「果て」と呼ばれる謎の現象により世界がゆっくりと終焉に向かっている世界の物語。
物語は老人「タキタ」、タキタが自分の子供時代を回想する視点「タッチン」、タキタからキャラクターデータの作成を依頼される「ノイ」、世界そのものの視点である「世界」といった様々な視点から語られる。
作者のあとがきにもあるように、「装置に接続された老人が子供時代をひたすら回想する」という、ディストピアSFのような設定だが、悲壮感のようなものは漂っていない。
世界がゆっくりとだが「果て」に飲み込まれているという状況なのに、他の登場人物も悲観的にはなっていない。
これは、「世界の終焉」があまりにもゆっくり進み、その間も人間の生活は続いていくなかでは、だんだんと危機感は薄れて「世界の終焉」すらも日常に溶け込んでしまっているからである。
老人タキタが改装している子供時代の事はどこまでが本人の記憶なのか、どこまでが現実なのか、といったことが曖昧になっていくが、タキタにとってはそれが現実だと思っている。
つまり、作中でミウが言う、「記憶の中にある〝本物らしさ〟の総体で作られているんだもの。あなたたちにとって、それは本物と等価なの」ということである。
この「自分が現実だと思った物がその人にとっての現実だ」というのは、この作品の大きなテーマなのかなと思った。
ファーストコンタクトものでもあり、ボーイミーツガールもの的な趣もある。
あとがきにあるように「タッチン」視点の物語は「ハロー・サマーグッドバイ」、終盤の展開は「幼年期の終わり」からの影響が感じられる。
全体的に世界は滅びることを受け入れており、滅びに抗うといった物語ではないが、最終的に世界は「果て」に飲み込まれてしまった後に、人類がどのような選択をするかについては、余地が残されている。
派手な展開は無いが、穏やかな終末ものが好きな人には刺さる作品かもしれない。
読んでいて思ったが、SFは海を舞台にした物が多い気がする。それは、海が「全ての生命の起源」であると同時に、「得体の知れないもの」でもあるからなのかな、と思う。