かつて伊藤整は「小説の方法」のなかで
文壇にひきこもり、高みから世間を見下ろしてると言って
日本文士のありようを批判したのだが
段ボール箱をかぶっての生活に執着する「箱男」にも
同じようなところがあって
彼はいつも覗き穴から、世界を一方的に見つめている
しかしある時、突如として人生にかかわってきた他者…女にとまどい
自分がどうしたいのか、どうすればいいのかわからず
それに対する計画を、小説の形でノートに書きつけはじめ
やがて、そのことと直接には関連しないイメージの連鎖に
引っ張られていくこととなる
形式的には、やはり伊藤整の「鳴海仙吉」を
さらに遡ればロレンス・スターンの
「トリストラム・シャンディ」を彷彿とさせるものだが
それらとの明らかな違いとして、根底に抱えた恐怖の存在がある
他人から見られることへの恐怖であり
オリジネイターの座を脅かされる恐怖である
ファッション・モード批判としてもよいのだが
彼はつまり
固有の体験を持ちえない(とも言われる)現代人の鬱屈を
パフォーマンス化することで、逆説的に固有性へと変換したわけだ
そこのところ…そのように見られている、というところで
箱男は常に嫉妬されており
ファースト・ガンダムならぬ、ファースト箱男の座は
常に脅かされているのだった
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- 感想投稿日 : 2017年1月13日
- 本棚登録日 : 2017年1月13日
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