池上彰の世界の見方 中国・香港・台湾 [Kindle]

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    テーマは中国とその関係国の近代史、である。このシリーズは初めてだが、エリアを絞っている分内容は濃く、頭にもすっと入ってくる。

    特に、今まで知識が曖昧だった「天安門事件」「文化大革命」「中印戦争」などは、改めて正確なところを押さえる
    上で非常に有用だった。

    日々のニュースの背景を理解するための教養として、また、
    中国という国と付き合うのに必要な知識をインプットする上で最適な一冊。

    今後、このシリーズの他のエリアのものも読んでみたいと思う。

  • スッと入ってきて読みやすい。中国人のマナー違反は昔日本も通ってきた道。人の事言えないなあ。

  • 2016年の本で少し古いので、2016年の中国等の見方を知ってもなあ、読む価値ある?と思ったのですが、2016年の最新の情勢だけでなく、そこにいたる歴史が丁寧にかかれている本でしたので、十分読む価値ありました。

    台湾と香港のマカオの違い。中国共産党が権力を握るまで。
    どこの国に植民地にされたかで戦後のたどる道がわかれていく。
    蒋介石、文化大革命、天安門事件、なんとなく知っていたけど、ぼんやりとしていたものがわかりやすく繋がりました。こんな歴史を辿ったから2020年現在の中国があるのか、と勉強になりました。

  • ふと中国周りのことを知りたくなり、ダウンロード。

    様々な考え方があるなぁと改めて実感するとともに、自分には全く受け入れられない考え方だな。。。

    ===================
    戦争に敗れた清は、日本に対して大量の銀を支払いました。その銀を元手につくられたのが、日本銀行。今の日銀の基礎は日清戦争の勝利によってつくられたのです。

    中華民国を中国の代表として扱っている国では、バチカン市国があります。ヨーロッパでただひとつ、現在も中華人民共和国を国家として認めていません。

    共産党が中国国民にとっていかに素晴らしい役割を果たしたかを浸透させるためには、日本が中国に対してどれほど残虐なことをしたかを強調すればいいわけです。

    途上国から先進国の仲間入りをしようという過渡期の国を「中進国」と呼びます。中国はちょうど今、中進国だといえます。そして

    日本の企業は、なるべくみんな平等に一緒にやっていきましょう。仕事ができる人もあまりできない人も給料には差はつけません。しかし、長い目で見れば、仕事ができる人のほうが出世する、というやり方をとっています。 今の中国の人たちから見れば、それは社会主義です。

    中国の南シナ海支配には、台湾の独立阻止という長期的な戦略があるのです。

    ダライ・ラマ14世は、自身がノルブリンカ離宮を離れれば群衆は解散し、中国軍との衝突は避けられるだろうと考え、インドへの亡命を決意します(次頁写真㉒)。インド政府はダライ・ラマ14世を受け入れ、ダライ・ラマ14世はダラムサラにチベット亡命政府を樹立します。ダライ・ラマ14世の亡命によって、中国とインドの関係は急激に悪化。

  • 分かりやすかった。台湾の立ち位置なんかも前よりクリアになりました。
    勢いの止まらないように見える中国にも色々な課題があることを改めて分かった。

  • 中国と台湾と香港は、全て中国なのか?
    中国共産党と習近平は何故大きな権力を持っているのか?
    中国の近代化の歴史と今の体制との関連は?
    台湾のひまわり運動は成功して、香港の雨傘運動が失敗した琉球は?
    中国の外交戦略は?
    テレビのニュースを流し見ているだけでは分からないことを池上さんが分かりやすく説明してくれている。中国の世界から非難されるような行動は、国の発展の過程で、日本でも起こり得た(実際にあった)ことでもある。なので、そういった一部分だけを切り取って、中国はダメな国だと判断しないでおこうと思った。中国という日本の隣国とのいざこざは、自分の家の隣人がこんな人だったら。。と思うと心が重くなる。しかしこういう時こそ、相手の心理を考えて、その心理を満足させる(落ち着かせる)ような解決策を立える必要があると思う。面と向かってやめてくださいと言っても意味はない。徹底した相手思考が必要。

  • 大声で話したり、列に割り込んだり、ゴミをポイ捨てしたりと、マナーの悪さも目立ちます。  ところが、こうした振る舞いは、1960年代から70年代の日本人もしていたことです。貧しかった国が急激に発展すると、それに見合ったマナーが追いつかない。これは万国共通です。「中国人ときたら……」という批判は当たらないのです。 43

    中国がここまで発展してきたのは、どうしてなのでしょうか。  そこには、「建国の父」と呼ばれる毛沢東が滅茶苦茶にしてしまった国を立て直した鄧小平という人物がいたからです。 49

    習近平国家主席は、同時に中国共産党総書記でもあります。共産党のトップである総書記が、国家のトップである国家主席も兼務する。 58

    中国が中国共産党の事実上の一党独裁 60

    ■台湾の「ひまわり運動」と香港の「雨傘運動」 明暗を分けたのは

    ・台湾の政治…中国から完全に独立している。中国共産党の影響を受けることのない、民主主義が定着している。住民みんなが怒って反対すれば、政治を変えることができる。
    ・香港…形式上、民主主義は継続していますが、中国共産党の介入を受ける立場。「雨傘運動」で動かすべき相手は、香港政府ではなく中国共産党だったが、中国共産党は動かなかった。 「雨傘運動」は尻すぼみになり、デモへの参加者は次第に減っていった。
    2015年10月、習近平国家主席や共産党を批判する本を取り扱っていた香港の書店の店長や関係者5人、株主が深圳に拉致された後、翌年3月、香港に戻り、「中国当局に拘束され、24時間監視された」と認めた。事実ならば、言論・出版の自由を保障した「一国二制度」を揺るがす大問題。

    ■アラブの春
    アルジャジーラの記者は、世界でもトップクラスの報道機関であるBBCで言論の自由を貫く訓練を受けています。当然、アラブ諸国の独裁政権に対する批判も自由に報道します。  アラブの独裁国家にある放送局はすべて国営放送。もちろん独裁政権を批判するような報道は行いませんし、反政府活動も一切報道しません。  ところが、アルジャジーラは自由に報道します。アラブの放送局なので、ニュースはアラビア語で放送されます。アラブ地域には、読み書きができない人もいますが、アラビア語放送だと内容は伝わります。しかもアルジャジーラは衛星放送です。どの地域の人も、パラボラアンテナさえつければ見ることができたのです。
    中国でも、「ジャスミン革命」の成功を知った若者たちが、反政府運動を行おうとしました。しかし中国では、反政府集会をやろうとネットに書き込んだとたん、サイバーポリスによって削除されてしまいます。  中国の若者たちも工夫して、「ジャスミンティーを飲みに行きましょう」という隠語を使いました。 しかし、百戦錬磨のサイバーポリスは、若者たちが反政府集会を行おうとしていることを察知します。
    中国とアラブ諸国の最も大きな違いは、アルジャジーラのように自由な報道ができる放送局がなかったということです。「アラブの春」は、SNSで始まった小さな運動をアルジャジーラが報道して大きく広がりました。中国でも、SNSを通じてごく一部の人は集まることはありましたが、中国のメディアはそれを報道しません。

