<rdf:RDF 
 xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
 xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
 xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
>
<channel rdf:about="http://booklog.jp/users/yosy/rss">
  <title>Cyber&#039;s Bookshelf</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515</link> 
  <description></description> 
  <items>
    <rdf:Seq>
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457166"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457158"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/410145714X"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457131"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457123"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/B000KLO6QI"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/B004P0A1H8"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4478410232"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4122026644"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4061595628"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4569668631"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/410135281X"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/456966427X"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4813314449"/> 
            <rdf:li resource="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4003105117"/> 
          </rdf:Seq> 
  </items> 
</channel> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457166"> 
  <title>まだ遠い光―家族狩り〈第5部〉 (新潮文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457166</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51K8R03S5ZL._SL160_.jpg" /><p>天童荒太氏の長編小説『家族狩り』の第五部で、最終章。

最初はただの点同士だった登場人物の関係も、次第に触れ合い、線となる。登場人物の関係も、章を追うにつれて少しずつ変化し、やがてそれが、人によっては好転し、人によっては暗転する。
だが、結局はそれも、見方次第では好転の一つとも成り得るのだと気づかされる。本当に、その人が心の内でどう思っているかなんて解らない。勿論、100%理解することなど不可能だろう。しかし、たとえしつこいと思われようと、その人に対して真摯に話す、または話を聞こうとする意思が無ければ、いつまで経っても0%のままなのだ。そうやって、人との関係は悪化し、遂には暴力沙汰になることだってある。それが、たとえ最も安らぎに満ちているはずである家族の中であっても。

本書で発生した、数々の家族の内に起きた痛ましい事件。家族間で亀裂が生じ、社会的にも爪弾きにされたようで孤独を感じた子供が引き起こした一家心中、と思われた事件。その全容が明らかになる。
本書の読者は、心中の線も無くは無いと思うだろうが、読み進めるにつれて、他殺の線もあると思うだろう。そして、第三部の巣藤が馬見原に話した内容から、事件を引き起こした黒幕が次第に明らかになる。
そして明かされる首謀者の独善に満ちた動機。『DEATH NOTE』に登場するキラのような考えと振る舞い。兼ねてから人々が潜在的であれ顕在的であれ考えていたことを実行したわけだから、彼らの考えが全く理解できない、というわけではない。首謀者は首謀者なりに、社会を変えようと奮闘したのだから
。それでも、変わらない、変えようともしない人も少なからずいたのだから。しかし、だからと言って、まるで社会への見せしめのために、彼らを殺すのは、果たして正しい行いなのだろうか。『DEATH NOTE』でも、結局はそれを受け入れるか、自分で考えるかのどちらかになる、絶対的な正義などどこにも存在しない、というところに帰結すると思う。

ミステリー作品と謳われている部分があるが、そこまでミステリー色が濃い作品ではないと思う。どちらかと言うとヒューマンドラマだ。それも、人との繋がりや触れ合いによって、少しずつ、緩やかに変化をもたらすヒューマンドラマ。
登場する人物が、最終的に全ての面にかけて変化したわけではない。登場した時に比べれば大いに変化した人物もいるだろうが、あまり変化したようには見えない者もいる。それでも、何らかの形で『変化』したことに変わりは無い。まるで、本当の人生を追走しているかのようだ。
ある意味、すっきりした終わりは見出せていないのだが、人生という長い旅路は、得てしてそういうものではないのだろうか。それでも、明日、また明日と、ほんのちょっと違った『変化』があるのだから、人生は面白いし止められない。そんな感受性をもたらした作品ではないかと思う。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-09-04T16:02:17+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457158"> 
  <title>巡礼者たち―家族狩り〈第4部〉 (新潮文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457158</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/5149M6V6Q7L._SL160_.jpg" /><p>天童荒太氏の長編小説『家族狩り』の第四部。

