朗読者 (Shinchosha CREST BOOKS)

  • 新潮社 (2000年4月25日発売)
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ヘッセやマンの作品に顕著であるが、少年が人生の上で経験を積み、やがては大人になって行くまでを描いた「人格形成小説(ビルドゥンクスロマン)」という文学的伝統がドイツにはある。『朗読者』もまた、その構成を借りている。15歳の主人公は気分の悪くなったときに助けてくれた母ほども歳の離れた女性に恋し、関係を持つ。逢う度に彼女は少年に本の朗読をせがみ、いつしかそれが二人の習慣になる。ある日、突然彼女は失踪し、失意の少年は心を開くことをやめ、やがて法学生となる。彼女を再び見たのはナチス時代の罪を裁く裁判の被告席であった。刊行以来5年間で20以上の言語に翻訳され、アメリカでは200万部を越えるベストセラーになったという話題作である。日本でも発売当時、多くの書評に取り上げられたことは記憶に新しい。

ややもすればセンセーショナルな話になるところを抑制の効いた文体と感情に流されない叙述で淡々と進めていくあたり、作者の並々ならぬ力量を窺わせる。ミステリーでデビューした作家らしく巧みに張られた伏線が、平易な文章と相俟って読者を最後まで引っ張って行くところがベストセラーたる所以でもあろうか。主人公を戦後世代にすることで、強制収容所というテーマの重さに引きずられることなく、あくまでも個人の倫理観の問題にとどめたのも法律の世界に身を置く弁護士としての作者の資質から来ているのだろう。

全編を通じて主人公の回想視点で語られている。ハンナとの別れ以来傷を負った彼の思惟と行動は外に対して閉じられたかのように見える。15歳の時の体験に彼は捕らわれ、そこから解放されずに歳をとってしまったもののようだ。彼がそこに固着するのは全幅の信頼と愛を傾けていた存在を去らせたのが自分の不誠実な態度であると感じた事によるが、彼女の秘密を知った後でも彼のとる行動は誠実なものとはいえない。彼にはハンナが理解できないからだ。

ハンナの場合はどうか。未成年を誘惑するような仕種やその後の行動も、文字を知らないことが分かってみれば、蛇に誘惑されて林檎を囓るまでのイブのように無辜で明るい。彼女に翳が差し、暴力的な事態が現れるのはいつも文字が介入してくるときだ。ハンナが彼の前から姿を消すときも、かつて雇われていた会社を辞め収容所の看守になるときも同じである。

文字を知るまで、ハンナにとって世界は理解を越えていた。自分の力ではどうにもならない現実に翻弄されるように生きていたからだ。だからこそ、裁判長に向かって「あなたならどうしましたか」と、問い返せたのだ。文字を知ることで、かつての自分の行為を今の自分の意識で見つめることにより無辜のハンナは消え、年老いて寄る辺のない罪人が生まれたわけである。牢獄のハンナに朗読したテープを送り続けたミヒャエルの行為は、考えようによっては残酷な行為であり、哲学者の父を持つミヒャエルは、ハンナのいる楽園に悪魔が遣わした蛇だったのかも知れない。ハンナは人間として生きることを得ると同時に死ぬことも得た。

知らないで犯した行為を果たして罪と言いうるのか。裁かれるのは、その行為を犯すまでに当事者を追い込んだものの方ではないのか。おそらく、いつの時代にあっても問い続けられるテーマである。ナチスという悪を背負い込んだドイツ。貧困ゆえの無知という事態を引き受けた個人。他者を知ろうとすることもなしに一方的な愛を請う恋人。輻輳した主題を絞り込んだ登場人物を通じて展開して見せた点に巧さが際だつ一編である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 独文学
感想投稿日 : 2013年3月11日
読了日 : 2001年10月7日
本棚登録日 : 2013年3月11日

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