    ■アラブと中国の違い
    アラブでは宗教が人々に浸透している。「アラブの春」の時には、金曜日に行われる集団礼拝が終わった後に、集会を開こうと呼びかけたのです。独裁者もイスラム教徒です。モスクの中で取り締まりを行って、イスラム教徒の祈りを妨げることはできません。  巨大なモスクには、何千もの人たちが集まります。礼拝が終わった人たちは広場に移動、反政府集会を開き、あっという間に大きな運動に広がっていったのです。  

    中国では国家よりも宗教よりも、共産党が上にいます。どんな抜け道を探して反政府運動を行おうとしても、結局は弾圧されてしまうのです。

    ■「省」「市」「自治区」はどう違うのか 118
    「省」…日本の都道府県にあたります
    「市」…は、日本でいう政令指定都市のようなものです。 中でも北京市、天津市、上海市、重慶市の四つは、政府の直轄市として特別に重要な都市として位置づけられている
    「自治区」 …ウイグル族やチベット族など、少数民族による自治が認められている地域。中国政府としては、漢民族以外の55の民族も大切にします、という姿勢で国家運営にあたっており、その中でも、人数の多い民族に関しては自治を認めたのが自治区。自治区のトップには、必ずその民族の出身者を置くことになっているが、それは建前で、ナンバーツーには必ず漢民族の中国共産党員を置き、その地域を実質的にコントロールしている
    「特別行政区」…香港とマカオ。中国の一部ではあるけれど、高度な自治が認められている特別な地域。 独自の法律を持ち、通貨やパスポートの発(?)が認められている。

    ■台湾の歴史
    台湾は、日本が初めて得た植民地。
    1894(明治27)年から95年にかけて、日本と中国(当時は清という国でした)の間で、朝鮮半島をめぐる勢力争いをきっかけに日清戦争が起こりました。この戦争は日本が勝利し、95年に下関条約(日清講和条約)が結ばれます。 161

    戦争に敗れた清は、日本に対して大量の銀を支払いました。その銀を元手につくられたのが、日本銀行。今の日銀の基礎は日清戦争の勝利によってつくられたのです。 165

    さらに、遼東半島や台湾を日本に割譲。 167

    当時の台湾は、中国本土の清王朝からは「化外の地」(統治の中心から離れ、文化の及ばない地)と呼ばれていまし 169

    清にとっては、そんな「化外の地」を日本にくれてやっても、全然痛くもかゆくもない。 174

    植民地支配、つまり植民地をどのように統治するか、その方法はそれぞれの国によって、ずいぶん差がありました。 180

    イギリスは、本国から人材を派遣して統治するのではなく、植民地の中で優秀な人材を育てようと考えました。それぞれの植民地にしっかりとした高等教育機関、つまり大学をつくり、卒業生をエリート官僚として育て、植民地を治めようとしたのです。  イギリスの植民地だったケニアにはナイロビ大学、イラクにはバグダッド大学、スーダンにはハルツーム大学など、現在まで続く優秀な大学があります。 181

    フランスは植民地に、大学をつくりませんでした。その国の優秀な人材をフランスに連れてきて、フランスの大学で教育を行い、すっかりフランス人にしてから植民地に戻すというやり方をとりました。 187

    自国に大学がなかったので、独立後は国を動かす人材を育てるのに大変苦労しています。 190

    植民地政策で最もひどかったのが、ポルトガルです。アフリカでは、アンゴラとモザンビーク、東南アジアではインドネシアのすぐ東側の東ティモール、そしてブラジルなどがポルトガルの植民地でした。ポルトガルは、植民地からさまざまな資源を収奪していくだけで、その国の人材を育成しようとしなかったのです。  やがてポルトガル本国で社会主義革命が起き、植民地をすべて放棄しました。ポルトガルの植民地だった国は、国づくりをする人材がいないまま、突然放り出され、大混乱することになります。 191

    日本はどのようにして台湾の植民地統治を行ったのでしょう。 201

    全力をあげて台湾の近代化を進めました。その一方で、徹底的に日本人化を進めます。「あなたたちは今日から日本人なので、日本語をしゃべりなさい」と。いきなりよその国の人が来て、しゃべったこともない日本語を使えと命令されたのですから、当然反発が起きました。  日本の統治に対して起こった反対運動を、日本軍は徹底的に弾圧しました。抵抗し殺害された住民の数は1万4000人ともいわれています。日本と台湾の間には、そういう残酷な歴史もあるのです。 202

    当時、台湾にめぼしい産業は何もありませんでした。熱帯のじっとりまとわりつくような気候と、決して清潔とはいえない環境のせいで、病気も蔓延していました。 214

    初の植民地支配を成功させて、列強と肩を並べたい。明治政府は、台湾を文明化しようと総督府をつくり、植民地支配に乗り出します。後に東京市長になる後藤新平(1857~1929年 次頁写真①)や新渡戸稲造(1862~1933年 次頁写真②)をはじめ、超一級の人材を台湾総督府に送り込んだのです。 215

    それまで読み書きのできなかった台湾の人たちに、徹底した日本語教育を行いました。台湾の人たちは、日本語を学ぶことで世界の情報に接し、近代的な知識を身につけることができるようになりました。  台北帝国大学をつくり、教育レベルの向上に努め、知識層の育成にも力を入れました。また医療制度も整備し、食事の前の手洗いや入浴の習慣、地域の清掃など、公衆衛生に対する意識も高めました。  なかでも 222

    八田與一(1886~1942年 次頁写真③)は、台湾を救った日本人として教科書の中で大きく紹介されています。水利技術者だった八田與一は、農業の生産性を高めるための灌漑事業や水力発電用のダム建設を指揮し、台湾の文明化に大きく貢献しまし 227

    台湾の台南に行く機会があれば、新幹線の車窓から平原に穀倉地帯が広がっているのが見られます。そのもとを築いたのが八田なのです。 230

    日本による統治時代には悪いこともあったけれど、日本のおかげで台湾の近代化が進み、文化のレベルが上がった。こう学校で習っているので、台湾の人たちは親日的なのです。 234

    第二次世界大戦が台湾の運命を変えた 236

    しかし1945年、日本は太平洋戦争に敗れ、1951年に締結されたサンフランシスコ講和条約によって、それまでに獲得した海外の領土はすべて放棄することになります。台湾からも撤退しました。 237

    日本が台湾を統治し始めた頃の中国本土の様子を見てみましょう。中国大陸は清の時代です。 239

    清は皇帝が支配する国、君主制国家でした。しかしヨーロッパの列強の干渉を受け続け、さらに日清戦争に敗れたことで弱体化が進みます。 242

    清の最後の皇帝・溥儀の生涯は『ラストエンペラー』という有名な映画にもなっているので、見たことがある人もいるでしょう。 244

    皇帝による君主制を打倒し、民主国家の成立を目指していた1911年に、孫文(1866~1925年 次頁写真④)らが起こしたのが辛亥革命です。清は滅び、翌年に中華民国が誕生します。 246

