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感想・レビュー・書評
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あとがきを何度も何度も読む。
浅野屋甚内の遺言、息子穀田屋十三郎の活動、ご子孫高平和典さんの姿勢に感動。
まさに史伝文学。背景の説明・推測から、今と地続きの感覚をつかめる。良くも悪くも「当たり前」は長く続くんだな。これからはどうなるだろう。
別のインタビューでこれからは「"楽しく"おおやけに参加する」というようなことをおっしゃっていて、つながった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
磯田道史ファン
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本当に読んでよかった本
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穀田屋十三郎 、中根東里、大田垣蓮月の三人の市井の人(?)の史伝である。森鴎外著作の史伝(?)も併せて読んでいたので興味深かった。特に仙台藩の江戸時代の様子が二つの視点から読むことができた。中根東里については、このような生き方もあるかと自分の日頃を考えると反省すべきところが多くある。大田垣蓮月は、以前上村松園の「大田垣蓮月尼のこと」を読んだので別の視点があることもわかり面白かった。
○いわゆる町場の「 草臥れ」である。
○領内で参勤交代 をやっている。
○この心は種である。果てしない未来を拓く種である。
○江戸時代は、徒党 というものが、蛇のごとく嫌われた。
○大肝煎とは、他藩でいう大庄屋のことで、百姓のなかから選ばれる村役人としては最高の役職であった。
○徳川時代の武士政権のおかしさは、民政をほとんど領民に任せてしまっていたことである。その意味で、徳川時代は奇妙な「自治」の時代であったといっていい。
○養家督は、跡取り養子であり、営業上、店の身代を受け継ぐために、この穀田屋にきたにすぎない。
○学があるというのは、漢文で読書ができ、自分の考えを文章にまとめることができる、というほどの意味だが、これができる人口は、意外なほど少なかった。
○その根っこの土地土地に「わきまえた人々」がいなければ成り立たない。
○江戸時代の奇妙さは、国家の大権であるはずの通貨発行の実務を、国家みずからが行わず、ちまたの商人にゆだねたことである。
○「なにをするにも、天の与え、ということがある。天の与えをとらねば、かえって、わざわいをうける、というではないか。」
○熊野牛王符とは、起請文の用紙である。中世以来、この国では、神かけてものを誓うときには、この紙に約束ごとを書くことになっている。熊野牛王符に書いた誓いをやぶれば、どこかで鴉が一羽死に、熊野権現の怒りによって、誓いを立てた者は、血を吐いて死ぬ。
○屋敷にいってみると、小さな門を構えており、侍の格式を示していた。話すときにも作法がある。武士である大友は、敷居をへだて、むこうの上座にすわる。十三郎たちは下座にかしこまった。
○江戸人は庶民にいたるまで、体面 というものの占める割合が著しく高かった。身分というものがあり、人がその身分に応じた行動をとる約束事で成り立っていた社会である。
○室町時代までは、家の墓域を持つことはおろか、墓に個人の名を刻むことさえ珍しかったが、江戸時代になると、「誰が墓を守るのか」が問題になり、「墓を守る子孫」の護持が絶対の目的となった。
○百姓にとって、なにより恐ろしいのは、無高の水呑に落ちることである。身売りとなることである。ご公儀の田畠を名請けして御年貢を納めておればこそ人間とみなされる。田畠、屋敷を失って水呑となれば、身を売って他人の奉公人となって借財を返しながら喰うていくしかない。
○侍社会は個人ではなく、かならず、複数の人間で物事をきめ処理した。小さく、うすい権限をもった人間が、そこら中にいて、誰がきめているのか、よくわからない。
○財政担当の出入司だけが独断で藩士に褒美を与えることができた。ただし、その額は三両まで、と決まっている。
○(富となるか、貧となるかは、ただ、一つのことで決まる) と、萱場は思っている。 (利足をとる側にまわるか、取られる側にまわるかだ)
○徳取勝手
○古来、心ある者には才知がなく、才知ある者には心がない、といわれる。心あって才知なき橋本は、才知あって心なき萱場に見事にしてやられたといってよい。
○「詩文において中根にかなうものはおらぬ」
○不世出のこの詩人は、みずから作るところの文章をとって、ことごとく 竈 のなかの火に投じてしまっていた。
○日本で唐音を学べるところは二ヶ所しかない。ひとつは唐人屋敷のある長崎、もうひとつは、宇治の 黄檗山 萬 福 寺 である。
○僧籍にあって書物を読むなら、ゆるい宗派がよい。いうなれば、浄土宗 である。