物語はここで著しく変化する。登場する家族の中で発生した亀裂は、少しずつ大きくなり、その亀裂に気付いていつつも、何もしなかった、見て見ぬふりをした、何とかしようとした者もいた。しかし、どうにもならない。亀裂は大きくなり、やがてそれは大きなうねりとなる。
第三部で、内部に潜む見えない虫のようなものが蠢いているような感じがして、ひどく不愉快な感覚を覚えたが、第四部までになると、それまでが嘘のようにあまり感じず、まるで麻痺してしまっているようにも思えた。毒性の強い劇薬に触れ続けた結果、身体の隅々に至るまで感染してしまったかのような感覚すらも覚える。
第三部でも触れたが、そうすることで、取るに足らないようなほんの僅かな好事に触れただけでも、救いを求めるような気持ちになれるのは、著者の狙ったところの所以だろうか。

そして、これまでほんの一つの伏線に過ぎなかった「害虫駆除」の要素が、ここで大きな意味を持つようになる。少しずつ明らかになる全体像。「害虫駆除」と、一家惨殺との相関関係。そして、ペットの死体の放置。
のめり込めばのめり込むほど、他の要素がおざなりになり、ついにはその他の要素にそっぽを向かれたり別れを告げられるような結末になってしまうのは、本書に登場する人物に似たような境遇で、何とも皮肉なものであろう。

前にも述べたと思うが、本当に思う。世の中は、ここまで荒んでしまったのか、と。あまりにもその荒み様がマジョリティのように綴られており、「こんな世界は変えようがない」と嘆き、半ば諦めに走ってしまうのではないかと心配をもしてしまう。
「どうしようもないと嘆くなかれ」「世界はこんなに素晴らしい」と、メディアがこぞって紹介しても、自分の身の回りの荒み様を目の当たりにすると、そうにも思えてこなくなってしまうのだろう。本書が、所謂そういった心情の『とどめ』になることにならないことを祈るばかりだ。
だからと言って、本書を有害図書に指定するわけにもいかない。フィクションであり、少数ながらも、本書に綴られている内容は、半ば現実として起こっているのも事実だ。
そういったことを目の当たりにして、私たちはどう行動すべきか。世界規模の壮大な問題も、ほんの小さな家族の問題も、その根幹は同じなような気がする。家族の問題を解決してこそ世界の問題にも相対できるし、世界の問題の解決が、ゆくゆくは家族の問題解決につながるかもしれない。やりがいによる優劣をつけず、別個の問題として完全な切り離しを行わず、やはり同時に真摯に立ち向かうべき問題ではないかと思う。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-09-04T16:02:04+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/410145714X"> 
  <title>贈られた手―家族狩り〈第三部〉 (新潮文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/410145714X</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51AJR3KKQML._SL160_.jpg" /><p>天童荒太氏の長編小説『家族狩り』の第三部。

本作の折り返し点となる第三部。
ここまで読んで、難しく重苦しいテーマを取り上げてはいるものの、文章としては読みやすく、くどくどした描写もなく、スラスラと読むことが出来る。しかし、読了した後の遣る瀬無さは募るばかりか、読んでいてイライラしてくるのも事実だ。
それは、道場人物の話が遅いとか、行動を取るのが遅いとか、そういうものではない。あまりにも、登場人物の負の面がクローズアップされて、いかにも「これが世界です」と言われているような描写が続く。一人一人の負の側面は、一個人としては本当に小さく、人間固有の臆病さを象徴したものである。しかし、その個々の小さな負の側面が、一つに集まり、モンスターとなって、物語を全体的に蠢いているかのような、いやらしく気持ち悪い感覚が襲いかかっているのだ。

人間は完璧ではないのは皆知っている。少なくとも頭では理解できるだろう。だからこそ、本書の登場人物が、あたかも負の側面しか持っていませんと言わんばかりにクローズアップされているのが、どうにも鼻に付くというか、無性にイラつかせるのだ。
特に、正論で論破されると、客観的に論理的に見てそれが正論であっても、まるで打ち負かすような持論を振りかざしたり展開されると、果たして『正論』としてカテゴライズされるものなのか、疑いをかけたくなる。さらに、盲目的にその『正論』を追随している人の姿を見ると、怒りを通り越して、哀れに見えてくる。
「『正論な』んだからいいんじゃないか」と思うかもしれない。しかし、『正論』は時として残酷な様相としてその人に襲いかかる場合もあるし、ここまで世界の価値観が多様化すると、この世の全ての論理が『正論』になり得るし、または全く成立しえなくなることだってある。それが本当に「自分にとって正しいことなのか」を判断するのは、後にも先にも自分なのだ。もっとも、深刻な問題を、特に家族という最も身近で最も離れがたい問題を抱えていると、自分で冷静な判断をつけることが出来なくなってしまうのも事実であるが。