    2000年以上続いた皇帝による専制時代に終わりを告げ、民主国家が誕生するはずでした。しかし、中華民国の実権は、北京をおさえた軍閥のリーダー袁世凱が握ることになります。 249

    孫文の死後、蔣介石(1887~1975年 次頁写真⑤)を総司令官とする国民党は、有力な軍閥と手を組み、1928年に南京を首都として一応の全国統一を成し遂げます。 257

    国民党は孫文が組織した時には、民主国家を目指していたはずです。しかし、そこに誕生したのは国民党の一党独裁政権でした。  いつの時代も独裁政権は腐敗を呼びます。国民党も例に漏れず、幹部たちの腐敗のひどさに、次第に国民からの支持を失っていきます。 261

    その頃、国民党の後塵を拝していた共産党に強力なリーダーが誕生します。毛沢東(1893~1976年)です。現在の中国は、毛沢東の功罪を抜きに語ることはできません。功罪の中身について 264

    日中戦争、第二次世界大戦 269

    国民党の軍隊は、最前線で戦い続けたため疲弊していました。毛沢東の共産党 271

    ソ連軍から大量の武器を調達し、国民党を圧倒するようになります。 272

    共産党軍の攻勢を受け、国民党軍は台湾に逃れ始めました。鍋釜を下げ、ぼろぼろの服を着た国民党の兵士たちが、ぞろぞろやってきたのですから、台湾の人たちはこれが祖国中国の姿かと愕然とします。  当時の国民党は本当に腐敗しきっていて、自分のものと公のもの、公私の区別がまったくつかなくなっていました。  日本は台湾総督府に優秀な人材を送り込んでいたので、役人たちは清廉でした。 276

    日本が文明化を進めた台湾は、日本と同じようにアジアで最も発展していました。国民党の兵士たちは、中国大陸の非常に貧しい地域の出身者が多く、台湾で見るものすべてが珍しかったのです。 283

    台湾の人たちの怒りを買ってしまった国民党は、台湾の人たちと話し合いの場を設け、時間稼ぎをしながら、中国大陸に助けを求めます。大陸から多数の国民党軍が駆けつけてきて、反政府勢力を一掃するという大量虐殺がここから始まりました。  大量虐殺が行われたのは3月になってからですが、反対運動が起こるきっかけになった事件の2月28日にちなんで「二・二八事件」と呼ばれています。 303

    現在の正式発表では、2万8000人の台湾の人たちが国民党軍によって虐殺されたと報告されています。 311

    台湾の人たちにしてみれば、植民地時代の日本に対する憎しみも当然ありましたが、その後にやってきた国民党があまりにもひどかった。それが結果的に、日本統治時代はよかったという、郷愁につながっていったのです( 320

    当時、台湾の人たちは、「イヌが去って、ブタが来た」と評しました。イヌ、つまり日本軍はいろんなことに口を出す。吠えてうるさい。嫌だけど、少なくとも番犬の役割は果たし、自分たちを守ってくれた。  しかし、その後にやってきたブタ、国民党軍は、むさぼるばかりで何もしてくれない。非常に差別的な発言ですが、歴史的な言葉として残っているので、あえて紹介しておきます。 324

    「二・二八事件」は、その後の台湾に大きな影響を与えます。日本占領下で教育を受けた多くの知識層も殺害されたのです。彼らは台湾の将来を担っていくべき優秀な人材でした。台湾の国づくりにとっては大打撃です。結局、その後、国民党の軍事独裁政権が続くことになります。 328

    1949年1月、共産党が国民党との争いに勝利します。 332

    一挙に100万人もの国民党軍が大陸から台湾に逃げ込んできました。 333

    共産党が統治をしている大陸では、1949年10月に中華人民共和国が建国されました。一方、台湾に渡った国民党はそのまま中華民国を名乗り続けます。大陸には中華人民共和国、台湾には中華民国。さあ、本当の中国はどっちなんだ、という問題がここから起こります。 334

    国連ができた時、中国はまだ中華民国が統治していました。ですから、中華人民共和国が誕生した後も、国連に加盟しているのは台湾の中華民国という状態が続いていました。 344

    大陸の中華人民共和国のほうが圧倒的に人口は多い。台湾しか統治していない中華民国を中国の代表にし続けることには、国際的に無理があります。1971年に国連総会の決議で、中国の代表は中華人民共和国に変更されました。  中華民国はその決定を不服とし、国連を脱退します。以降、台湾の中華民国は国際的には認められないまま存在しています。 346

    国連脱退以降は Chinese exile government in Taipei(台北に存在する中国亡命政府)となり、略して Chinese Taipeiとなっています。 350

    第二次世界大戦後、日本も中国との間に日華平和条約を結びます。その相手は中華民国でした。しかし、やはり中国を代表するのは中華人民共和国だろうということになり、1972年に日本は当時の田中角栄首相が、中華人民共和国との間で国交を正常化します。 354

    世界の国々を見てみると、中国の代表は中華人民共和国だとしている国もあれば、今も中華民国だとしている国もあります。 369

    なぜ中国はアフリカ中に大使館をつくっているのか。実は、中国の代表は中華人民共和国だ、いや中華民国だといって、中国と台湾が激しくアフリカの国々の奪い合いをしたのです。  最初は、どの国も中華民国を支持していました。中華民国もアフリカの国々に援助や支援を行っていました。ところが、中華人民共和国が多くの援助をするよ 372

    なると、アフリカの国々は次々と中華人民共和国のほうになびいていきます。中華人民共和国は、新しく国交を結んだ国に次々と大使館をつくっていき、結果としてアフリカに対し大きな影響力を持つようになったのです。  一方、中華民国を中国の代表として扱っている国では、バチカン市国があります。ヨーロッパでただひとつ、現在も中華人民共和国を国家として認めていません。 375

    なぜか。中華人民共和国とバチカンは中国国内のカトリックの司教の任命権をめぐって長らく対立しているのです。中国政府はバチカンが任命する司教を認めず、中国寄りの独自の司教を任命しています。中国は宗教を否定する共産党の国家。体制を維持するため、宗教に対して強い警戒心を抱いているのです。 379

    1988年に李登輝総統が誕生します。それまで外省人に支配されていた台湾に初めて本省人のトップが立った瞬間です。 403

    中華民国総統は、英語に訳すと「プレジデント(President)」つまり、大統領です。しかし大統領と表記すると、中華民国を国家として認めている印象になります。そこで日本では総統という呼称をそのまま使っているのです。 404

    文藝春秋』と『中央公論』 412

    李登輝総統は国民党の一党独裁を改め、台湾の民主化を進めます。国民党以外の党がつくれるようになりました。野党として、民進党(民主進歩党)が誕生。国民党と民進党の二大政党制に移行します。 414

