長考力 1000手先を読む技術 (幻冬舎新書) [Kindle]

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  • 佐藤康光九段が将棋に対する思いや棋士としてのあり方などを綴った本。

    佐藤康光九段の将棋観がよく伝わります。将棋ファンなら楽しめる一冊。

  • 「だが私の経験でいえば、定跡や通説、あるいは誰かの研究の成果を鵜呑みにして、自分の力で考えずにある局面を通り過ぎようとするときが、実は一番危ない。そういうときに相手に思わぬ手を指されると、油断した思考力では対応し切れないのだ。
     たとえば、「この手は先手が有利」という先入観があると、それを前提に思考を組み立てるので、決定的な手を見逃してしまったり、定跡の裏に潜んでいる有力な可能性に気づかないかもしれない。
     だから、私は盤面を正しく読むためには「公平に思考する」力が必要だと思う。
     公平さとは、知識や経験や研究の蓄積をいったんリセットして、余談のない眼で目の前の盤面を見つめることから生まれる。
     将棋に限らず何事も「セオリーを覚えた瞬間は少し弱くなる」ことがあると思う。
     それは、読む上で必要な公平さが暗記によって失われてしまうこと、思考よりも知識に偏重してしまうことを指した言葉なのだと思っている」

    「私はどちらかというと、子どもの頃から切り捨てるべき枝も深入りして読んで長考してしまうタイプだった。そしてプロになってからも、やはり目の前の勝負の本筋から離れた枝についても、つい考えてしまっていたような気がする。
     だがそれが無駄だったとはまったく思っていない。本筋以外を切り落としてばかりいれば、実戦の場で緊張感をもって読んだ経験がどんどん少なくなってくる。そうすれば、指さない戦型や選ばない変化ばかりが増えて、自分の将棋はマンネリ化するだろう。
     子どもが早指しなのは、まだ「考える材料」が少ないせいだともいえる。だが、将棋は強くなればなるほど選択肢が増える。だからプロになる頃には多くの棋士はどちらかといえば長考派になっていくし、序盤から長考するタイプの棋士でも、終盤で持ち時間がなくなってからも正確に早指しで指しこなすことができたりもする。
     長考すること、つまり「正しく迷える」ことは、強さのバロメーターでもあるのだ」

    「感覚を鋭敏にしすぎると失敗したときの反動は大きくなるが、鈍さや開き直りばかりでは機を逸する。こういった感覚の使い分けは実に難しい。
     勝負には勝ちか負けかしかないが、勝ちだけを目標にして対局に臨むことも、また鈍さを招く。自分のなかの理想の将棋という軸がなければ、棋理(論理的な最善)を突き詰める鋭敏さは失われる。目の前の勝負にこだわり「負けたくない」という将棋ばかり指していては、やがて一局一局のパフォーマンスをも低下させるだろう」

    「実際のルールを知らない人には、一局の棋譜はそれ以外の手順の可能性がない、一本の直線に映るかもしれない。
     しかし将棋はもっと複雑なものだ。序盤は戦型選択の幅が広く、無数の線がある。中盤では戦型選択の可能性は消滅するが、押したり引いたりで、可能性の線は曲線的になったり、円環になったりもする。曲線は終盤に差し掛かっても続き、だが、明確な詰みや寄せが生じた旬ン感から、一気にそこに可能性の枝が収束し、一本の直線となる」