しかし、そんな読んでてイライラしてしまうことも、作者の思惑の一つなのかもしれない、と思うこともある。
そんな、負の側面が連綿と続く中で、ポッと出てくる、ほんわかした展開。何気ない日常の、何気ない会話のやり取り。取るに足らない描写のように感じても、負の側面に満ち満ちた文章を読み進めている中で、ほんのわずかな希望として照らし出される。特に、馬見原警部補の奥さんの佐和子が、ウォーキングでうずくまっているところを、見知らぬ青年に助けられた。その青年も、数日前にホームレスに助けられた。そのホームレスは、さらにその前に芹沢亜衣に助けられた…
そんな、何気ない手の差し伸べの連鎖。誰からジャパニーズ・ドリームを手にしたわけではない、本当にささやかな連鎖。ただそれだけで、涙が出たのを感じた。きっと、負の連鎖の文章が続かなければ、こんな思いはしなかったのかもしれない。


そして、そうこうしているうちに、事件は刻々と展開していく。小さな問題が、その時小さくてもいつしか大きな亀裂となる。また、次なる連鎖へと続いていくのだろうか。負の連鎖を止めるには、何よりもまず、その負の側面に向き合うことから始まるのだと思った。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-09-04T16:01:52+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457131"> 
  <title>遭難者の夢―家族狩り〈第2部〉 (新潮文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457131</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51MK5QZJBPL._SL160_.jpg" /><p>天童荒太氏の長編小説『家族狩り』の第二部。

『家族』とは、この世で最も頼れるコミュニティでありながら、この世で最も残酷な面を見せる時がある。『血』という、最も強固で、最も抗うことが出来ない繋がり。
社会の荒波に揉まれ、揉まれ続け、今にも自分の存在や存在価値すらも消え失せようとしている時でさえも、暖かく迎え、包み込んでくれるかのような優しさに満ち溢れた世界。それが『家族』。そのはずだった。
いつから、最も近い存在でありながら、最も分からない関係になってしまったのか。いや、分からないのではない、分かろうとしなかったのだ。そのツケは、やがて大きな心の闇と増長し、最も起きてはならない安らぎに満ちているはずの世界で、起こる。
しかし、その真相に潜む『何か』については、結局のところ、誰にもわからない。

そしてもう一つ。これは言葉では広く伝わっていることだが、本書でこそ生々しく感じること。それは、「大人は、子供が思っているほど大人ではない」「子供は、大人が思っているほど子供ではない」。
家族と親戚しか知らなかった子供が、学校に入り、勉強し、友達を作る。親が知っている範囲、知らない範囲にかかわらず、どんどん子供は子供なりの社会を築き上げ、そして学んでいく。いつしか、子供でしか分からない、共有できない悩みも増えていく。子供でしか共有できない、というのは、大人とは共有したくないか、大人と共有したところで何も解決してくれないから、なのが一番の理由なのだろう。だって、大人こそ、普段の生活や仕事の中でヒーコラして、ろくに子供の（つまり自分の）ことなんか、見てくれないから。「いつでもお前のことを見ているよ、信じているよ」なんて、形骸化した言葉に過ぎない。
子供は飢えている。でも、それは物質的なもので満たされるものではない。だから、いくら食べても、いくら飲んでも、決してその『飢え』は満たされない。さらに、子供はそれを言葉としてのSOSとしては発しない。普段の生活や仕事にいっぱいいっぱいの大人達は、いつしか子供のSOSには気づかなくなるか、見て見ぬふりをする。「稼ぐのは父親の役目、家庭を守るのは母親の役目」なんて、子供からすれば逃げ口上。それが、コミュニケーション不足のトリガーとなり、やがて適切な言葉を発することがなくなってしまう。