    さらに、台湾総統を国民による直接選挙で選ぶ仕組みに変えました。独裁制から民主制へ。李登輝のもとで、台湾が大きく変わっていったのです。 416

    ■香港の歴史
    香港は1997年にイギリスから、マカオは1999年にポルトガルから返還され、中国政府から特別行政区に指定されました。 418

    香港はどういう経緯でイギリスに統治されるようになったのでしょう。 ──イギリスがアヘン戦争で勝利して、中国から奪いました。  そうですね。18世紀後半、ヨーロッパの列強は、海外に植民地をどんどん増やして、その勢力を競っていました。当然、アジアにも進出してきます。  中国は、清の時代。清は、イギリスとも交易を行い、お茶や磁器などを輸出していました。一方イギリスは、中国に輸出できるものが少なかった。そこで植民地のインドで栽培したアヘンを清に輸出して、貿易の帳尻を合わせようと考えたのです。  アヘンは麻薬です。中毒になるとアヘンがないと生きていけない気持ちになります。清にアヘン中毒者が増えれば増えるほど、イギリスは儲かります。  しかし、アヘン中毒者が増えると、風紀が乱れ、国も荒廃します。清はそんなことは許せないと、アヘンの取り締まりを強化。輸入されるアヘンを押収して全部燃やしてしまいました。  イギリスは怒って、清に攻め込みました。これがアヘン戦争(1840~42)です。戦争の結果イギリスは勝利し、香港を奪い取りました。 434

    実は、アヘン戦争で最初にイギリスが奪い取ったのは、香港島だけだったのです。香港島はイギリスに対し永久割譲されました。99年間ではなく永久割譲、つまり永遠にイギリスのものになりました。  その後、九龍半島の南部の一部も奪い取りました。ここも永久割譲です。さらに九龍半島の北の部分を99年間租借します( 441

    ということは、1997年に返還の義務があったのは、九龍半島の北の部分と周辺の島々だけだったのです。 445

    現実的な問題として、香港島は水も食料もすべて九龍半島に依存しています。もし九龍半島だけ中国に返還され、もう水も食料も売らないと言われたら、香港島の人たちは生活ができなくなってしまう。そういう理由もあって、香港全部を中国に返還することになりました。 451

    マカオには、16世紀、明の時代からポルトガル人が住んでいました。大航海時代、世界有数の海洋王国だったポルトガルは、明王朝との交易を通じ、マカオの居留権を得ていたのです。ただし、この時はあくまでポルトガル人はマカオに住んでもいいよというだけで、領有権は明にありました。しかし、アヘン戦争でイギリスが香港を獲得したことに刺激を受け、1845年ポルトガル軍もマカオを占領。1887年に正式に統治権を獲得します。  しかしポルトガルでは社会主義革命が起き、1974年にすべての植民地を放棄することになります。1976年にマカオは行政や経済の自治が認められ、1999年に、ポルトガルから中国に返還されました。 454

    返還のキーワードは「一国二制度」  香港やマカオが返還された時に、中国が採用したのが「一国二制度」です。 463

    そこで編み出したのが「一国二制度」。香港もマカオも、中国に返還されますが、50年間は資本主義経済を続けてもいい。言論の自由、表現の自由も認めます(次頁図表③)。だから安心してください、というわけです。中国はひとつの国の中で、ふたつの制度(社会主義と資本主義)が併存する「一国二制度」をとることで、大きな問題を起こすことなく香港とマカオの返還を実現させました。 473

    中国に返還された香港には、中国の軍隊、人民解放軍がやってきました。国防については、中国が責任を持ちますという意思表示です。外交も中国にまかせてください。それ以外は、香港で自由にやってください。それが中国政府の示した方針です。  ところが近年、香港で保障されていたはずの「高度な自治」が、危うくなってきています。そのことについては、2014年に起きた香港特別行政府への抗議デモ「雨傘運動」(5章*2)のところでお話ししましょう。 480


    ■中国の国体
    実は、中国には中国共産党以外に、八つの政党が存在しています(次頁図表④)。ところが、その八つの政党はどの政党も「自分たちは中国共産党の指導に従う」と党の規則に定めています。 497

    500

    事実上の一党独裁」なわけです。  中国の政治の仕組みで最も特徴的なのは、憲法の上に中国共産党が存在しているところです。普通の民主主義国ではどうか。たとえば日本では、日本国憲法がいちばん上にあって、憲法がいちばん大切なものです。 502

    まず中国共産党があって、その下に憲法が存在する。つまり憲法をどう解釈するかは共産党が決めているのです( 509

    中華人民共和国憲法を読むと、中国の公民(国民)は、言論の自由、表現の自由、結社の自由(政党をつくる自由)すべてが認められています。  1998年、中国民主党という政党がつくられたことがあります。しかし結党してすぐに全員逮捕され、その人たちはいまだに刑務所に入っています。  おかしいと思いませんか。憲法には、結社の自由を認めているにもかかわらず、なぜそういうことが起こるのか。憲法が守られていないのではなく、憲法をどう解釈するかは、共産党が決めているからということなんですね。 511

    中国のリーダーはどうやって決めるのでしょうか? ──国民の選挙でないとすると……? 522

    中国の人たちは、ほとんど選挙をしたことがないのです。 526

    上海でSNH48の総選挙をやった時に、参加した人たちがひどく感動したというエピソードを聞きました。自分の好きな人に投票できる。そしてみんなの投票の結果で、センターが決まる。こんなに素晴らしいことはない、と。 529

    国民による選挙のない中国では、どうやってリーダーを決めているのか。それが5年ごとに開催される共産党大会(中国共産党全国代表大会)です。共産党員の地方代表者が集まり、要職に就く人材を選出します。 532

    国家の上に共産党が位置する中国では、共産党大会が国の最重要事項を決定する政治イベントなのです。共産党大会の中では、正式な選挙が行われます。しかし5年に1回しか開催されない最高機関です。日々の党運営つまり国家運営に関する事柄を決めることはできません。そこで、年に1回開催される中央委員会に代表として出席する中央委員を選出します( 535

    選出された7人が政治局常務委員です。 541

    中国13億人の舵取りを、わずか7人で行っているのです。7人の集団指導体制で国家運営に関するすべてを決めます。 543

    そして現在、政治局常務委員のトップ(序列1位)に立っているのが習近平総書記なのです。 547

    中華人民共和国の国家主席は、共産党大会の翌年に開催される全人代で選出されます。  現在では、共産党の総書記がそのまま国家主席になるという構造になっています。つまり、国家主席も習近平。名実ともに最高権力者です(次頁図表⑥)。 548

    551

    中国の場合は、すべてにおいて共産党が国家(政府)に勝ります。共産党員にならないと出世ができません。現在共産党員の数は、8000万人を少し超えた数です。 555

    中国共産党が設立されたのは1921年7月。上海の高級住宅地の一角を借りて、中国共産党の第1回大会が開かれました。この時、党員は全国にわずか53人(57人の説も)でした。このうち代表12人が出席、毛沢東もそのひとりでした。 563

    将来の共産党幹部候補を養成するためには、優秀な人材を集めなくてはいけません。たとえば、学校で優秀な成績をとっている、他人からの人望が厚い、みんなから好かれている。そんな人は、共産党に入らないかと声をかけられます(次頁図表⑧)。優秀な人材をスカウトするために、網の目のようにありとあらゆるところに共産党のネットワークが張りめぐらされているのです。 574

