- Amazon.co.jp ・電子書籍 (214ページ)
感想・レビュー・書評
-
評者は80年代後半に学生生活を送り、世代的には吉本に何の思い入れもないが、吉本隆明という人は何となく「エライ人」だ(だった?)という「空気」におされ、本書で槍玉にあがる本は大抵読んだ。呉氏の吉本体験に思わずニヤリとしてしまうところもあるが、他方で多くのレビューに込められた反発も理解できる。
なるほどと思うのは「吉本神話」が増幅される秘密が吉本の文体にあるという指摘だ。『言語美』にせよ『共同幻想論』にせよ、書いてあること自体に大きな異論はないが、だからどうした?と言いたくなるし、今となっては理論的な不備や誤りは問わないとしても、『言語美』は時枝誠記や三浦つとむ、『共同幻想論』はエンゲルスの焼き直しに過ぎず、出版当時においても何ら特筆すべき独創性はない。その特異な造語と文体がなければここまで読まれることはなかったというのはその通りだと思う。
だが吉本への共感の核はこうした理論的著作より、むしろ「大衆の原像」論だと思う。呉氏の理解とは違って、元々吉本の大衆論は大衆の美化でも民主主義原理主義でもなく、ましてや既成政党への批判でもない(但し共産党は除く)。そう受け取られてしまう責任は吉本にもあるが、吉本が拘ったのは大衆の現実を見ない知識人への批判であり、啓蒙すべき対象としてしか大衆を見ない特権意識の告発だ。知識人こそ自らの大衆性を自覚せよというメッセージとも言える。ある種のナショナリズムの発露であった60年安保世代より、大学の「知」のあり方を問うた全共闘世代に根強い吉本信者が多いのはこのためだ。それは極めて健全な感覚だと思う。序でに言えば、そんな大学にあっさり見切りをつけた企業戦士の方が、吉本コンプレクスを抱えてウジウジする知識人より余程正しく吉本を理解している。
もっともそれが80年代後半以降、吉本が迷走する起因ともなる。知識人批判であった筈の大衆論が、消費社会を謳歌する大衆の無前提な肯定に行き着いてしまう。「大衆の原像」という概念は知識人批判の武器としては有効だが、それ自体は中身のない空疎な概念だ。そのことは吉本も自覚していただろう。それを埋めようと必死にあがいたのが『マス・イメージ論』以降だが、ありのままの大衆を捉え損なったと言わざるを得ない。大衆は確かに愚かな存在だが、自らの愚かさに気づき、立ち止まることもある。そう信じなければモノを書くということ自体が自己矛盾だろう。それが見えなかった、或いは見ようとしなかった吉本は、結局どこかで大衆を馬鹿にしていたと思う。自らが痛烈に批判した進歩的文化人が逆立ちしただけではないか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
僕にとって吉本隆明は伝説の思想家で、著作をほぼ読んだことはありません。呉智英は消えた思想家って感じで、大学の頃は貪るように著作を読んだけど今はさっぱり。どちらに肩入れすることなく本書を読めました。