野火 [DVD]

監督 : 塚本晋也 
出演 : 塚本晋也  リリー・フランキー  中村達也  森優作 
  • 松竹
3.63
  • (23)
  • (22)
  • (29)
  • (10)
  • (2)
本棚登録 : 187
感想 : 33
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988105071476

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 観終わった時の感想を一言で言うと「もう、かんべんしてくれ」だった。
    「やっと解放された。しばらくは観れない。」と思った。

    でも、1日経つと、
    いつの間にか、この映画のことを考えている。
    じわじわと脳を刺激されるような感覚。
    色々なイメージが湧いてくる。
    引きずる映画。
    やはり凄い映画なのではないか。

    私がこの映画を見て思いだしたのは、
    ゴヤの「黒い絵」シリーズだ。

    ゴヤは晩年、誰にも発表しない前提で、自分の住む家の壁に、非常に暗いテーマの絵を描き続けた。

    それはエクセレントな画家が書いたと思えないくらい素朴で、おどろおどろしく、作者の情念が煮詰められているような絵。

    宮廷画家として成功した、後世に残る偉大な画家のゴヤ。なぜ、芸術の頂点に上り詰めた画家があんな、ベタな暗い絵を描くのか。

    観客を意識せずに自由にかけるはずの絵として、あえて救いようのない絵を、自分の為だけに描く。
    観客へのサービスがごっそり抜けおちている。
    だからこそ、ゴヤが不条理な世界と対峙する気持ちが、鈍いうめき声として、鬼気迫るスゴみとなっているのだと思う。

    一言で印象をいうと、それらの絵は「美しくない」
    もっと言うと「汚らしい」。
    だけど、どういしようもない真実が持つ凄みが底で黒光りしている。

    芸術はドス黒いものであっても美しくあってほしい。
    そこに「救い」だったり「エクスタシー」だったり、を感じ昇華したいと、受け手は願っている。

    だが、ゴヤの「黒い絵」や、「野火」は、そこから大きく逸脱しているのだ。

    だからこそ、観る側は、ただただ不快で嫌という反応だったり、反戦をオチに結び付けて、論理的に理解しようとしたりするのではないだろうか。
    でも、この映画の鑑賞をそこで終わってしまうともったいない気がする。

    ・・・・・・

    観た直後に感じたものは「作り手の怒り」だった。
    とにかく重く、厳しく、長く観ていられない。
    息がつまり、観客としても休ませてほしいような場面が続く。

    それが、作者の怒りをぶつけられ続けているように感じるのだ。

    これでもか、これでもかと暴力が襲い掛かってくる。
    グロい描写は、過剰に見える。
    まるで、ホラーかギャグの世界。

    平和な側にいる観客としては、それは絵空事のフィクションにしか見えない。
    でも、リアルってのはそういうものかもしれない。
    リアルなものをリアルなまま表現すると、ギャグにしか見えない。

    映画は当然だが演出されている。
    それは、センチメンタルだったり、ヒロイズムだったり。観客が受け取りやすくなるような工夫。

    でも、この映画で目立つ演出はショッキングなスプラッタ表現。だから、戦争を露悪的に表現したいだけの単純なものとして受け取られやすのではないかと思う。

    しかし、その後、何かわからない違和感が残り、常に気になる。

    表層的な怒りだけではない、何か。
    静かな哀しみか、あるいは、クールな、冷めすぎた、人間へのまなざしか。

    同情とか愛情とか、どこかに蒸発してしまっているはずの人間たちは、一方で、お互いを疑いながら群れている。

    この作品には、そんな人間の一言で表せないような複雑な存在感が表現されている。

    その繊細な多重的なはずの人間が、こってりしたスプラッタ表現で、簡単にバラバラになり、地面に塗りたくられる。

    ・・・・・・

    出演者達のキャラ立ちの素晴らしさ。
    主演の監督自身。声が小さく聞こえずらい。
    そこが素晴らしい。声が小さい。
    これがこの映画の、異国での異常な世界の人間の存在感だ。

    皆、極限状態で、いわるゆる「人間らしさ」なんてかけらもない登場人物達。
    矮小な、ずるい人間。
    カンフー映画だったら、最後に倒されて、観客の溜飲をさげるはずのような、醜い人間たちだらけ。
    でも、そっちが本当の人間なんだ。
    そういう状態にしてしまうのが戦争なんだ。
    ということなのだろう。

    伍長は中村達也。
    ブランキージェットシティーのドラマーが。
    こんな役者になるなんて。
    イカ天のころから、ずっとリアルタイムで見てきて、大人になってからも凄いライブを観て。
    存在自体がロックそのものと思っていたバンド。
    純度100のロックンローラーが、とんでもない存在感で、演技をしていて、びっくりした。
    バンドが解散するって、こういう価値も生み出すんだなと。(でも、やっぱりベンジーは俳優にはならないと思う。)