    中国共産党の内部にも派閥があります。大別すると「太子党」と「団派」です。「太子」とはプリンスの意味、つまり二世です。親が共産党や軍の幹部で出世した人たちが太子党です。習近平は、父親が元副首相であり、父親の友人たちによって引き上げられてきたので、太子党に色分けされます。  これに対して、「団派」の団とは共産主義青年団のこと。共産主義青年団での活動ぶりが評価されて共産党に入党し、実績を積んで出世した人たちです。習近平の前の実力者、胡錦濤、温家宝らはこちらに属します。 579

    もし、共産党に入るのは嫌だと、断ったらどうなるでしょう。 586

    反共産党だという烙印を押され、生涯出世の道は閉ざされるでしょうね。だから、誰も断れない。共産党に入らないかと誘われたら、喜んで入りますと答えるのです。 588

    中国企業の場合はどうでしょう。大企業の中にも、当然共産党の組織があって、共産党がイエスと言わなければ何も決まらないという構造になっています。大企業の社長のデスクには、仕事用の電話ともう1台赤い電話が置かれています。この赤い電話は、共産党の内線電話。ホットラインなのです。  もし赤い電話が鳴ったら、たとえ会議をしていても社長はすぐさま電話をとって、共産党の指示を聞かなければなりません。  意思決定者が社長だと思って話を進めていると、突然共産党の意向が割り込んでくることがある。中国企業とのビジネスが難しいといわれる一因です。 595

    1989年6月4日。 606

    天安門事件 608

    民主化を求めて北京市内の天安門広場に集まっていた学生たちに対し、中国の軍隊である人民解放軍が戦車を出動して排除しました。抵抗した大勢の若者たちが殺害されました。これが天安門事件です。 609

    第二次世界大戦で戦勝国となったにもかかわらず、中国は実に貧しかったのです。社会主義的な平等を求めて中華人民共和国が成立しましたが、すべての国民は平等に貧しいままでした。 612

    そこに鄧小平(1904~97年)というリーダーが登場して、とにかく豊かになれる人から豊かになりなさい。まず豊かになって、豊かになった人たちが貧しい人たちを助けなさいという「改革開放政策」を始めました。 614

    裕福になる人も出てきた一方で、まだまだ貧しい人たちがたくさんいる。中国国内で所得格差がどんどん広がっていきました。 617

    貧富の差が激しい格差社会を何とかすべきだ。そのためには、少しでも民主化の方向に持っていきたい。中国を民主主義の国にしたいという運動を始めました。 624

    民主化を求めるデモの場所として、学生たちが目をつけたのが、北京の中心部にある天安門です。明、清代の皇帝の宮城の正門を再建した天安門は、毛沢東が建国宣言を行った場所で、中華人民共和国の象徴ともされている場所です。 639

    ちょうどこの頃、ソ連の最高指導者であるゴルバチョフ書記長が中国を訪問 642

    ソ連の指導によって生まれた中国共産党ですが、次第にソ連との関係が悪くなり、対立するようになっていました。 643

    ソ連では、独裁者スターリンの死後トップに立ったフルシチョフがスターリンを痛烈に批判します。レーニンとともにロシア革命を成功させソ連を建国した英雄だが、レーニンの死後は独裁者となった。さらに自分を神格化し崇拝させるために、多くの人々を殺していたと暴露します。1956年のことです。 644

    スターリンと同じようにカリスマ指導者として君臨していた毛沢東は、フルシチョフの発言を自分への批判だと捉えたのです。 647

    しかし毛沢東の死後、中国とソ連の関係は、少しずつ改善されていきます。1989年5月15日、両国の関係改善のためソ連のゴルバチョフ書記長が中国を訪問。30年ぶりの中ソ首脳会議が実現し、歓迎の式典が天安門広場で開かれることになりました。 649

    民主化を目指す学生たちは、これをチャンスだと捉えました。海外のメディアが注目している今、天安門広場に座り込んで民主化を求める運動を始めれば、中国の警察や軍隊も手出しはできないだろうと考えたのです。  ゴルバチョフ訪中の直前から、大勢の学生たちが天安門広場に座り込みます。 655

    その結果、ゴルバチョフ書記長を歓迎する記念の式典を天安門広場で開けなかったのです。 659

    趙紫陽(1919~2005年)総書記は、ゴルバチョフとの会談の中で驚くべき発言をします。鄧小平は表向きには引退したが、いまだに最高実力者として君臨している。「改革開放政策」を推進している鄧小平こそが民主化を阻む原因だと、ほのめかしたのです。 660

    鄧小平への退陣要求も合わせて、デモはさらに拡大します。天安門広場とその周辺に集まった人の数は100万人ともいわれています。 666

    中国共産党は戒厳令を発令。戒厳令とは、憲法の効力を停止し、立法、行政、司法の行使を軍に委ねることです。中国の軍隊である人民解放軍がデモの制圧に乗り出しました。1989年6月4日早朝、座り込んでいる学生たちを排除するため、中国の人民解放軍の戦車が天安門広場に入ります。学生たちが立てていたテントを次々と踏み潰していきました。  怒った若者たちが天安門広場のすぐ近くの長安街に集まり、戦車に向けて、ビール瓶などにガソリンを詰めた火炎瓶を投げつけました。それをきっかけに、人民解放軍は若者たちに向けて無差別に発砲。多くの若者たちが天安門の広場のすぐ横で殺害されました。これが天安門事件(次頁写真⑧)です。 670

    広場にいた学生たちは、軍が突入する前に避難していたため、天安門広場の中では犠牲者は出ていませんが、その周辺では多くの若者が命を落としまし 678

    中国の軍隊、人民解放軍です。人民解放軍というのは世界でも大変珍しい軍隊です。実は、国の軍隊ではないんですね。 680

    では、人民解放軍は、どこの軍隊なのでしょう。この問題は少し難しいかな。 682

    人民解放軍は共産党の軍隊なのです。 686

    常に国のトップの指示に従う。どの国の軍隊も同じです。  ところが、中国の人民解放軍は国の軍隊ではなく、中国共産党の軍隊です。人民解放軍を指揮し、出動命令を出すのは共産党なのです。天安門事件の時、人民解放軍に出動を命じたのは鄧小平という共産党の実力者でした。  鄧小平は、中国共産党の中で人民解放軍を動かすことのできる地位(共産党中央軍事委員会主席)にいたのですが、国家主席ではなかった。国のリーダーでもない人が、軍隊に出動命令を出して、学生たちを天安門広場から追い出したのです。  今の中国の若者たちは、なぜ天安門事件が起こったのか、その理由をちゃんと教えられていません。中国の歴史の教科書を読むと、「共産党に反対する連中がいたが、共産党のおかげですぐにこの連中を抑えることができた」という意味の短い文章にしかなっていないのです。 690

