豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

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 昭和七年、本多繁邦は三十八になった。

 三十八歳とは何たる奇異な年齢だろう!
 本多にとって青春とは、松枝清顕の死と共に終わってしまったように思われた。あそこで凝結して、結晶して、燃え上がったものが尽きてしまった。
…夢日記…それから一年半のちにはからずも実現されたが、夢に柩にきよきしていた富士額の女は、たしかに聡子であったのに、清顕の葬儀にはついに現実の聡子は姿を見せなかった。
…すでに十八年が経った。

 梨枝は言葉すくなで、決して逆らわず、詮索癖もなく、わずかに腎炎の気があって、たまに軽い浮腫を見ることがあったが、そういうときには化粧もやや厚目にするから、眠たげな目もとが却って籠ったような色気を示した。

 そういうものがすべてそこに、手にも触れ目にも触れやすいところに居並んでいる静けさ、…これが有意な青年が二十年後に得たものだ。かつて本多にとっても、手に触れ指に触れる実在がほとんどなかった時代があったが、それに少しも苛立たなかったからこそ、こうしてすべてのものが手に入ったのだ。

五・一五事件

飯沼茂之 松枝家の書生
息子…眉が秀で、顔は浅黒く、固く結んだ唇の一線に、刃を横にしたような感じがある。たしかに飯沼の面影を宿してはいるが、あの濁った、重い、鬱した線を、ひとつひとつ明快に彫り直して、軽さと鋭さを加えたという趣きがある。「人生について、まだ何も知らない人間の顔だ」と本多は思った。「降り積もったばかりの雪が、やがて溶けもし汚れもしようということが信じられないでいるときの顔だ」

 これに見習って滝へ近づいた本多は、ふと少年の左の脇腹のところへ目をやった。そして左の乳首より外側の、ふだんは上膞に隠されている部分に、集まっている三つの小さな黒子をはっきりと見た。
 本多は戦慄して、笑っている水の中の少年の凛々しい顔を眺めた。水にしかめた眉の下に、頻繁にしばたたく目がこちらを見ていた。
 本多は清顕の別れの言葉を思い出していたのである。
「又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」

「いやあ、本多さんですか。これはお懐かしい。何と十九年ぶりになりますか。きけば、きのう、倅の勲がお世話になった由で、いやあ、全く奇縁ですなあ」
…本多がまずおどろかされたのは、飯沼の昔に変る多弁で磊落な態度だった。

本多宅食事
「先日友達にすすめられて買った本で、もう三回読みました。こんなに心を打たれた本はありません。先生は読まれましたか」
 本多はその簡素な装丁に、隷書体で、
「神風連史話 山尾綱紀著」と書かれている、本というよりは小冊子と云ったほうが近い書物を引っくりかえして、著者の名にも、巻末の版元の名にも馴染みのないのをたしかめてから、黙って返そうとしかけた手を、竹刀胼胝のある少年の頑丈な手で押し戻された。

 ―客がかえったあとでも、その客の批評をあれこれとしないのが、梨枝の美点でもあり、又、彼女の、決してものごとを軽信しない、草食動物のようなものうい着実さでもあった。そのくせ梨枝は、二三ヶ月もたってから、或る日の客の欠点を軽く指摘して、本多を驚かせたりするのである。

 勲が残して行った小冊子につれづれの手が触れて、何の感興もないままに、読み始めた。

「前略。
 神風連史話をお返しします。実におもしろく読ませてもらいました。ありがとう。
 君があの本に感動した理由はよくわかりました。…」

 中尉宅
「太陽の、…日の出の断崖の上で、昇る日輪を拝しながら、…かがやく海を見下ろしながら、けだかい松の樹の根方で、…自刃することです」

「あ、蔵原武介だろう」
「そうだ」と勲は、貰った花をそっと懐へ納めながら断定的に言った。「あいつ一人を殺れば日本はよくなるよ」

 いつだって緊縮財政は不人気でして、インフレ政策は人気を呼びます。しかしわれわれだけが無知な国民の究極の降伏を知っており、それを目ざして努力してやっているのですから、その間多少の犠牲が生じてもやむをえますまい。」
と蔵原はじらすように、温かい微笑をうかべて、ほんのすこし首を傾けた。