負の連鎖は、見えないところで、小さなところで、見落としがちなところで始まる。砂の楼閣が、音もなく崩れるように。
そして、いったん崩れてしまうと、その連鎖を止めることは容易なことではない。信じたいのに、やり直したいのに、心が動かない、体が動かない。そして、やはりどこかに逃げるか、弱い立場に自分の遣る瀬無い力の矛先としてぶつけるか、のいずれか。軒先で、動物の遺骸を捨て去る行為なんか、まさにそうではないか。


一方で、第二部から、登場人物の身の回りに起きる大小様々な事件が、止め処なく起こり始める。まるで堰を切ったかのように。弱い立場の人間が、さもレジスタンスの英雄であるかのように社会に対して行動を起こす（ほとんどが犯罪）様子は、模倣犯を生み出しがちであるが、あまりにも起き過ぎではないか、と思えるくらい、短時間で、集中的に、そう広くない範囲内で起きている。
関係ないように思えても、全く関係ないようにはなっていない。そんな風に読者を思わせる描写は、きっと、本書のテーマの根幹となる『何か』が潜んでいると、思わずにはいられない。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-09-04T16:01:29+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457123"> 
  <title>幻世(まぼろよ)の祈り―家族狩り〈第1部〉 (新潮文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4101457123</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51R7GCVKQKL._SL160_.jpg" /><p>天童荒太氏の長編小説『家族狩り』の第一部。
もともと、1995年に同名の小説が発刊されているものの、登場人物や取り扱う事件はそのままに、新たに書き直し、独立した物語として綴った物語。

何人か登場人物がいるが、主な登場人物は、児童相談センターの職員である氷崎游子。刑事の馬見原光毅。美術教師の巣藤浚介。何か特別な能力があるわけでもなく、社会の一員として、自分のやるべきことを全うしている、普通の社会人。見た目は。しかし、各々、振り払おうとしても振り払いきれない闇が心の中で、または底で鬱積し、火をつければ今にも爆発しそうなところを必死になって堪えている、そんな様子が窺える。第一部では、氷崎游子に関する個人的な情報は皆無に等しいが、あまりにも非の打ちどころが無い、与える隙も見いだせない言動は、やはりどこかで彼女の暗い生い立ちを推測せずにはいられない。


読了した後に襲いかかる遣る瀬無さは、まだ第一部であるにも関わらず、量・質ともに計り知れない。これは、2006年にゴールデン・グローブ賞を受賞した『バベル』の鑑賞後にも似た遣る瀬無さに似ている。
言葉は日本語。別に喋ることに関する生涯を負っているわけでもない。それでも、心が、通じ合わない。いや、むしろ通じ合いたいという気持ちと通じ合いたくないという気持ちが交差して、マーブル状に絡まって、感情の吐き出す筋が見いだせていない状態になっている。
言葉で言い表せないから、行動でそれを表現する。それが、人を幸せにする、いい方向へと向かわせるものだけではない。全てがそうとは限らない。もしくは人によって、大きく解釈を異とすることだってあり得る。結果、不穏の念だけが募り、不穏が不穏を呼び、大きな不穏となって、事件を引き起こす。