    若者たちが共産党に逆らったのは、我々が教育の面で過ちをおかしたからだ。今後は若者たちに対して、中国共産党の正当性を徹底的に教育しなければならないと考えたのです。 703

    天安門事件以降、中国では徹底した「愛国教育」が行われます。「愛国教育」とは何か。その名のとおり、「中国を愛しましょう。つまり中国共産党を愛しましょう」という教育運動です。大学の新入生には1か月の軍事訓練も義務づけられました。 704

    中国の舵を取っている中国共産党は、選挙で選ばれてその地位にいるわけではありません。天安門事件以降、中国共産党の正当性が問われたのです。なぜ中国共産党が中国を統治しているのか。その理由を明確にし、国民に浸透させる必要がありました。 709

    国民を守るため日本軍と戦い、中国から日本軍を追い出したのは共産党である。日本の侵略によって苦しんでいる人々を助けたのは、中国共産党である。だから、我々には中国を統治する政治的正当性があるのだ、という思想を徹底的に教え込むことにしました。  実は、日本軍と最前線で戦ったのは国民党で、共産党は後方にいてあまり戦ってはいなかったのですが……。共産党は、自分たちに都合のいいように歴史を偽造します。  共産党が中国国民にとっていかに素晴らしい役割を果たしたかを浸透させるためには、日本が中国に対してどれほど残虐なことをしたかを強調すればいいわけです。最初から反日教育を意図したわけではありませんが、結果的に「愛国教育」は反日教育になっていきました。 714

    中国の若者たちは、建前としては反日的なことを言ったほうがいいとわかっているから、テレビのカメラを向けられれば反日的なことを言います。 723

    中国の若者の多くは、本音では、相当日本が好きなんです。中国人全員が反日だということはありません。 727

    最近では、習近平も日本との関係を改善しなければいけないと言っています。 737


    ■日本と中国の関係
    急成長の反動で、今、中国経済は低迷しています。さらに日本からの投資が激減すると、中国経済の復活は難しくなる。日本との関係を改善して、何とかもう一度日本から投資をしてもらいたいという思惑もあるのです。  一方、日本の経済も中国とは切っても切れない関係になっています。このままの状態が続いたら、日本にとってもいいことは何もありません。そこで第一次安倍政権時代の2006年、中国との関係を仕切り直して「戦略的互恵関係」を推進しましょうということになりました。  日本も中国も、相手のことはあまり好きではないけれど、喧嘩を続けたままだとお互いの利益になりません。本心は脇において、両国経済のために仲よくやっていきましょうというのが戦略的互恵関係です。かなり正直なものの言い方ですが、現在、日本と中国はこういう関係になっています。 740

    人口が多くて非常に貧しい国が一挙に経済を発展させる時に「開発独裁」という方法があります。  徹底的な独裁政権下で、国のお金を効率的に開発に注ぎ込むことによって経済を成長させるのです。独裁も、優秀なリーダーのもとでは、経済が発展します。たとえば、かつてのインドネシアがそうです。韓国も、朴槿恵大統領のお父さん、朴正煕大統領の時代に開発独裁を行いました。  逆にとんでもない指導者のもとでは、めちゃくちゃになってしまうという例が北朝鮮です。中国の場合も、実は、かつて、とんでもない独裁者がいました。その後、賢明な独裁者が出てきたことによって中国経済が大きく変わるのだという話は、この後の第3章で詳しくお話しします。  ただ、中国のように13億もの人をまとめて統治しながら、経済発展を目指すとなると「開発独裁」に向かわざるをえない側面もあるのです。 751

    今、世界で最大の人口を抱える民主主義国 761

    インド 763

    お年寄りの中には、日中戦争の時に自分の肉親が日本軍によって殺された経験を持っている人がたくさんいます。本音で反日の人たちも多いでしょう。  ただ中国は広大な国。そもそも日本軍とはまったく関係なく暮らしてきた人たちもいます。その地域の人たちは、老人だからといって反日ではないと思います。  しかし、テレビでは反日ドラマが毎日流れているものですから、テレビでしか情報を得られないような田舎の高齢者の人たちの中には、日本はひどいところだと思っている人たちもかなりいるでしょうね。 770

    政権政党が国民の選挙で選ばれるようになれば、自らの政治的正当性を強調する必要はない。意図的に日本という敵をつくり出すことは必要なくなります。つまり共産党による一党独裁制が続いているうちは、折に触れて反日が出てくる。それは覚悟しておいたほうがいいということですね。 779

    すごく盛り上がっていた反日運動が、ある日、突然中止するよう指導されたことがあります。反日運動といいながら政権批判を行い、反共産党運動に発展しそうになったからストップをかけた、というのが真相です。  では、中国の共産党による一党独裁はこのまま続いていくのでしょうか。世の中に、永遠に続くものはありえません。ソ連があっけなく崩壊したように、中国共産党による独裁政権もいつかは終わりを告げるでしょう。 786


    ■現代中国の課題:「中進国の罠」
    急激な経済成長を遂げてきた中国は、ここに来て成長にブレーキがかかり、不景気に苦しんでいます。急激に成長すると、まるで階段の踊り場のように、上に進めなくなる段階を迎える。これが「中進国の罠」と呼ばれる現象です。中国は今、まさにこの「罠」に陥っています。これもまた、かつて日本が経験したことでした。


    なぜ中国の経済成長に、急ブレーキがかかったのでしょう? ──中国の人件費が高騰したため、世界から中国に進出していた企業が、もっと人件費の安い国に工場を移しているから 801

    北京や上海には、世界でも有数の大金持ちがいます。その一方で、まだ電気も水道もないようなところで暮らしている人たちもいる。平均するとまだまだ貧しい国なのです。  途上国から先進国の仲間入りをしようという過渡期の国を「中進国」と呼びます。中国はちょうど今、中進国だといえます。そして高度成長期の直後、急激に経済成長のスピードが落ちることを「中進国の罠」と呼びます。ブラジルやアルゼンチン、そして、日本もかつて経済成長の過程で「中進国の罠」にはまりました。 812

    人口が13億人もいるのだから、労働力不足になることはないだろうと高をくくっていたら、農村地帯から出稼ぎに来る人が少なくなってきたのです。国が豊かになってきたことで、内陸の農村部にもいろんな企業ができ始めたのです。そうなると、わざわざ遠くの沿岸部にまで働きに出る理由がなくなります。 823

    労働力が不足すると、どういうことが起こるのでしょう? ──労働者のほうが強くなって、給料が高騰する。 827

    それまで余っていた労働力が底をついた状態を「ルイスの転換点」と呼びます。イギリスの経済学者アーサー・ルイスによって提唱されたからです。 「ルイスの転換点」を迎えた中国では、工場労働者の給料が急激に高騰しています。 831

    先ほど日本も「中進国の罠」にはまったと聞きました。日本はその状況からどうやって抜け出したのですか? 838

    1960年代の高度経済成長時代、東京の中小企業の労働力は主に東北地方の中卒者が支えていました。東北地方の農家では、長男が家を継ぎます。次男、三男は東京に出稼ぎに来ます。 840

