みがある。教える側の踏み込みと、教わる側の踏み込みが、両方成立したときに、初めて教育というのは成立するのではないか。学ぶ決断だけは肩代わりできない。こちらから「教わらないか?」という呼びかけはするけれど、「では、私はあなたの弟子になって、あなたからものを習います」という師弟関係を取り結ぶときは、教える側は境界線のこちら側にじっと待って、生徒の側が、自己責任で、自己決定で、境界線を超えて踏み込んで来なければならない。
    - 人間が勉強しようと思うときのきっかけというのは、いつだって「なんとなく」なんです。あることをすごく学びたい。でも、理由はうまく言えない。人間の知性が活発になるのは、「これを勉強したい」のだけれど、どうして勉強したいか「わからない」というときです。勉強する以外に、この「もどかしさ」を解消する手段がないから、勉強する。それが学びの王道なんです。
    - 六歳の子どもが手を挙げて「先生、それを学ぶと何の役に立つんですか?」と言うとき、子どもは子どもなりに「有用性のモノサシ」を持っているわけです。でも、問題なのは、その六歳児のモノサシで世界中の価値がすべて計れると思っていることです。子どもたちにはこれから学ぶことの価値も意味も実はわかっていないという根源的な事実を教えるのが、教育の存在理由なわけですから、子どもに「みんなわかっているんだ」という態度を絶対に許してはいけない。
    - 子どもを育てるのも宇宙工学の場合と同じです。ソ連が宇宙を制するかアメリカが制するかの激しい競争と対立があるときに、宇宙工学が開花したように、子育ての原理が激しく対立し、矛盾するときに、子どもはすくすく成長する。子どもは葛藤のうちにあるときに成長するんです。教育というのは子どもを「葛藤のプロセス」にたたき込むことに尽きるんです。「単一の価値観や単一の言葉遣いにしがみついていたのでは、自分の経験を説明することができない」という、その葛藤の中に巻き込むことなんです。子どもというのは「こうすればよろしい」という単一のガイドラインによって導かれて成長するのではなく、「この人はこう言い、この人はこう言う。さて、どちらに従えばよいのだろう」という永遠の葛藤に導かれて成長するのです。一番大事なことは、ロールモデルとなる大人たちが 異なる価値観を持っている ということなんです。同一の価値観に 収斂 してはならない。
    - 大学の評価の本質を形作っていたのは、単年度の志願者数や偏差値や卒業生の就職率などではありません。建学以来、一〇〇年以上にわたって、教職員たちや卒業生たちが学校に贈ってくれたものすべての総和です。知り合いの林業家に聴いた話では、今年切り取って材木にすることができるのは、八〇年前に植えた杉の木だそうです。僕が家を建てるときに、その林業家が伐採したのは彼の祖父が植えた木でした。それを彼は今時間を超えた祖父からの贈り物として受け取っている。そして、彼が今年植えている木を「果実」として享受するのは、彼の孫やさらにその子どもの世代です。それは林業というのは単年度の収益でその経営の意味を計ることのできないものだということを教えてくれます。
    - 「世界で活躍できる機動性の高い人間として育てるのは教育的にはいいことじゃないか」と思う人もいるかもしれません。でも、僕はこれは学校教育の本質に 背馳 する要求だと思います。われわれが自分の子どもたちを成熟した市民として育てたいというのなら、そのとき理想とすべきは周りの人から「あなたがいなくなっては困る」と言われるような人のはずです。今「グローバル人材」として要求されるのは「いなくなっても誰も困らない人間」です。企業の都合であっちに行ったり、こっちに行ったり、定年まで世界中ぐるぐるまわることができる。そういう機動性の高い人間が求められている。でも、これは言い換えると、「どこにも根をおろすことができない人間」のことです。親族からも、地域からも、誰からも頼りにされない。頼りにしようがない、すぐにいなくなってしまうんですから。誰とも親密な恒常的な関係を築けない。築くことができない。そういう人間がいま学生たちに自己形成のモデルとして提示されている。若い人たちはそういう心理的な負荷を子どもの頃からずっとかけられている。誰にも迷惑をかけないし、かけられもしない。誰にも頼らない、頼られない。そういう人間が「大人」だと信じ込まされている。ほとんど「洗脳」されている。これはほんとうに気の毒なことだと思います。

  • 政治的な話を除けば、まあまともな内容。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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