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感想・レビュー・書評
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タイトル通り「悟り」とはなにかを原典、上座部仏教の知見/経験から明らかにしていく。
悟りが、ざっくりいえば執着をなくした状態というのはよく知られているのではと思うが、今まで、世界理解の延長線上に「悟り」を捉えていた。ただ、この本によれば、悟り(解脱)は、欲望、執着、世界を意味や物語を通してみる見方の低減や感じないようにするのレベルを超えて、「尽滅(なくなった)」した状態として明確(ある瞬間に悟りが成ったことを感じる)な状態としてあるらしい。
根本的な仏教とは、上記の状態になる方法の体系(?)であるという。
一方で他書(超越と実存―「無常」をめぐる仏教史)では、禅なりをしっかりやって悟りらしきものは得られるとして、それがブッタの得たものと同じかどうかは証明しようがないのでブッタの悟りってなにかわからないよねという身もふたもないことを述べている人もいる。
また、仏教が悟りへの方法の体系だとして世界に広がり2500年続いている(人を惹きつける)ということを考えれば、悟りを得たであろう僧が多いと思われるが、日本において悟っているという人が見当たらないのは、悟りに人格者などという意味もついてしまっているので、あえて悟ったという主張をするひとがいないのではという考察。
また、他に面白いと思ったこととして、世界に意味や価値を置かない悟り状態になった覚者(ブッタも含む)が周りを救う宗教を作るのは、遊びのようなものであるという。そこで、仏教が本質的に悟りへのHOWTOであるならば、浄土真宗や密教など多様な宗派があるが、そこへ至る方法や考え方が多様という違いであり、自然であるという。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
(書き途中)
【サマリー】
①悟り=煩悩がない状態 =仏教の目的
世界が存在することそのものが奇跡と考えられる
執着を離れ、存在することそのものを「楽しむ」ことができる
あらゆる行為全てが「遊び」(真剣ではある)であり、選択の裁量がある
②煩悩の根本的なもの=三毒
貪欲:好ましい対象に執着する心
瞋恚(しんい):好ましくない対象を嫌悪する心
愚痴:根源的な無知、物事をありのまま(如実) に知見できないこと
③全ての物事(諸行)の性質=縁起の法則
・無常:恒常的なものではない(条件により成立し、条件がなくなると消滅する)
・苦:不満足(欲望の充足を求める限り、常に不満足に終わる)に終わりがないこと
・無我:所有物でなく、自身でもなく、本体でもない
→支配下になくコントロールできない
*実体我
常一主宰:常住で、単一で、おもとしてコントロールする権能を有するもの
→常一主宰としての実体我を否定
全ての現象は無常であり、常一主宰としての「我」は存在しない
内面的なものも外面的なものも「我」ではない
*「自己」=個体性 ≒経験我?
縁起の法則に従い生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な和合により形成され、
感官からの情報が認知されることにより経験が成立する、
ある流動し続ける場
ただしその場には常一主宰としての実体我は存在しない
④煩悩をなくすための実践=気づき、Mindfulness
・一つ一つの行為に意識を行き渡らせること
・認知が起きたとき、内面に対象への貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と自覚する
【はじめに】
仏教の目的
目的を達成した結果
解脱涅槃とは何か
悟った後なぜ死ななかったのか
【前提と凡例】
1.パーリ経典を主材料
2.現代の実践者たちの意見や証言を重要視
【1 仏教の方向】
労働や生殖の否定
世の流れに逆らう=欲望の対象を喜び楽しむこと
【2 仏教の基本構造】
仏教の目的:転迷開梧
迷いを捨て、悟りを開く
癖によって盲目的に行為し続けることをやめる
→そのための実践=気づき、Mindfulness
→一つ一つの行為に意識を行き渡らせること
悟り=涅槃、無為、到彼岸、不死
→煩悩が全くない状態
=貪欲の壊滅:好ましい対象に執着する心
瞋恚の壊滅:好ましくない対象を嫌悪する心
愚痴の壊滅:根源的な無知、物事をありのまま(如実) に知見できないこと
→「三毒」。煩悩の根本的なもの
有漏:心に煩悩があり、心が汚れている状態
無漏:煩悩の汚れがない状態。漏尽智
縁起の法則
縁りて起こる=原因があって生起すること
1)原因によって生じる物事=「諸行」について、その原因を指摘
条件づけられた物事
=因果関係によって形成された事物
=現象の世界全て(凡夫が経験するものごと)=世間
→原因(条件)がなくなれば消滅する
・全ての現象の性質:三相
無常 常なる=恒常的なものではない
苦 不満足(欲望の充足を求める限り、常に不満足に終わる)に終わりがないこと
無我 所有物でなく、自身でもなく、本体でもない→支配下になくコントロールできない
・全ての現象の諸要素:五蘊(ごうん)
「蘊」:「たくわえ」「集まり」
「色」:物質的存在。形あるものの全て。
「受」:感覚、知覚などの感受作用、五感による感覚