    日本は高度経済成長の真っ最中で、人手が足りない企業にとって、貴重な労働力です。彼らは「金の卵」と呼ばれました。 『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画が、まさにその時代の話です。 844

    しかし日本の経済が発展し、農村部も豊かになり、みんな高校に進学するようになりました。中学卒業生が労働力として手に入らなくなったのです。高校卒を採用するとなると、中学卒より高い給料を払わなければなりません。これが日本の「ルイスの転換点」です。 847

    日本の場合、「ルイスの転換点」を迎えた時代がよかったのだと思います。日本の高度経済成長期は、世界的に新しい技術や製品が登場してきた時期と重なっています。 850

    新しい技術や製品が登場することによって、連鎖的に新たな需要が生まれて経済が発展する。それによって日本は「中進国の罠」を抜けることができたのです。 854

    今、まさに中国はその段階です。みんな裕福になって、さまざまな製品の需要が増えてきた。「世界の工場」から、13億人の「世界の市場」へと変化しています。  国民の活発な消費活動のおかげで、まだ経済は成長していますが、労働力不足は深刻で人件費も高騰しています。  中国に進出していた外国の企業は、もっと人件費の安いベトナム、カンボジア、ミャンマー、バングラデシュなどの国に工場を移し始めまし 857

    一般的にいうと「中進国の罠」に陥った時には、イノベーション、つまりまったく新しい技術革新がないと、さらにその先には進めません。 867

    中国経済が「中進国の罠」から抜け出し、さらに発展するためには、ものを大量生産する産業構造に頼っていては不可能だということです。たとえば、ICT(情報通信技術)などまったく新しい分野でイノベーションが起こらないと「中進国の罠」から脱出することはできません。そのイノベーションとは何なのか。現段階では、わからないというのが正直なところです。 869


    ■現代中国の課題:法治主義
    もうひとつ大切なことがあります。それが「法治主義」です。日本では当たり前のことですが、すべては法律によって治められる仕組みをつくることだろうと思います。 873

    中国の場合は、憲法の上に共産党があります。共産党の幹部の意向で法律に関係なく、ルールががらっと変わります。  たとえば、日本の企業が中国に進出していきます。中国の企業と合弁企業をつくり、生産を始めます。事業がうまくいって多くの利益が上がるようになります。突然、地元の役所が法律を変えて、もっとたくさん税金を納めなさいとか、環境対策税を集めることになったとか、さまざまな手段で利益を吸い上げようとするのです。  そうなると、外国企業は安心して中国でビジネスができなくなってしまいます。今、そういう問題が中国のあちこちで起きています。 876

    「法治主義」つまり、どんな権力者も法律を守る。そういう国家に変えて外国企業も安心してビジネスができる環境を整えていかないと、この先中国が発展を続けることは難しいだろうと思います。 882


    ■資本主義を取り入れた社会主義
    中国の企業は国営だから、労働者の賃金は国が決めるのではないでしょうか。賃金が自然に上がることはないのでは? 888

    よく気がつきました。労働力不足で賃金が上がるって、日本のような資本主義国で起こることだよね。中華人民共和国は、ソ連をお手本とした社会主義の国としてスタートしました。しかし、今の中国はどう見ても、純粋な社会主義ではないよね。社会主義でもあり、資本主義でもある。不思議な状態になっています。 890

    共産主義は、私有財産をなくし、すべての人が平等に暮らせる一種の理想主義です。社会主義はひと言でいうと、「共産主義に向かって進もうとしている過程」です。 895

    資本主義社会で自由に経済活動を続けると、どんどん格差が広がり、ひと握りの大金持ちの資本家が大勢の労働者をこき使い搾取するようになる。資本家をなくして、生産手段は労働者のものにしよう。労働者が能力に応じて働く、格差のない社会をつくろう。それが発展した資本主義の次の段階である社会主義の社会だ、というのです。 899

    格差が解消すれば、貧困がなくなります。何でも手に入るから、争いが起きない、戦争もなくなる。そうなれば国家もいらない。理想の社会が誕生する。それが共産主義だ、というわけです。最終的には共産主義を目指すけれど、一気には無理だから、まずは社会主義を目指そう、ということなのです。 902

    国民全員が幸せになるためには、大地主から土地をすべて取り上げて、土地はすべてみんなのものにすればいい。そうすれば格差はなくなるという考えで、各地の農家を合作社という組織にまとめ、農業の集団化が始まりました。 918

    ソ連の農業集団化は失敗した 923

    社会主義の理想だと思われた農業の集団化はなぜ失敗したのでしょう? 926

    しかし、集団農場では農地はみんなのもの。自分の農地じゃないから、わざわざ夜中に起き出して、農地の見回りをする必要はない。  農民たちは、誰も農地のことに注意を払わなくなりました。朝の9時から夕方5時まで働けば、あとは知りませんというような状況になり、生産性は急激に落ち込んでいきました。 937

    中国はソ連の失敗を知りませんでした。スターリンがソ連の農業の集団化は大成功だ、という宣伝をしたからです。失敗を認めたくなかったわけですね。  毛沢東は、ソ連の嘘の宣伝を真に受けます。ソ連でうまくいっているのなら我が国でも可能だろう、と人民公社を組織し農業の集団化を推進します。その結果、農業生産性がどんどん落ちてきます。中国の農業は、ソ連と同じ崩壊の道をたどりました。 949

    中国は、ソ連の弟分です。ソ連がアメリカなら、中国はアメリカの次に豊かな国を目標にしようと考えました。それがイギリスです。中国はイギリスに、追いつき追い越せという大方針を立てました。嘘のような話ですが本当です。これを「大躍進政策」といいます。 959

    毛沢東は、イギリスの経済を調べました。イギリスでは製鉄・鉄鋼業を発展させて世界2位の豊かさになった、という報告がされます。そこで、中国でも製鉄をやろう、と命令します。非常に安易な考え方ですね。 961

    毛沢東は近代的な設備はいらない。農家の庭に高炉をつくりなさい、そこで鉄をつくるのだ、と指示を出します。鉄をつくるためには大規模な施設が必要なのですが、毛沢東はどんな方法でもいい、生産量さえ上げればイギリスに追いつくことができると考えたのです。 965

    鉄の原料である鉄鉱石も足りません。なんと農家の身の回りにある鋤や鍬を溶かし始めたのです。気がついた時には、農作業に使う道具がすべてなくなっていました。これが大失敗に終わった中国の「大躍進政策」です。 979

    失敗したのに、大成功と宣伝した 982

    おそらく中国の農民たちの中には、スズメの役割に気づいていた人がいたでしょう。しかし絶対的な権力を持っている毛沢東が言うことに逆らうことなどできません。地方の役人たちも中央に「大躍進政策」が失敗しているなどと報告したら、自分の身が危うい。自分の身を守るために、「大躍進政策」は大成功だと宣伝しました。ソ連とまったく同じですね。 993