相対的な数量で言えば、日本国内の犯罪件数は、減少傾向になっているのだという。事件の捜査を行う上での技術や、情報の伝達経路が著しく進化すると、これまで見逃しがちであった事件が顕在化し、見た目にも犯罪件数が増えているように見えがちになるにもかかわらず、である。
しかしそれは、公に発表された数量の範疇内の解釈であり、事件の本質や闇に隠された部分は、きっと、当事者でないとわからない。単純に事件として取り扱われていないだけ、体面を気にして被害届を出していないだけで、もしかしたら、これまで以上の事件が発生しているのかもしれない。
果たして私たちは、そういった事実・現実に、一体どれだけ目を向けているのだろうか。
たとえ本書の根幹が、1995年の世相を反映させたものだとしても、引き起こされる事件の内側・裏側は、きっと今と大きな違いはないはずだ。どんなに技術が進歩をしても、情報網が広くなっていても。コミュニケーションを促す技術が発達しても、やはりどこかでそのツールの便利さに身を隠して、本当の自分を晒さずにいるような気がしてならない。それは、私自身を含めて、である。
最も身近なコミュニティである『家族』。そのあり方と、自分との接し方、それを一度深く見つめなおす機会を与えられた作品であるように思う。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-09-04T16:00:27+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/B000KLO6QI"> 
  <title>You Know My Name</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/B000KLO6QI</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51027vGLJUL._SL160_.jpg" />]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-08-11T08:57:50+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>music</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/B004P0A1H8"> 
  <title>いとしき日々よ</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/B004P0A1H8</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41WaZHyzzQL._SL160_.jpg" />]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-08-11T08:57:27+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>music</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4478410232"> 
  <title>マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4478410232</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41AY8WEF74L._SL160_.jpg" />]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-07-29T09:22:21+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4122026644"> 
  <title>日本人と日本文化 (中公文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4122026644</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51813JNB56L._SL160_.jpg" />]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-07-29T09:06:14+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4061595628"> 
  <title>果てしなく美しい日本 (講談社学術文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4061595628</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/6179G656VGL._SL160_.jpg" /><p>日本文学研究者ドナルド・キーン氏の、日本観についてまとめた一冊。

もともと、アメリカ向けに日本を紹介するために執筆したための本ですが、日本語版として翻訳・編纂されたのが本書になります。さらには、第一部『生きている日本』のオリジナルが1973年に刊行されたものであるから、21世紀になって10年以上も経過する昨今において本書を読むと、ところどころで聊か古めかしい時代の感覚を覚えます。
しかし、1970年代前半の世相に比べ、国際的な情勢や情報の質と量、価値観に変化・変質が見られるとは言え、日本人としての根幹となる部分、本質の部分は大きく変わっていない、というよりほとんど変わっていないことが、本書から見受けられます。また、生粋の日本人ではない、アメリカ出身の日本（文学）研究者であるからこその視点に、ドキッとするところもあり、その鋭い観察眼によって綴られた本書に散りばめられた言葉の端々には、目を見張るものがありました。

本書における、キーン氏の日本観の基点は、宗教。といっても、ベタベタに宗教の語っているのではなく、また特定の宗教を推しているものでもなく、日本観を述べるにあたって宗教を一つの『ツール』として客観的に使役している、という具合です。
日本という国土とその地理、海に囲まれていること。国土の大半が山と森林に覆われているということ。そこから生まれ、そして派生するものの考え方、『外国』というものの意識とその文化を対比し受け入れるしなやかさ、けれども全てを受け入れているわけではない強かさ。時代と時間という縦軸と、教育や政治、生活習慣という横軸を巧みに交差させ、細かい文字を300以上のページにぎっしりと詰まらせながらも、決して高尚な専門性に終始帰結するような、窮屈した文体ではなく、むしろスラスラと読むことが出来ました。もちろん、1970年代前半の世相を、時を超えて読んでいるため、ところどころで時代背景の差異に異なる印象を受けつつも、概ね日本観と日本人観は、劇的な変化を遂げているとは言い難く、むしろ何となくですが、ホッとしてしまいました。

後半の二部は、内容は双方ともほぼ同じで、キーン氏の講義内容を文章化したものです。双方とも、日本を知る、日本を研究する、日本に来日した、日本人ではない人物の研究誌や観察記録を交えた内容になっています。これまで、日本についていたく感心した人物であっても、方や違う視点・違う考え方を持っていたんだな、ということを知らされました。単に手放しで日本とその文化を褒め称えているのではなく、勿論、好んでいる部分もあるのでしょうが、総じて冷静で客観的な観察眼で綴られていることに、研究者としての冷徹な姿勢を垣間見ることが出来たと思います。