    ・・・・・・

    何十年も前の学生時代に読んだ原作を、もう一度読みたいと思わせる。
    その気持ちにさせるだけで、この作品は価値があると思う。

  • ちょうど1年ほど前、高橋弘希「指の骨」再読(初読は新潮新人賞発表号)および「100分de名著」に触発されて、大岡昇平「野火」を再読(初読はたぶん中学か高校か)した。
    そして塚本晋也が映画化したのだから面白くないわけがないと大期待しながら、期待ゆえ先延ばしにし、ついに鑑賞。
    凄まじい作品だった。

    眼がひりつくような緑。空の青。闇の黒と、青。ブラックライトで発光するような。飛ぶように流れる雲の白。火の赤。血の赤。岩に吐血した血は蒸発する。
    デジタルの色味は、アナログのような抒情を作らない。ただあるだけ。
    自然なのに不自然とも思えるような色彩。

    おおまかな粗筋は原作通りと言って差し支えない。
    しかし原作の語り手田村が理屈っぽく、徹底した観察が即座に思想に結びつくのに対し、原作ではモノローグは極力抑えられ、思考は観客に委ねられる。
    単純な戦争忌避を感じてもよし、脱線させていろいろ考えてもよし。
    いずれにせよ役者塚本晋也の眼。
    黒ずんだ顔の中心にずっと見開かれて、見ている。何かを。
    徹底した観察の主体がそこにいる、ということは原作を踏襲している。

    では何を見ているのか。
    原作においては、青春期の性への葛藤を経た、異端的なキリスト教解釈が理屈の中心にあるが、
    この映画においては言葉は抑えられ、代わりにインナートリップともアヴァンギャルドとも(卑近に言えばLSDっぽい……イージー・ライダー、2001年……とも)いえる映像を、見ている。
    田村も、観客も。
    もはやリアルな映画だとかリアリティだとかいうちっぽけな視点は、ない。

    もともと塚本晋也は肉体の変容→意識の変容を描き続けてきた。
    本作においてもまったく同じ。
    道なき道を際立たせるかのように打ち捨てられた死体の群れが、事後的に道を作る。無間地獄という言葉を映像化したらこう。見えない敵から強烈なサーチライトを当てられバスバス撃たれバラバラになりゴロゴロ死んでいく仲間、蛆が湧き死体かと思いきやこちらの呟きに応答する人体、腐肉……やがて飢餓と人肉食への誘惑は、肉体の内側から自分の意識を変容させていく……。

    ちなみにリリー・フランキー、中村達也(BJC!)、森優作の怪演もさることながら、数分とはいえ中村優子という女優も憶えておきたい。

    小説では「ライ麦畑でつかまえて」「河童」「人間失格」式に精神病院でセラピーの一環としてこの手記を書いている、という構成だったが、映画では帰還した自宅でこの小説を書いている、と改変されている。
    この改変が憎いほどに巧く効いている。
    執筆中の男に、妻が夜食を盆に乗せて傍に置き、一旦去る。
    しかし少しして戻ると、男は飯を前に「何かの儀式をしている」(人を殺す動作?)。
    その異様さを痛々しく妻は見る。言葉はかけられない。この顔は、観客の顔でもある。
    そして男は硝子窓に移る自分を見る。野火が重なる。まだ野火が残っているのだ。

    塚本晋也の集大成にして大傑作。
    もちろん同意できない意見も、わからないではない。
    リアルを重視するかどうか、が異なれば、感想もおのずと異なる。
    ネットの感想を漁ると、月並みに戦争忌避を感じた感想と、リアリティがないという感想に二分されている。
    戦争反対を幼児的に感じればそれで十分という作品ではない、だから、なるほどと思う感想はむしろ否定意見ばかりだ。
    とはいえそれとは別のところに、原作と映画の意義を見出していきたいと思う。

    (小説ではずっと「見られている」という感覚が続いていた。
    これは「書いている私が見ている」タイムスリップ?的文芸技巧、なのではないかと個人的に解釈しているが、そこはもちろん映画では言及されず。
    もちろん自我と超自我、被造物と神、という理屈は省かれているゆえに。)

  •  あの野火を大胆にリメイク。
     東南アジアの戦線で病気になった兵隊は自隊と病院を行ったり来たりしているうちに部隊の飢えはどんどん過酷になり。。。

     淡々としたオリジナルに対して、ドキュメンタリーっぽい映像などでリアルに戦争の地獄を描く。その描き方はホラー映画的だが、それが戦争にピッタリだ。改めて戦争というのは地獄絵図なのだと実感できる。

     思い切ったリメイクだが正解。

  • 瞼の裏に焼きつくような色彩の、
    広大なフィリピンの自然の中で繰り広げられる、
    限りなく狭い関係性と個人的内界とで展開する、
    普遍的な生への執着と、
    戦争の異常さがもたらす、
    狂気。

    塚本監督の、
    以前からある幻想的というか、
    時間軸も視野も、
    全てが遠近感と境界を失う映像表現の、
    ある一つの極みを見る。
    そうして、それを体現する演技。

    映画とは視覚が中心なのに、
    ひどく暑く、熱く、厚く、
    痛くて、臭い。
    ぷんぷんと臭くてたまらなくて、
    冷たい空虚まで体感してしまい、
    絶望する。

