スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護

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  • 青土社 (2004年3月25日発売)
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相変わらず派手やかなタイトルだ。何を書く時にも、わざとらしいスタイルを誇示し、良識派の顰蹙や論争相手の反発を誘い、あわよくば無関心な大衆も引きつけようというこの人一流の計算が働いているにちがいない。少し毛色はちがうが、作者には先に『表層批評宣言』がある。自著のパロディをやってのけているわけだ。題は似ているが、中身の方はちがう。「蛞蝓がのたくったような」と形容される独特の技巧的なスタイルは放擲して、映画批評と同じく読者にストレートに伝わる文体を採用している。

著者がここでやろうとしているのは、かつて、文学批評や映画批評の場で行ったことと同じである。文学には文学でしか、映画には映画にしかないものがある。それは、表層部分にこそ表される。ところが、多くの評者はそれを見ずに、あらかじめ用意されている「物語」へと、すべてを回収してしまおうとする。そうして、居心地のよい「物語」に収まった文学なり映画なりを見て、やっと安心して、語り合うことができるのだ。著者は、それに対して真っ向から批判を繰り返してきた。「表層批評宣言」とは、その旗幟を鮮明にした表題であった。

スポーツとは「運動」である。ところが、試合後のインタビューで訊かれるのは、プレイ中の気持ちであったりすることが多い。それは本来運動とは無関係な何物かである。日本のインタビュアーが、その手の質問に終始するのは、彼らが「運動」を嫌っているからだと蓮実は言う。持続する運動を規制し、統御するのが、規則という名の文化である。試合の結果は数字になり、記録可能となるが、運動の軌跡そのものはその場限りで消滅してしまう。文化的なスポーツの中に奇跡的に恩寵のように起こる瞬間に出会うために、人はスポーツを見るのである。

「不意に文化を蹂躙する野蛮なパフォーマンスを演じること」が運動することの「知性」であり、「それを周囲に組織する能力」が運動することの「想像力」であると、蓮実は定義する。知性と想像力が一つになった時、動くことの「美しさ」が顕現する。その意味で言えば、当然寄せ集めのナショナルチーム間で争われるワールドカップに、その美しさに出会える機会は少なかろう。ヨーロッパのクラブチーム間のチャンピオンシップを争うゲームとは、根本的にちがう。

ここで話は一気に加速する。「運動」をスポーツのこととばかり思ってきた読者は、話がイラク問題に飛ぶやいなや、スピノザやドゥルーズが登場するのに驚くかもしれない。しかし、スピノザは「運動」を止めるものは悪だと言っているし、ベルクソンは動きを止めることは滑稽だと言っているから、話の辻褄は合っている。問題は「自衛隊のイラク派遣」だとか「復興支援」という「醜い」言葉にあふれた報道に左右されて、人々が今という時間の「運動」を見ないから、所謂「運動」が高まらないのだと、蓮実は論じる。「今という動きを肌で感じる」ことができれば、時代の動きも判断できる。そのためにこそ、我々は、「運動」嫌いな人類に逆らってでもスポーツを見なければならないのだ、と。

なんだか、難しそうな話になってきたが、これはあくまでも逸脱。渡部直己や草野進を対談相手にしながら、プロ野球やサッカーについて語る対談の部分では、「ドーハの悲劇」を「ドーハの天罰」と言ってのけるなど、言いたい放題、悪口雑言のオンパレード。著者のサッカー・野球批評を「インテリのお遊び」「知的スノッブのたわごと」と揶揄する日本のジャーナリストたちに、「世界の優れたスポーツ・ジャーナリストたちは、いずれも『インテリ』ですよ」と、切り返すところなど蓮実重彦の面目躍如たるものがある。「運動」嫌いな人にこそ読んでもらいたい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 批評
感想投稿日 : 2013年3月10日
読了日 : 2007年7月4日
本棚登録日 : 2013年3月10日

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