あまりに偏った、ある種の欺瞞に満ちた日本観を綴っている本より読み応えがあると思います。勿論、自分自身の目で日本観を、自分の足で歩きながら確かめるのは言うまでもないですが、冷静かつ客観的な他者の目を、多角的にとらえながら『日本』という国を研究することも、大切であるし、価値のあることではないかと思います。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-07-29T09:05:44+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4569668631"> 
  <title>なぜ、働くのか―生死を見据えた『仕事の思想』 (PHP文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4569668631</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41Daa2V1gwL._SL160_.jpg" />]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-07-29T09:05:04+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/410135281X"> 
  <title>散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道 (新潮文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/410135281X</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/512ANI6sO6L._SL160_.jpg" /><p>心が震える本に出会った、というのは、正にこのことではないのでしょうか。勿論それは、史上類を見ない凄惨な戦いが繰り広げられたから、だけではありません。
過酷な環境でありながら、本土からの十分どころかまともな支援や補給すらもなく、防衛線の要であるはずがあっさりと見捨てられ、米軍との圧倒的な戦力差をその身を以って知らしめられる。それでも尚、「本土に残った大切な人たちが傷つかずに、もしくは傷つくのを遅らせることが出来れば」という想いで戦ったことに。日本軍の指揮官・栗林忠道中将は、隊員の目線に沿い、仲間を家族と同様に接し、その心情と覚悟を慮りながらも、隊員の玉砕覚悟の攻撃を禁じ、常に現実を見据え実践的な戦いを繰り広げたことに。泣き言や美辞麗句は全くと言っていいほど使わず、家族を思いやり、良き夫として、良き父として手紙を送り続けたことに。
そして、そんな栗林中将の辛く苦しい想いを踏みにじるかのように、補給も少なくなり手紙の配送もなくなり、あまつさえ彼が残した訣別電報を改竄したという行いに。

本書は、硫黄島の戦いを、単純に時系列を追って紐解く戦史小説ではありません。栗林中将をはじめ、硫黄島の戦いで散っていった人たちの、正に信念と想いの結集でもある様々な手紙、そして、彼らが何よりも大切にした、家族や仲間の証言を元に綴られたノンフィクション作品です。特に、栗林中将の人となり、家族について、そして彼が施した戦術やリーダーシップについて綴られています。それだけ、栗林中将が、家族に、そして仲間に慕われたに他ならないのでしょう。
この小説に登場する、硫黄島の戦いと、太平洋戦争を生き残った人たちの様々な言葉の端々。懐かしさと残酷さが入り混じる日々を生き延びた人たちの声。認められた手紙。それらを目で追いながら読み、目頭が熱くなったのは、一度や二度ではありません。

本書で到る所に見られる、栗林中将の手紙。そのほとんど、いや全てと言っていいかもしれません、勇猛果敢で、さも軍人のごとく、皇国のために自らの身を捧げんばかりの内容はありません。妻のために、息子のために、娘のために、時には、本土に置いて行かざるを得なかった子供の目線で認められた手紙。何とも愛らしく、微笑ましい文面が飛び込んできます。本当に、これから死闘を繰り広げる将軍が書いた手紙とは思えないくらい。
けれど、それも栗林中将ならではの思いやりなのでしょう。余計な心配はさせたくない。過酷な環境だけど、元気にやっている。戦争で生きるか死ぬかより、家のことが心配である。神経質というより、むしろそうやって気を紛らわせているとも捉えられなくもありませんが。
その思いやりも、時を経るにつれてだんだんと憔悴しきってしまう。摺鉢山をやすやすと米軍に取られ、補給も少ないままに凶悪的な武力で圧倒され、それでも立ち向かわなければならないという重圧。そんな中でも、決して美談で終わるような戦闘の仕方を良しとせず、最後まで踠いて足掻いて、やるだけのことをやり尽くそうとする。
僕を含め、今の世の中に、彼のような冷静なまでに状況を把握し、どんなに絶望的な状況であっても最低限の目的だけは果たそうとする姿勢で、何事にも取り組む人が、どれだけいるか。ましてや、今も尚、悪い状況状態は、まるで臭いものに蓋をするかのごとく隠ぺいしてしまう始末。こんな愚かしいことが、60年以上経過した今も、平然と行われているなんて。

