Nine Stories

著者 :
  • Little, Brown and Company (1991年5月1日発売)
3.78
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本棚登録 : 108
感想 : 19
5

様々な訳者が「Salinger作品は原文こそ」と言う理由がよくわかった気がする。訳では必ずしも再現しきれないもの――行間から漂ってくる微妙なニュアンスとでも言うべきようなもの――があることを感じさせられる。

以下、収録短編概略
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"A Perfect Day for Bananafish"
大戦から帰還した元兵士と、その細君のフロリダ休暇滞在中のある一日の出来事を描いた話。
戦後に多くの兵士を悩ませた心的外傷の存在と、それに対してあまりに無神経であった1948年当時の合衆国の空気との不可能的な共存が、ここでは最悪の結末を迎える。

"Uncle Wiggily in Connecticut"
子持ちの若い主婦が、学生時代の悪友と軽妙なガールズトークを交わしながら飲み明かす一日が舞台。
会話のやり取りや些細な描写がとても冴えていて、Salingerらしい一作。
何不自由なく裕福そうに暮らす女性が抱える内面の闇と喪失感が、読後にやりきれない余韻を残す。

"Just Before the War with Eskimos"
ある現実との邂逅と、それによってパラダイムシフトする内面を描写した作品。
戦後の合衆国社会には、大雑把に言って二種類の家族が居た。戦争の影響を被った家族と、全く対岸の火事として(スポーツの試合かなんかのよう感覚で)過ごしてきた家族と。
そういうことをふと考えてしまう。

"The Laughing Man"
重層的で複雑な構造の一編。
大筋としては、9歳の少年が自分の尊敬する青年の失恋から大人の世界を垣間見る、という具合。
他方、局面で示唆される要素を総合すると、異なるカテゴリーの人間同士の間に聳え立つ断絶と、そういうものを内包する社会の残酷さとを描いた話でもある、という具合。

"Down at the Dinghy"
たぶん本書でも最もシンプルな構造で、読みやすい作品。シンプル故のストレートな話の良さを堪能できる。初めて本書を手に取る人には、この作品を最初に読んでもらうのが一番楽しみやすいかもしれない。
キーワードとなるのはユダヤ系の人々に対する侮蔑的なある言葉なのだけど、その言葉を受けとる感受性と、発する人々の感受性、双方にいろいろ思わされるところがある。
日常にさりげなく潜む悪意と、同じく日常にさりげなく潜む癒しが描写されている。

"For Esme―with Love and Squalor"
ノルマンディー上陸作戦からドイツ占領までの過酷な欧州戦線に従軍した兵士が、ある英国の少女の結婚式のために記したもの、という体裁で織り成される物語。
人を損ないうる可能性を持った暴力的なエレメントは、大は戦争から、小は人間関係の隠れた悪意まで、様々なものがある。そうした大小様々な暴力性の存在を示唆しつつも、この作品のメインテーマとなっているのは、そうした全てを超越しうる、人と人との間に生じる無償の魂の交流の可能性だ。
おそらく主人公はもう回復不能な、悲惨な状態にある。彼を取り巻く環境も良くない。しかし、あの1日があったおかげで、彼は救われたのだと思う。あれこそが希望なのだと信じていると思う。
タイトル通り「愛と汚れ」を描いた、サリンジャーの最高傑作。

"Pretty Mouth and Green My Eyes"
友人の妻とベッドの中に居る男の元に、その友人から電話がかかってくるという、ちょっとSalingerらしからぬ喜劇的な話……と思わせておいて、実際には本書で最も残酷な瞬間が描写された一作。
一人の男が、彼を取り巻く周囲の人々の振る舞いを引き金となって、今まさに精神を損なっていく様が痛ましい。

"De Daumier=Smith's Blue Period"
ある絵描きの青年が青春時代を回想し、自身が宗教的な意味で開眼していく様子を綴った、いわば"神"をテーマにした一種の教訓譚。
以降のSalinger作品との関連を踏まえると重要な位置付けにくるべき作品なのだけど、個人的にはあまり好きになれない。
"For Esme"や"Uncle~"で発揮されているような、筆者のエスプリに富んだ表現力が、ここではいまいち機能していない。

"Tedy"
Salingerのキャリア最後の中編"Hapworth"と近いものを感じさせられる、文学の枠からかなり逸脱した一作。
ひとりの人間の話を書くことよりも、もっと概念的・根源的なものと向き合うことをSalinger自身欲しているが故に、こういう作品になったのだろう。
決してつまらないわけではないのだけど、困惑せずにはいられない。
文学作品を読んでいるというより、実存主義系哲学者の著作を読んでいるように思えてくる節が少なからずある。良くも悪くも。


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村上春樹が何かの際に記していたように、本書はまさに九つの作品がそれぞれ単体として光を放ちながら、相互に補完し合ってもいるような、そういう一冊の本として完成された短編集だと思う。最後の二作については作品単体としてはどうなんだろうというところなのだけど、それでも本書に収まることで形になったように感じる。
特に"For Esme―with Love and Squalor"が他の作品に与えている光彩は眩く、それが他の短編作品を一層素晴らしいものとしていることはまず間違いない。同様に、他の八編の強烈な存在があるからこそ"For Esme"がより一際輝くものとなっているとも言える。
それぞれが個性を備えつつ、それぞれのタッチでひとつの世界観を映し出している、そういう短編集としてはこれ以上ない完成度を持った名作。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: J.D.Salinger
感想投稿日 : 2016年6月17日
読了日 : -
本棚登録日 : 2016年6月21日

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