「想」:「受」で受けたものを心の中でイメージすること。
「行」:イメージを意志に移行させること。
「識」:判断すること。
*欲求や衝動
ふと浮かんでくる→人間の傾向性に引きずられるだけ。発想はどこからか勝手にやってきて、勝手に去ってく
*根本的な原因=業、カルマ
無始以来の過去より積み重ねられてきたもの
後に結果をもたらすはたらき
行為は終わった後にも、のちに結果をもたらす潜在的な余力も残す
煩悩=惑と業のはたらきで、苦なる輪廻的な生存状態に陥る → 惑業苦
2)そうした原因によって生じるものごとの滅尽
=出世間
→四諦(四つの真理)
・苦諦:八苦→凡夫の生が総じて苦である
・集諦:苦の原因= 渇愛 →欲愛、有愛、無有愛
・滅諦:渇愛を限りなく徹底的に滅尽すること
・道諦:渇愛の滅尽のための方法
【3 善悪の考え方】
涅槃=無善無悪:善や悪といった物語から離れた境地
それ以外のことは社会との軋轢を生まない程度に適当に
【4 無我、輪廻転生】
①実体我
常一主宰:常住で、単一で、おもとしてコントロールする権能を有するもの
→常一主宰としての実体我を否定
全ての現象は無常であり、常一主宰としての「我」は存在しない
内面的なものも外面的なものも「我」ではない
②経験我
必ずしも否定されていない
曖昧にされている
「自己」=個体性
縁起の法則に従い生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な和合により形成され、
感官からの情報が認知されることにより経験が成立する、
ある流動し続ける場
ただしその場には常一主宰としての実体我は存在しない
③輪廻、転生
幼虫→蛹→蛾になるのと似ている
「同ともいえず、異ともいえず、ただ変化であるといい得るのみ」
縁起の作用の連続が、死後にはその作用の結果を引き継いで、新しい認知のまとまりを作る
=転生
・「何」が輪廻するのか
→行為の作用とその結果=業による現象の継起
行為の作用が結果を起こし、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすというプロセスがひたすら継続している
輪廻自体は今この瞬間にも起こり続けている
【5 ゴータマブッダの「世界」観】
世界:欲望を伴った衆生の認知により形成されるもの
世界の終わり:≠認知の消失 =戯論寂滅=分別の相の消滅=涅槃
→一つ一つの現象をありのままにみる、イメージを作らない
例:美しい顔=目に入ってくる色の組み合わせを素材として構成されたイメージに過ぎない
涅槃の境地では、世界があるかないか といった判断が成立しない
・気づきの実践
認知が起きたとき、内面に対象への貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と自覚する
【6 悟り涅槃とは何か】
【7 なぜ死ななかったのか】
慈悲
慈:衆生に楽を与えたいと願う心
悲:衆生の苦を抜きたいと願う心
喜:衆生の喜びをともに喜ぶ心
捨:心の動きをすべて平等に観察し、それに左右されない平静な心
世界が存在することそのものが奇跡
執着を離れ、存在することそのものを「楽しむ」
あらゆる行為全てが「遊び」(真剣ではある)であり、選択の裁量がある
【8】 -
仏教のそもそも原点になった教え、涅槃に到達し悟るということはなんなのか、その悟る道筋はどのようなものなのか、について文献や現代の実践者の言葉を元に書かれた本。筆者は学術書ではない、と書いているが、学術書のようなスタイルで論理的に書かれている。この難しく根源的な問題に取り組もうとする筆者の気合いが感じられた。言葉で説明出来ない事柄が多い事を認めつつ、言葉で説明できる範囲を説明し尽くそう、という意図を感じた。ブッダそもそものスタイルとして、悟りのために出世間を要求していて、労働と生殖を否定している。それは、現代人の自分にとって非常に大きなハードルであり、厳しく感じた。現実の自分の生活の中で、悟りを目指すのは難しいのか、それとも、現代流のやり方があるのか、はたまた、煩悩にドライブされる時期を過ぎ、仕事や子育てから解放された晩年に仕上げの時期が来るのか?などなど、考えた。
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一般的な社会生活を営みながらでも、悟りの流れに入ることは可能ですよ。(『あるがままに ーラマナ・マハルシの教えー』や『不滅の意識 ーラマナ・...一般的な社会生活を営みながらでも、悟りの流れに入ることは可能ですよ。(『あるがままに ーラマナ・マハルシの教えー』や『不滅の意識 ーラマナ・マハルシとの会話ー』などでそれを知的には理解できます)
最終解脱する為には、社会生活から距離を置いてまとまった時間が必要になると思いますが、その段階に至る頃には、この現象世界への執着も薄れているので何の問題もないはずです。
2018/11/13
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仏教の原点を著者なりに理解し解説している。だが実際に釈迦が説いた内容が本書に書かれたものに近いのかどうかは不明だ。どの宗教も開祖が説いた内容がそのまま後世に伝わることはなく、時代時代に合わせて変転し分派してゆく。これは仏教も同じ事で、どの時点の資料を元にしても本当の原点とは言い難いのではないだろうか。