    毛沢東の死後、「大躍進政策」によってどれくらいの餓死者が出たのかを中国共産党が密かに調査をしました。その結果、少なくとも3000万人、一説には5000万人が死亡したという報告がなされました。当時の中国の人口は約5億人。1割近い人が餓死したのです。  あまりにもひどい結果なので、現在は公表されていません。中国の若者たちは、この事実を知りません。中国の歴史の教科書には、「大躍進政策」が行われた1958年からの数年間は、天候不順が続き農業に大打撃が出たと記載されています。  一連の事実を知ると、毛沢東はひどい独裁者だったと思うでしょう。しかし毛沢東のような絶対権力者が陥る罠は、どの組織にも潜んでいます。日本の会社などにも共通しているのです。 1003

    北朝鮮はまさに国家として、そういう状態になっています。金正恩朝鮮労働党委員長に逆らったら殺されてしまう。誰も金正恩を批判しない。考えないのがいちばん。金正恩に言われたとおりの行動をする。そうやって国がどんどん衰えていくのです。 1013

    毛沢東の「大躍進政策」を、批判することは簡単です。しかし、どこでも起こりうることなのだ、ということをみなさんにも知っておいてほしいと思います。 それでも毛沢東は権力を維持した ──毛沢東と中国共産党は、「大躍進政策」で大勢の餓死者を出しても支持を失わなかったのですか。またどうしてそこまで強い力を持つことができたのですか。 1016

    中国共産党の軍隊はある地域を占領すると、大地主たちを処刑して農地をすべて小作農たちに解放していったのです。農民を中心とする国民の支持を得た共産党は支配地域を広げていき、ついには国民党を台湾に追い出すことに成功しました。  革命を完全に成し遂げるため、共産党は国民党側についた人たちを公開処刑しました。共産党に逆らうと殺される、という恐怖心をまず煽ったのです。 1024

    そのうえで、共産党は政権をとったばかり、いろいろ間違いをおかすこともあります、問題点や過失があったらどんどん批判してください。色とりどりの花が咲くように、国民みんなで活発な議論をしましょうと、毛沢東が呼びかけました。これを「百花斉放」(*7)といいます。  公開処刑を目のあたりにして、怯えていた国民は半信半疑です。共産党は、「百花斉放」の一大キャンペーンを行います。 1028

    すると突然、毛沢東が方針を変えたのです。共産党を批判する連中は革命を失敗に終わらせようとする右派である、と。右派であるとレッテルを貼られた人は、投獄されたり、辺境の地へ追放されたりしました。「百花斉放」を呼びかけてから、わずか4か月後のことでした。 1035

    「百花斉放」の結果、共産党に反対する右派はどのくらいいるのだろうという話になりました。その時、毛沢東が5%ぐらいではないかと口走ったのです。その数字には何の根拠もありません。  しかし、5%という数字が独り歩きを始めます。信じられないことですが、中国全土のさまざまな職場で5%の人たちが右派だと分類されて、職場から追放されました。 1038

    国民の意見を聞いて、国をよくしていこうとしていた毛沢東は、なぜ急に方針を変えたのですか?  毛沢東がなぜ方針転換したのかについては、歴史家の間でも議論が分かれます。  共産党をさらによくしよう、素晴らしい政権をつくろうと考えて、自由に批判をしてくださいと求めたら、予想以上に批判が出てきた。このままでは政権の基盤が揺るがされると危機感を抱いたので、粛清に転換したという説。  そうではなく、共産党に対する批判を自由に言わせることで不満分子をあぶり出し、その連中を全部潰してしまおう、と最初から考えていたという説。この2説があるのですが、真相はよくわかりません。 1045

    「白いネコでも黒いネコでも、ネズミをとるのがいいネコだ」という鄧小平の有名な言葉が残っています。どういう意味だかわかりますか? 1057

    鄧小平は、「どんな猫でもいい。つまり、社会主義だろうが資本主義だろうがかまわない。国民が豊かになるのがいちばんだ」という意味で言ったのですね。 1060

    毛沢東の死後、壊滅的になった国を立て直すため、呼び戻され復権します。鄧小平の優秀さは、誰もが認めていたのでしょう。  共産党の中心的存在になった鄧小平は「改革開放政策」を提唱します。これまでの硬直した仕組みを改革する。門戸を開放して海外からの投資を受け入れよう、という社会主義国家とは思えないような思いきった政策です( 1065

    1069

    鄧小平は、まず農業を復活させるために人民公社を廃止しました。代わって「各戸生産請負制」を始めます。国のものだった土地をそれぞれの農家に貸し与えて、生産を請け負わせるという仕組みです。  あなたの責任でこの土地を耕してください。収穫した作物の一部は国に納めてください。余ったものは家族で食べてもいいし、市場で売ってもいいですよ、というやり方に変えました。 「各戸生産請負制」に変えたとたん、中国の農業生産高は急激に増え、中国の農村部では餓死者が出なくなりました。 1070

    人間は現金なものです。作物がみんなのものだと言われるとサボりますが、自分のものになるとわかると俄然張り切って働くようになるわけです。 1075

    もちろん無条件で外国企業の進出を認めたわけではありません。合弁企業、つまり中国の会社と一緒になって会社をつくらなければいけないという条件をつけました。  株式の51%は中国側の企業が持ち、外国の企業は49%しか持つことができません。株式会社ですから、株主総会で重要なことを決める時、株をたくさん持っているほうの意見が尊重されます。  外国企業に、進出してください、投資をしてくださいといっても、いざという時は中国側が全部決められるようにしたのです。 1083

    自由な経済活動はやらないで、国が立てた計画どおりにやりましょうというのが社会主義。マーケットで自由に取引することによって値段が決まる。つまり需要と供給の関係で値段も決まるというのが市場経済。市場経済というのは、要するに資本主義のことなんですね。  そうすると、「社会主義市場経済」は、社会主義の資本主義という意味になります。これは中国独自の考え方で、「マーケットは資本主義のやり方にします。自由に金儲けをしてもかまいません。ただし、政治は中国共産党がコントロールします」というもの。つまり、中国共産党が管理をする資本主義という意味なのです。 1091

    今の中国の人たちから見れば、それは社会主義です。みんな同じなんてとんでもない。仕事ができる者にはたくさん給料を払って、出世させろ。駄目なやつはクビにすればいい。それが今の中国の常識なのです。  日本企業のほうが社会主義だといわれるくらいむき出しの資本主義が、今、中国で行われているのです。 1102

    かによって、国民が翻弄されてしまう様子がよく

著者プロフィール

池上彰(いけがみ・あきら):1950年長野県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、73年にNHK入局。記者やキャスターを歴任する。2005年にNHKを退職して以降、フリージャーナリストとしてテレビ、新聞、雑誌、書籍、YouTubeなど幅広いメディアで活躍中。名城大学教授、東京工業大学特命教授を務め、現在9つの大学で教鞭を執る。著書に『池上彰の憲法入門』『「見えざる手」が経済を動かす』『お金で世界が見えてくる』『池上彰と現代の名著を読む』(以上、筑摩書房)、『世界を変えた10冊の本』『池上彰の「世界そこからですか!?」』(以上、文藝春秋)ほか、多数。

「2023年 『世界を動かした名演説』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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