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シカゴ育ち (白水Uブックス―海外小説の誘惑 (143))についてのcafemetropolisさんのレビュー


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レビュー by cafemetropolisさん

 未設定  読み終わった  読了日 : 2005年07月29日  3  登録日: 2011年02月18日

日中はまぎれもない夏だが、夜半になっての気温の落ち方は、過ごしやすいとは言えないまでも、酷暑とまではいかない微妙なところになっている。

夜は、小説を読むことにしている。

スチュアート・ダイベック(柴田元幸訳)「シカゴ育ち(The Coast of Chicago)」 (白水Uブックス)という新書版のきれいな本だ。表紙は、野球選手のレリーフがついた古いラジオの写真だ。シカゴのダウンタウンを舞台にする連作短編集である。

冬のショパン(Chopin in winter)という美しい小品がある。

ポーランド系米国人の主人公の少年の家に、放浪癖のある祖父ジャ=ジャが帰ってくるところから話は始まる。ちょうど、その頃、同じアパートの大家のキュービアックさんの家の、ニューヨークの音楽大学に行っていたマーシーという娘が帰ってくる。娘は、父親の定かでない子供を妊娠していた。

マーシーは、少年が昔、良く泣いていたのを覚えているわと親しげに声をかける。少年にはそんな記憶はなかった。ただマーシーに強い親しさを感じた。

放浪癖があり、家の厄介者の祖父は、台所で、バケツにお湯を入れ、しもやけだらけの足を暖めながら、じっとしている。少年はその側で、書き取りの宿題をする、そんな生活が始まった。

マーシーが練習するピアノの音が階上から毎晩聞こえるようになる。

この立派なピアノは、ヨーロッパからやってきたユダヤ人の有名なピアニストがコンサートのためにはるばる運んできたが、病気になって、ドイツに戻り、ホテル代の代わりに競売に出され、彼女たちのもとへとやってきたものだった。

キュービアックさんの夫も、少年の父も、その戦争で命を落としていた。

階上から、家の隅々を通って聴こえてくる、マーシーのピアノ。ショパン。ジャ=ジャは、老衰を隠せないが、その中でも、ポーランドの血を滾らせるように、マーシーのピアノに反応し、自らテーブルをピアノに見立てて、空想の演奏の中に没頭する。

「あの娘はワルツを一つひとつ弾き進んでおる」密談でもするみたいないつもの低いしわがれ声でジャ=ジャは言った。「まだ若いのに、ショパンの秘密を知っているよーワルツというのはだな、人間の心について、賛美歌なんかよりずっと多くを語れるんだ。」

 僕が寝る時間になるころには、台所のテーブルの揺れも激しくなり、もうそれ以上書き方の練習をするのは不可能だった。テーブルの向こう側で、髪の毛も眉毛も耳の房ももじゃもじゃの白と化したジャ=ジャが、体を左右に揺さぶり、ぎゅっと目を閉じた顔に恍惚の表情を浮かべて、指先でテーブルの上を叩いていた。ジャ=ジャはテーブルの端から端まで目一杯使って演奏した。体が傾き、ねじれるなかで、指が鍵盤上を滑走する。左手がフォークやナイフを鳴らす和音をたたき出し、右手は薄汚いオイルクロスを横切り、走句(ラン)を駆け抜ける。空っぽのバケツが両足をぐいぐい押した。ジャ=ジャをじっと見つめてから、目を閉じると、二台のピアノが鳴っているみたいに聞こえた。」

マーシーはだんだんとピアノを弾かなくなる。しかし、幻想のジャ=ジャには、ショパンがくりかえし、響く。そして、少年に、今、何を弾いているかをくりかえし聞く。

マーシーのピアノが、家の隅々の空間や空隙を通じて、少年に伝わってくる日々が続く中で、自分の泣き声をマーシーが聴いたという言葉が甦ってくる。ある日、ピアノの音の中で、少年に記憶が甦ってくる。

「部屋から部屋を歩きながら、母さんは泣いていた。僕には聞いたこともないような泣き方だった。僕は大声を上げたにちがいない。母さんが部屋に来て、蒲団を直してくれたからだ。「大丈夫、何でもないのよ」と母さんは囁いた。「いいからお休み」。母さんはベッドの足側の、窓の外が見えるところに腰かけて、静かに泣いた。じきに、母さんの肩がふるえ出した。僕は寝たふりをしていた。父さんが戦死してから、母さんはそんな風に行く晩も泣いた。マーシーが聞いたのは、僕ではなく母さんの泣き声だったのだ。」

マーシーはそのうち、家を出る。ジャ=ジャもまた、人知れず、家を去った。しばらくして、マーシーからは母親に手紙が来、母親は、彼女を訪ねていくが、その後、ミセス・キュービアックは娘のことを話さなくなった。

「音楽が消え去るには時間がかかった。通気口のなか、壁や天井の陰、浴槽のお湯の下、僕はいたるところにその断片を聞きつづけた。パイプや、壁紙で覆ったダストシュートや、煉瓦で固めた煙道や、薄暗い廊下を通って、残響が伝わってきた。(中略)そして、とうとう音楽が止んでからも、音の経路はそのまま残って沈黙を運んできた。ごく当たり前の、何もない空っぽの沈黙ではなく、夢想も記憶も届かないところにある純粋な沈黙。それが訪れる前に聞こえていた音楽と同じくらい強烈な、そして、音楽と同じように、それを聞いた人間を変えてしまう力を持つ沈黙。それは古い建物の込み合った喧騒を静まり返らせた。それはずっと前からそこにあったのだ。軋みや、すきま風や、ぱたんと閉まるドアの陰に。ばりばりと雑音の混じるラジオの蔭に、トイレで水を流す音や足音やぱちぱちとはねる油の蔭に。掃除機や薬缶や赤ん坊の泣き声の蔭に、人々が自分個人にかかわるすべてのものとともに自分自身をとじ込めているアパートから漂い出る切れぎれの会話や言い争いや笑い声の蔭に、それはあったのだ。

もう彼女を恋しがらなくなってからも、残された沈黙が僕にはまだ聞こえていた。」

この最後のパラグラフを何度も、何度も、読みかえしている。読みかえすたびに、何か新しい音が聞こえてくるような気がした。 レビュー登録日 : 2011年02月18日


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