    ひどいことが続くと、
    精神的な拒否が生じ、
    最終的にたどり着いてしまう結末を、
    だからこそ見届けられてしまうことに、
    客観を放棄させられる。



    ホラー映画ですかこれは。



    追記:2018年8月11日。映画館でも鑑賞。

  • みんな今にも死にそうなほどボロボロで為すすべないドン底なのに、映像が実に鮮明で…そのギャップが恐ろしい。
    極限下における人間が次第に壊れていく様…観ているのがツライ。
    ひもじさと絶望に対比される圧倒的な自然の美しさが人のちっぽけさを描き出しているように思える。
    やはり食う事は命を繋ぐんだな、食う事で血が巡り活力が湧く。間近まで迫っていた死をくぐり抜けた。死神は去ったけどいまだ地獄の只中を彷徨う。生ける屍の行軍か…戦うとは一体なんなんだろうな、戦争とは、生きるとは…様々な疑問がいとま無く湧き上がって来る。

    累々と屍の転がる道なき道。真っ暗闇の無間地獄を這うように進む…もはや死者でしか無い一群を
    さらに射掛ける容赦なさ…余りにも酷く、無慈悲

    互いの正義に従って、互いを憎しみあい、許し合うことなぞ如何にしても出来ようか。

    明らかに死んだ方が楽なのに、
    死に切れない…悲しい現実

    戦争なんてホント嫌だな。
    殺し合いなんてホント嫌だ。
    生きるって苦しいな。
    食うのも寝るのも苦しいな…
    水平線も流れ飛ぶ雲も山の緑も
    自然なのに不自然にしか見えないのは
    なんだ…

    人が人でいられなかった時代
    人が人間と言う名の動物であった
    人ならざるモノたち
    人が味わってはならないモノを
    感じた狂った喰った…もはや人にあらず…

    塚本監督作品大好きでいろいろ観たけど
    こいつは別格です…今は二度と観たく無い気持ち

  • 入り込めなかった。野火はこのように映像で描いてはいけないとすら感じた。なぜか。
    ・塚本監督は田村を演じるべきではなかった。ほおのかたち、血色、どうしても狂気じみた飢えは感じられない。次第に汚いメイクになっていくもリアリティを感じられない。中村達也のほうがよかった。
    ・リリーさんの狂気は戦場の狂気とマッチしない。飢えてない人が語っている狂気のような。あのような狂気ではない。
    ・戦闘シーン、凄まじいが、別世界、異世界の話のように思えてくる。リアルにグロく見せる=戦争の恐ろしさを伝えることにはならない。”プライベートライアン”の冒頭でも感じたこと。
    デジタル撮影による違和感なのか。旧作との違いが気になるのか。そういった要素も考えられる。

  • 2016/6/26鑑賞。

    ごめんなさい、私にはどうしてもこの作品の良さがわからなかった…
    残虐なシーンも全て映像のちゃっちさが際立ってイマイチ入り込めず。
    台詞回しも演劇チック、カメラワークも少し古め。
    ただ、ひしひしと絶望感は伝わってきました。
    でも、ほぼ自費制作なんですね。
    それは、すごい。

  • 「鉄男」を撮った塚本晋也が、過去の戦争小説に恰好の主題を見出したということに、見終わってすごく複雑な気持ちになった。大岡昇平の『野火』は、塚本晋也のこれまでの作品を覆い尽くしている。塚本の演出方法は、『野火』を撮るためにあり、しかも野火を撮り尽くすまでには至っていない。

  • 2014年に自主制作として作られた映画だそうですが、リリーフランキーが出ていてちょっとびっくりでした。

    全体的に、戦争を知らない世代の人間が、同じく戦争を知らない世代の人間に向けて作った映画だと思いました。たとえば米軍の砲撃によって人の顔や腕や内臓がちぎれて吹っ飛んでいくようなグロテスクなシーンが、これでもかとスローモーションで映される。【ひろしま】を観たあとだからなおさらそう思うのかもしれないけれど、実際にそれを経験した人なら、こういう場面をスローモーションで撮らない気がする。戦場を一生懸命想像して、その悲惨さをどうにか理解しようとした人が、同じ立場の人にその自分が想像した悲惨さを伝えようとして取った手法という感じ。もし自分自身が生存者だったり、あるいは自分のよく知っている誰かがそこにいて同じ経験をしたりしていたとしたら、凄惨な場面をスローモーションでは撮らないと思う。
    原作を読んで内容はすでに知っていたので、そういうグロテスクさばかりが印象に残ってしまいました。

  • 別途

全33件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1960年東京生まれ。29歳の時に『鉄男』で鮮烈な劇場映画デビューを果たす。製作・脚本・撮影・照明・美術・編集さらに出演と、すべてに関与して作り上げる作品群は国内外で高く評価されている。『KOTOKO』(2012)はベネチア国際映画祭オリゾンティ部門グランプリを受賞。近年ではマーチン・スコセッシ監督の最新作『沈黙Silence』に出演するなど、俳優としてもその才能を高く評価されている。

「2015年 『塚本晋也×野火』 で使われていた紹介文から引用しています。」

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×