『孤高の人』と比べるべく読んだわけではないが、高所恐怖症の私には「山に登る」と言う行動は「やってはいけないこと」として認識されている。自殺行為として行うのであれば(作中、眠剤を飲んだ後に登り体調を可崩すと言う描写もあった)、それを選択するのはありだと思うが、簡単に命を投げ出す為に登るものではない、と島崎三歩の姿が言っている。
『孤高の人』の森文太郎はクライマーとして山に登る様を見せつけた作品だった。クライマーとは何か。
『岳』の三歩はクライマーでありながら北アルプスにてボランティアで「救助」を行う人間であり、彼がとって山は住処であり、庭であり、山に常駐しているからこそ、いつでもどこでも救助に行ける、そのために山にいる、と言う存在だった。
その彼が16巻で7年ぶりくらいに自分の為に山に登った。途中、エベレスト登頂ガイドをしている昔なじみのオスカーと出会い、物語の終盤は三歩自身の登頂の難しさを描写しながら、それを達成し、その後にオスカー隊の救助に向かう、と言う展開になる。
彼にとって救助とは何だったのだろう。要救助者を見つけた時、彼は毎回「良く頑張った」と声を掛ける。良く生き延びていた、と言う意味だ。頑張ったが助からない命に対して、軽んじるではなく、家族の元に遺体を届ける為に彼は運び上げる。エベレストのデスゾーンでは、そんな事は不可能と誰よりも知っていながら、彼は行ってしまった。救助者が生きていると信じて。
もし、彼が着いた時、要救助者が生きていたら、彼は下山出来ただろうか。漫画の様に、火事場のクソ力で、これまでやってきた様に。そこへ行くことは出来ても戻れない可能性の方が高いと承知で、彼は「救助者としてのクライマー」として登らずにはいられなかったのだろうか。
森文太郎が自分の為に山に登る、ただそれだけに徹したのに対し、三歩は「遭難者を救助する」為に山に登る事に特化し、彼が山に登る行為そのものがいつの間にか「自分の為」の様でそうではなくなってしまったからじゃないだろうか。
『東京喰種』の中でも、CCGによるあんていく掃討作戦時、店長や入見・古間が囮となり、他のあんていく組を逃がす作戦を取る。その時、逃げて欲しいと考えられていたカネキは止めに来た月山に「何も出来ないのはもう嫌なんだ」と言う言葉がある。:reでは、自分を逃がす為に囮になった父の姿を見て、月山はその時のカネキの心中を理解する。
人間は「自分の為」よりも「人の為」の方を優先する生き物なのかもしれない。
一気に18巻まで読み切ったので、まだ頭の中に入り切ってない部分もあるが、三歩には「闇」がない。それは彼の元々の性質かもしれない。闇がないからこそ、彼は上へ上へ、光の方へ登って行ってしまったのかもしれない。18巻、終盤、それでも三歩ならやり遂げるに違いない、と思って読んでいたので、涙が止まらない。
- 感想投稿日 : 2016年1月22日
- 読了日 : 2016年1月22日
- 本棚登録日 : 2016年1月18日
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