○「孟子」の浩然の気の章「あえて問う。何をか浩然の気と 謂う。いわく、言い難し。その気たるや、至大至剛。直をもって養いて害することなければ、天地の間に 塞がる……」
○「昔、 婆子あり、一庵主を供養し二十年を経たり、常に一人の二八女子をして飯を送って給侍せしむ。一日女子をして主を抱かしめて曰く、正に恁麼の時如何 と。主曰く枯木寒巌に倚る三冬暖気無し。女子婆に挙似す。婆曰く我れ二十年祗箇の俗漢に供養せしかと。 遂に遣出して庵を焼却す。これ如何」老婆がいて、ある修行僧に庵を結んでやり二十年間世話をした。いつも若い娘に給仕させていたが、ある日、修行僧にその娘を抱かせようとした。娘に抱きつかれ「ねえ、こんなのはどう」と誘われた修行僧は「わたしは岩の上の枯れ木のようで暖かみはない」といい、娘をはねつけた。それを聞いた老婆は「わしは二十年もこんな俗物僧を養っていたのか」といい、ついに追い出して、庵も焼いてしまった。
○細井広沢「ああ、これか。交友帖じゃ。書は心を画くという。不潔の友とまじわれば、心が汚れて、美しい書はかけぬ。」
○細井の思惟のひろがりは広大であり、これに比べれば、荻生徂徠など遥かに小さいかもしれなかった。
○「わしは技を暮らしのたづきにせぬときめた。『技をもって道とし、道をもって技となす』。その生き方に徹したいと思うておる」
○加賀百万石は、その富力でもって、国内外の珍書典籍を買いあさり、彼一流の目利きでもって、人もあつめた。
○「強項にして屈せず、縝黙 にして競わず、能く磨涅の中に処して、更に淄磷の損なし 文辞に拘泥して、詩を失ってはならん。詩は辞に 拘われば、理屈に落ちて品なし、情に発すれば、意志を含みて品あり。このことを覚えておいてもらいたい。情に発した詩は天の意志に通じ、万人の心をうつ。人として生きて、詩をのこすほど崇高で美しいことはない」
○江戸期に入ってもその名残りがあり、信心深いものは門前で履物を買いかえる。そのため、社寺の門前では履物が売れた。
○「この指の案内によって、まなざしを転じなければ、このむさ苦しい長屋の中しか、われわれは見ることがない。そこが自分の天地だと思ってしまう。しかし、指の先をたどれば、そこには広い空があり、美しい月がある。聖人君子のことばは、われわれを美しい月に案内してくれる指のようなものだ。わたしたちはただ、ひたすらに月をみればよい」 「無益の文字を追いかけ、読み難きをよみ、解し難きを解せんとして、精神を費やし、あたら光陰を失ってはいけない。わたしも、あやうく、指をもって月とするところであった。四書五経は指にすぎない。大切なのはその彼方にある月だ」 ──月を見るものは、指を忘れて可なり
○「人は天地の心である、ということを考えてください。天地万物と自分は、もともと渾然一体のものです。どこかの、生きとし生ける民に苦痛があるとするなら、その痛みはすべて自分が痛んでいるということなのです。自分のような人間も、動物も、草木も、天地から生まれて、やがては死んで、天地に消えていきます。もともと同じものなのです。この境地に立って考えれば、もともと、この世に他人事というものは存在しない」
○人をきちんと育てたり、戦いをとめたり、乱暴を禁じたり、 虐めをなくしたりするのは、ほんとうはちっとも他人ごとではなくて、自分のやまいを治しているようなものですよ」
先生、人に教うるに実を先にし、名を後にす。近き譬を能くし、人をして暁り、易からしむ。
○関ヶ原合戦時に甲賀者を束ね家康を勝利に導いた山岡道阿弥の墓も、知恩院の山内にある。
○ただ今、思える事を、自分の言える詞でもって「ことわり」の聞こえるように言い出す。これを歌という。
○歌とは、素直なる心にかえる道である」
○「いくらでも好きなことをやるがよい。会いたい人には会っておけ。見たいものは、どこまでも行って見よ」
○「命は大事にせねばいけませぬぞ。長生きをして、世のため、人のためになるべきことを、なるべきようにして、心静かに気長に暮らさねばなりません」
○「喜捨に頼らず、自分で食べる分は、自分でつくりだす」
○「老尼は泥をひねりて土器は売れど、風雅は売らぬ」
○「あの人は清濁あわせ呑むところがあって、人物が大きかった」などという人がいる。それは、はっきりまちがっている。 -
平成の司馬遼太郎とささやかれる著者であるが、まさに日本の歴史に光をあてる作品であった。この作品は一応随筆という事になるのだろうか、司馬遼太郎なら「この国のかたち」の中に納められそうな作品であるが、思わず涙ぐんでしまいそうになる物語性もある。江戸期に育まれた日本人の精神性は奇跡とも言ってよく、世界の規範となっても良いとも思われるが、しかしこのこだわり方はオタクの世界のようだ、日本人の強さはオタクにあるのかしら?
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なかなか面白い。
江戸中期以降の3人の人物の史実。
これ程までに、自らを滅し、無私に生きた人がいた事に感心する。