顔のないヒトラーたち DVD

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監督 : ジュリオ・リッチャレッリ 
出演 : アレクサンダー・フェーリング  フリーデリーケ・ベヒト  アンドレ・シマンスキ  ヨハン・フォン・ビューロー  ヨハネス・クリシュ 
  • TCエンタテインメント (2016年5月11日発売)
  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4562474172097

顔のないヒトラーたち DVDの感想・レビュー・書評

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  •  2014年、ドイツ映画。ジュリオ・リッチャレッリ監督、アレクサンダー・フェーリング主演。原題を直訳すると『嘘の迷宮』。
     1963年にドイツで開かれた「アウシュヴィッツ裁判」の実話をモチーフにした映画。フランクフルトの検察庁に勤める1930年生まれの若き検事が、過去の加害の記憶と出会い、揺さぶられ、自らもその責任に対する連累性を突きつけられながらも、裁判を通して「正義」を実現しようと苦闘する様子を描く。
     
     日本の戦後処理、戦争責任/植民地責任の曖昧化に比してドイツのそれがしばしば賞讃されるが、ことがらはそう簡単ではないことを伝えてくれる映画。ドイツの現代史にとって、1963年の裁判とアイヒマン裁判とがいかに重要だったかを改めて教えられたし、言い換えればそれは、自国において過去の自国民による戦争裁判を裁かなかった/裁こうとさえしなかった日本国家/国民の問題にもはね返る。
     主人公の若き検事を支えたバウアー検事総長は、この裁判では「罪」を問い始めると迷宮に入る、と諭す。ドイツ人自身の加害責任を問うのは、加害者としてのドイツ国民すべてを罰するためではない。「正義」とは、あくまで被害者とその記憶のためなのだ。あの時代は誰もが党員で、生き抜くためには仕方が無かった、命令に従っただけだった、と人々は口にする。しかし、「仕方がない」と恥を内攻させ、互いが曖昧に赦しあったような気分になれるのは、そこに「被害者」が不在であるからだ。あるいは、「被害者」が今もそこにいることを認めようとしないからだ。戦後日本のアジアへの眼差しを考えるうえでも、さまざまな示唆を与えてくれる作品だった。

  • レンタル>2014年独。ナチ大物はニュルンベルク裁判でおおよそ(?と言っていいものだろうか?)裁かれたものの…密かに残っていた小者を裁くといったお話。
    描かれてたこの当時の時代が戦後そんなに経過してないだろうから、自国民が自国の人間を裁くという事に抵抗はなかったのだろうか?勿論、戦時とはいえ、アウシュビッツでの大量虐殺は許されるものではないのは確かなのだが。。この出来事を記録の中から封印、黙認する事が罪である事は確かだ。そういった風潮はあったのだろうな。
    皆、ではないにしても、独人であれば当然、親や身内が元ナチ党員であったという事はあったであろう。なかなか難しい。
    それを任された若き検事の勇気と行動が素晴らしかった。実話ベースっぽい。
    日本での戦争責任を追及する裁判は戦勝国側からの物が殆どだけど、こういった事案があったのだろうか?独と同じ敗戦国である日本でも見る価値のある映画だと思う。
    ちょっと独自の視点ではあるけれど、戦争責任の追及を描いた「ゆきゆきて神軍」を思い出した。

  •  60年代にホロコーストでの戦争犯罪を基礎する検察官達の実話を描く。

     主人公が若いのは当時の大人は全て戦争犯罪に加担している可能性があったからなど、戦争犯罪を裁くのがいかに難しかったかが描かれている。戦争による罪は名の知れた政治家や軍人だけではない。それを裁こうとするのは自分の親を裁くことになるかもしれない。
     ドイツも最初っからスパスパ戦争犯罪を裁いてたわけではなかった。特に日本で大きな価値がある映画。

  • 【メモ】
    ■(疑心暗鬼に陥り憔悴したヨハンが、ユダヤ人で収容所にいた検事総長バウアーに対して質問するシーン)
    ヨハン「なぜ僕を捜査の担当に?」
    バウアー「1930年生まれだから。潔白だ」
    「違う。……世間知らずだからだ。父もナチでした」
    「法律家ですらほぼ皆が党員だった」
    「皆と同じ犯罪者でした」
    「有罪か無罪かだけでこの問題を捉えるなら、何も得られないぞ」
    ※個人の断罪ではなく、社会の問題として歴史の罪を浮き彫りにする。収容所にいたバウアーが、ヨハンよりも冷静な事実が、この映画のテーマを強く訴えかけてくる。

    ■記者グルニカと共にアウシュヴィッツを前にして。
    ヨハン「(17歳の時党員で収容所にいたことを)なぜ黙ってた」
    グルニカ「恥じてたのさ。俺はあの中でただ傍観してたんだ。何も言わずにな……裁判は?なぜ投げ出すんだ」
    「……大義を見失った。他人を裁く自信なんてもうないんだよ。僕が兵士だったら……同じことをしたかも」
    「的外れだぞ、ヨハン。(収容所を指して)何が見える?」
    「アウシュヴィッツ」
    「違う。牧草地だ。木々や、収容施設に柵も。“アウシュヴィッツ”はこの地に眠る記憶。裁判をしなければ忘れ去られる」
    「どんな罰が適切か分からない」
    「罰でなく、被害者とその記憶に目を向けろ」

    ナチス映画のほとんどが描くテーマである被害者と絶対悪という対立ではなかったのが印象的。
    元は戦争のことを何一つとして知らず平和な西ドイツで暮らす若者であったのに、凄惨な被害の事実を知る内に、徐々に私怨にも似た感情に囚われていく主人公ヨハン。
    自分が無関係である事柄に対して、当事者以上の怒りや執着を示し、正義の化身であるかのような振る舞いが多くなっていく……まるで私たちが犯罪報道に接した時の感情そのもの。第三者が正義と悪の結果を知った上で起こる、「まるで自分が正義であるかのような錯覚」の怖さ、危うさが描かれている。
    もし自分がその犯罪の場にいたら、もしその社会に生まれていたら、ヨハンの言う通り「同じことをしたかも」しれない。それを考えることなく、全てを悪として捉えてしまっては、物事の本質を見失う。
    弁護士事務所で、ナチ党員の弁護をしていた弁護士に言われ、ヨハンが【自分は社会や状況に恵まれていただけで、絶対的な正義ではないのだ】、と気づくシーンは、映画のもう一つのテーマを指し示している。
    弁護士「いいか、生まれつきの英雄はいないんだ」

    私たちも顔のないヒトラーになるかもしれない。だからこそ、歴史の罪と向き合う必要があるのだ、という教訓に、今のドイツに対して今の日本は……考えざるを得ない。

  • 当時、誰もがナチスに荷担していたと言いつつ、それを逆に盾に罪を忘れようとしているドイツ国民が多い中、戦争を知らない世代だからこそ追及できる真実と罪を求める主人公たちの姿に感動。

  • 2016.11.1 鑑賞

  • 300-16

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