    「中盤以降のねじり合いのなかでは、まったく自分が読んでいない手を相手に指されることもしばしばだ。
     そんなとき、こちらの第一感はおおまかに言えば「なるほど。こういう手もあるのか」と「なんだこれは。ひどい手じゃないか」に分かれる。
    「なるほど」のときは当然慎重に対応するので、その「読んでいない手」が悪手だった場合には、大きなチャンスになる。
     反対に「なんだこの手は」と思ったときが、かえって難しい。
     いわば直感的に相手をm下してしまっているわけで、読みが雑になりがちだからだ。とくに持ち時間が切迫している状況では落ち着いて考える余裕はないので、どうしてもミスを誘発されやすくなる。だから、「なんだこの手は」と思ってしまったときほど、なるべく自らの油断を戒めなければならない。
     指されて直感的に悪手だと思ってしまう手は、相手が「形勢が悪い」と思っていそうなときに出てくる場合が多い。自らにアドバンテージがすでにある状況であれば、素直に正しいと思える手を指していけば、リードを保ったまま勝てるはずだからだ。
     逆に不利な側は、素直に指しただけでは逆転できない。だから、驚くような手を出した側は、実は形勢を少し悲観していることが多い。
     こういう認識を実戦のなかでも保っていられれば、トリッキーな手に惑わされることはなくなる。ただ、ある程度勝負に「熱く」なっていなければ、直感が働かないので、熱さと冷静さの兼ね合いが難しい」

    「現代将棋は、立ち会いからどんな変化があるかわからない。少しでも隙があれば、けたぐりや八艘飛びを仕掛けられて、何もできないまま負かされてしまいかねない。だから、序盤からでも考える材料はいくらでもある。
     ただ、いくら考えても結論が出ないことがほとんどだ。ある程度は自分なりにメリハリをつけて、捨てるべき可能性の枝を捨てることも大事だ。時間を区切って、1時間なら1時間で考えたほうが「濃い」考えは生まれてくると思う。
     しかし新しいアイデアや発想が必要なときは、時間に制限をつけても良いものは生み出せない。どのタイミングでアイデアが湧いて出てくるかなど、誰にもわからないからだ。リミットのなかで育つ思考と、制限のない状態で自由に育つ思考の2種類が必要なのだと思う」

    「私自身はアマチュアから奨励会に入り、棋界のトップに登り詰めるまではずっと序盤からの長考派だった。かなり無駄なことを考えていたんだな、と思う。
     しかし、実戦というほかに代えがたい状況で見えた手をその場でできる限り追求することは、10年、20年を経ても衰えることのない地力をつけるために必要なことだ。
     その無駄が、現在の私の思考に柔軟さを与え、気が付きにくい発見をもたらしてくれているのだと信じている」

    「具体的なトレーニングでもって大局観を鍛えるのはなかなか難しい。あいまいな言い方だが、「良い将棋を体験する」ことがもっとも大事だと思う。
    「敗局が最大の師」といった教えは将棋界にもあり、私もたしかに負けた将棋からも学んではいる。しかし、私は勝ち将棋のイメージ、好手を指したイメージを残してほいたほうがよいと思う。
     もちろん、同じ局面は二度と現れないので、そのまま使えるわけではない。ただ、未知の局面からどうやって勝ちを導き出したのか、その感覚は身体に染み込ませておいたほうがいい。
     自分の将棋だけでなく、良い内容の棋譜をたくさん並べたり、名局の現場に駆けつけて時間を共有すること。「なるほど、こういう手があったのか」と感動すること。大局観は「悪い見本」からは鍛えられない。それは、大局観がイメージであることの証明なのかもしれない」

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著者プロフィール

佐藤康光(さとう・やすみつ)

1969年10月1日生まれ。京都府八幡市出身。
1981年、小学生将棋名人戦3位。
1982年12月、6級で田中魁秀九段門。
1984年、関東奨励会に移籍。
1987年3月25日、四段。
1990年6月16日、第9回早指し新鋭戦で棋戦初優勝。
 同年7月12日、第31期王位戦でタイトル初挑戦。
1993年12月10日、第6期竜王戦で初タイトル獲得。
1998年6月18日、九段。
2006年7月5日、第77期棋聖戦で5連覇を果たし、永世棋聖資格を獲得。
2011年4月、日本将棋連盟棋士会会長
2017年2月、日本将棋連盟会長。
 同年4月、紫綬褒章を受章。
 同年7月28日、通算1000勝で特別将棋栄誉賞。

タイトル戦出場37回。獲得は竜王1、名人2、棋王2、王将2、棋聖6の合計13期。棋戦優勝12回。
将棋大賞は最優秀棋士賞1回、升田幸三賞2回、名局賞2回など多数。

「2022年 『佐藤康光 剛腕の一手』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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