勲と宮様
「はい。殿下はじめ、軍人の方々はお仕合わせです。陛下の御命令に従って命を捨てるのが、すなわち軍人の忠義だからであります。しかし一般の民草の場合、御命令なき忠義はいつでも罪となることを覚悟せねばなりません」
 早朝東京駅へ下り立った本多は、家へかえってゆっくり旅装を解いている暇もないので、出迎えの人たちと一旦別れて、まず駅構内の「庄司」で風呂に入ろうと思ったが、久々の東京の空気に触れるが早いか、何かそこに嗅ぎ馴れる匂いを嗅いだ。

 社会が何事か起るのを怖れながら待っているとき、もはやその機が熟して、どうしても何かが起らなければならぬという状態にあるとき、人々にこういう一様の表情が浮ぶのではあるまいか。

変電所爆破 要人暗殺 日本銀行放火

回想
「松枝清顕之墓」とだけみごとな隷書で刻まれている。花活けに花はなくて、一対のつややかな樒が挿されている。
 本多は拝するより前に、しばらくその前に佇んだ。
 あれほど感情のみを糧に生きた若者が、こうして一基の石塔の下を住家にしていること以上に、不似合なことはなかった。…こんな冷たい石材の影像は、清顕のどこからも窺がわれなかった。

「堀中尉は満州へ転属だ。もう一切手をかしてくれないばかりか、決行の中止を強制してきた。飛行機のほうの志賀中尉も脱落した。これで軍部とは縁がなくなった。われわれはどうすればいいのかをこれから考えよう」

勲と槙子
 そのときから酔いがはじまった。酔いは或る一点から、突然、奔馬のように軛を切った。女を抱く腕に、狂おしい力が加わった。抱き合って、檣のように揺れている自分たちを勲は感じた。

刑事
 こうして十一人は手錠をかけられて四谷署へ連行された。同じ日の午後、靖献塾へかえって来たところを、佐和も亦逮捕された。

飯沼父
「本多さんにこんなに世話になりながら、御厚意を無にするような打明け話をするのは辛いが、本来、依頼人と弁護士の方との間には、何の秘密もあってはならぬものでしょう。だから申し上げてしまうのでありますが、それは私ですよ。私が警察へ倅を密告したのです。そしてあわやというところで、倅の命を救ったのです」

 そうは云っても、目前の飯沼の無礼な言草に、多少はむっとする筈の本多が平静でいられるのには理由があった。これだけ言ったあとの飯沼が、密談だと言って夙に女中を遠ざけてある小座敷で、いよいよ独酌をいそがしくしているその毛深い指さきの慄えを見て、本多は飯沼が決して口にしない或る感情、おそらく彼の密告のもっとも深い動機であったもの、すなわち、息子が今まさに実現するかもしれなかった血の栄光と壮烈な死に対する、抑えきれぬ嫉妬を読んでいたからである。

拘置所
「そうだよ。アカだよ。しぶとい奴はああいう目に会うんだ」
「では俺の思想はどうだというんだ。ああして打たれるのが思想の特質なら、俺のは思想ではないというのか」

 公判に入る数日前に、依然として面会は許されなかったが、槙子からの差入れがあった。勲は強い感動を以てこれを受取った。それは三枝祭の笹百合だった。
 永い旅をしたあげく、刑吏の手に弄ばれた一輪の百合の花は、やや衰え、しなだれていた。しかし決起の朝胸に秘めようとしていた百合に比べれば、みずみずしさも艶やかさも比較にならなかった。それはなお神の広前の朝露の名残を宿していた。
 槙子はこの一茎の百合を勲に差入れるために、わざわざ奈良へ行ったのであろう。そして持ち帰った幾多の百合のなかから、もっとも白く、もっとも姿の佳い一輪を選んだのであろう。

裁判・槙子
本多弁護士 では、昭和七年十一月二十九日の記述のうち、飯沼被告に関係のある部分だけを朗読いたします。
…聡明な槙子は、あの別れの直後に、すでに今日在ることを察して、自分が証人に出るこの瞬間のために、武備を整えたにちがいないのである。何のために?疑いもなく、ただ、勲を救うために!

勲の陳述
―本多は裁判長の顔を目ばたきもせずに見ていた。勲の陳述が進むにつれ、そのしみの散った老いた白い頬が、次第次第に、少年のように紅潮してくるのを本多は見た。勲が語り終わって、椅子に腰を下ろすと、久松裁判長はいそがしく書類をめくったが、これは感動を隠すための無意味な仕草であることが明らかだった。

蔵原刺殺
 勲は深く呼吸をして、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあてて、左手の指先で位置を定め、右腕に力をこめて突っ込んだ。
 正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。

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感想投稿日 : 2016年6月26日
本棚登録日 : 2015年10月2日

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