「予は常に諸子の先頭に在り」

栗林中将の名言とも言えるこの言葉。長引く不況で苦行に喘ぎながらも、どこか閉塞的で安穏としているともとれる日々。そんな中でも、どれだけ、先頭に立ち、先頭から現実を見据え、未来を切り開くだけの勇気とリーダーシップを発揮することが出来るか。
家族と仲間を思いやる傍らで、その生き様が強く込められた作品であると思います。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-06-16T20:38:52+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/456966427X"> 
  <title>武士道 (PHP文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/456966427X</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41R05GQVR8L._SL160_.jpg" /><p>言わずと知れた新渡戸稲造氏の代表作。

教育者である新渡戸氏が、日本の宗教的教育について尋ねられたところ、欧米ではキリスト教が存在するのに、日本にはないことから、日本における道徳的教育の根幹を調べた結果、辿り着いたのが『武士道』だった。
本来、新渡戸氏著の『武士道』は、近代化の道を進む日本の中で廃りつつある武士の時代の道徳的習慣や観念を呼び戻そうとしたり、声高に、それこそ他の宗教や観念に比して優れていると主張するものではない。単純に、日本と日本人、そして日本人がこれまで培ってきた道徳や習慣を知らない海外の人に対する解説書である。
それ故、さも武士の心得を、まるで家訓のように挙げ連ねるのではなく、極めて客観的に、且つ哲学的に綴られている。また、一方的に日本国内での研究内容を述べているに留まらず、海外の哲学者が発した発言や観念とを比較しながら、日本の『武士道』精神が如何にして積み重なりながら今日に至ったかを述べている。

本書を手にした当初は、正に宮本武蔵の『五輪書』のような文章を想像していたが、全く違っていた。非常に哲学的な視点で分析的であり、一部では科学的でもあるのだ。『武士道』を知らない海外の人たちに紹介するのだから、変に固定観念を刷り込ませるようなことは一切無い。だからこそ、第三者として、『武士道』を理解することが出来たのかもしれないし、セオドア・ルーズベルト大統領のように深く感銘を受けた人もいれば、もしかしたら、あまりにも反吐の出そうな忌まわしい観念と思った人もいたかもしれない。
しかし、たとえ洋の東西、教育や習慣が異なるとはいえ、キリスト教における道徳的宗教的教育と、連綿と続いた武士道は、その根幹は大きな変化は無い、と新渡戸氏は言う。大きな違いがあるとすれば、キリスト教は『聖書』という『形』で残っているのに対し、武士道は不文律で、習慣を積み重ねていくたびに磨かれていくものである、とも。
日本の場合は、武士道精神が、武士もしくは士族という特権階級に与えられた権利であるものの、それを行使するときの『理念』や『行動』は、道徳的教育を促すものであれば、人種が異なろうとも同じなのだろう。そうでなければ、新渡戸氏がクエーカーに帰依することは無いと思う。

僕が本書を読み進めて、最も感銘を受けたところは、たとえ拝金主義・打算的な世の中に生きようとも、理想を追い求めることを忘れてはならない、というところだ。「正直者が馬鹿を見る」「世の中を生きるには狡賢くなった方がいい」という人がいる。確かにそれは紛れも無い事実だ。生き馬の目を抜く勢いで日々変化する現代社会。一瞬でも躓けば、瞬く間に置いてけぼりにされる世界。
しかし、こうとも思う。これから先、子供が出来て、その子が大きくなって、その子とその子の同世代が新たな社会を担おうとするとき、打算的な匂いが蔓延する社会を見て、果たしてどう思うか。「所詮世の中なんてこんなもの」「こんな世界に生まれるんじゃなかった」と考えてしまい、次世代がその世界を担うことを放棄してしまうのではないかと思う。新渡戸氏の他の著書に『修養』があり、今考えなくてもいい心配事は背負わなくてもいい、というニュアンスの文脈があるが、本当にいざその時になったら、それこそ取り返しがつかなくなるような気がしてならない。
次世代が、「ああ、この国に生まれてよかった」「苦労するかもしれないけれど、背負って、次に渡していこう」という気概が生まれるためには、やはり理想を持った社会活動・社会貢献が必要不可欠なのではないか、と思う。
日本人が、いや世界の人々が、忘れて、よもやそのまま埋没するか風化されるかの危機に瀕している大切な観念を思い起こさせる、『武士道』が今なお、いや、今こそ見直されているのは、そんな想いが馳せられているからだと思う。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-06-01T13:30:25+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4813314449"> 
  <title>修養 (タチバナ教養文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4813314449</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41N27N8QEQL._SL160_.jpg" />]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-06-01T13:29:52+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4003105117"> 
  <title>銀の匙 (岩波文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/cyber0515/archives/4003105117</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/5136JR5RNSL._SL160_.jpg" /><p>子供の頃の思い出というのは、兎角美化されやすいものである。何しろ、大人になると小賢しい知恵が回る、回るだけの判断基準がつくから。それが良かろうと悪かろうと、その思い出はどこかでデフォルメされてしまう。
けれど、本書には一切の誤魔化しが無い。子供の頃の体験を、事実のままに、そしてその事実において、その時、その小さな身体に宿る心で、どう思ったか、正直に綴られている。誤魔化しがない分、文体に熱っぽさが無く、冷淡で、どこか突き放しているような印象を受ける。しかしそれが、他からの余計な情報の入る余地が無い状況を、ありありと表現していると思う。
ちなみに、『銀の匙』は本編とは全くと言っていいほど関係は無い。しかし、ふとしたきっかけで引出しの小箱から見つけた銀の匙から、自身の幼い頃を回想する。小箱の中には他にも、当時にしては宝物であったであろうものが沢山詰まっているにも関わらず。『銀の匙』とは、そんな主人公の、『幼い頃』の象徴でもあるのだろう。

虚弱体質で、勉強も運動も苦手だった少年時代。伯母に守られるように育てられる。格別に不自由なことは無いにせよ、その時代に生きる子供に降りかかるような特別な事象も無い。
時は日清戦争の時代であったものの、文章には、日清戦争は単にその単語だけで、社会情勢や家庭内に降りかかる何らかの事象は、全くと言っていいほど無い。それは、主人公の家庭が、日清戦争の影響に直結するような状況・状態ではなかったのか、または、主人公が子供であるがゆえに、そこまでの感受性を広げていなかったのか。恐らく後者であろう。遊び盛りの子供『そのまま』の視点で綴られた作品なのに、やれ知ったように当時の時事を含めるのは、それこそ子供時代を『美化』していると受け取られるに違いない。

恋というほどではないが、近所に良く遊ぶ子供もいて、やはりその子供も、その子なりの感受性で遊ぶ子供である。彼にとって、ほぼ伯母が世界の全てであったが、伯母以外の外の世界に触れることによって、様々な人間関係・人間模様が否応無く目に飛び込んでくる。
それによる自身の挫折。ライバルの出現。途端に主人公はメキメキと力をつけていく。いつの間にかクラスでも上位の座に。それでも不安定な上位の座。孤独に苛まれたり、寄りが戻ったり。その時代が、とりわけ特別、と言うわけでもない。子供が身につける感受性は、きっとどんな時代でも同じなんだ、ということを再確認させられた。

やがて大きくなり、久方振りに伯母に会いに行く。しかし、伯母はほとんど耳が聞こえなくなっていた。かつてのように遊んでもらうことも出来ない。残酷な時間の流れを、その身を以って受け止める。
本書の中で、恐らく主人公の感情が最も動揺した瞬間なのではないだろうか。ニヒリズムと言うわけではないと思うが、当時の主人公は、子供特有の熱っぽさが無いように思う。しかしここから先の主人公の感情の流れが、それまでに比べて少し変わったような気がした。やはり、時が経っても主人公にとって、伯母の存在は1つの拠り所なのではないか。そんな風にも思えてならない。

そんな子供時代を、『銀の匙』を眺めながら回想して、大人になった彼自身は、それをどう思ったのだろうか。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2011-06-01T13:28:47+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>book</dc:subject> 
  <dc:creator>Cyber</dc:creator> 
</item> 
</rdf:RDF>
