密林の語り部 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (2011年10月15日発売)
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感想 : 72

この世に生を受けてからのすべての記憶や定義を消し去って、何もかもを白紙の状態に戻してもう一度この世界を見つめることができたなら、すべてはどんな風に見えるのだろう? 最近そんなことを取りとめもなく考えることがあります。伊豆に移住してからの僕の中には、自分の五感が捉える日々の経験を形作っているすべての思い込みを初期化して、世界に流れた時間や時代に左右されない、無理なこととはいえ原型のようなものに触れてみたいというような、どこか願望じみたものがあるのです。

ペルーの作家 、マリオ・バルガス・リョサ(2010年ノーベル文学賞受賞)の小説、「密林の語り部」を昨夜読み終えて、改めてその感覚を強く覚えるとともに、現代の日本といういわゆる先進国と云われる国に住む者として、触れてみたいと思うその原型のようなものからはもはや遠く離れてしまったところに自分はいて、もしそれが出来たと思える瞬間があるとしても、それは単に独りよがりな自己満足に過ぎないのかもしれないという思いにかられ、今更ながらに今の自分の立ち位置を知らされたような気がしました。

「密林の語り部」は、自分の育った社会と習慣、そして文字通り文化・文明を捨ててアマゾンの密林の中へと分け入り、少数の集団としてあちこちに分散しながら、おそらくは太古からのままの生活をつづけるマチゲンガ族の人々の中へと同化し、彼らの間を渡り歩きながら、文字にも絵画にもよらずただ口を通し言葉によって物語ることにより、現代の文明に侵食されずに残り伝えられる、古来よりの、彼ら自身の始まりと生存の鮮烈な物語を、マイノリティであるマチゲンガ族の原型とともに残そうと密林の語り部となる、転生と言っても過言ではない青年の生にふれて描いたものです。

そこにあるのは決して単なる衝動的な文明への拒絶や過去への回帰などではなく、西欧の〝進歩的な文明〟が必ずしも人間に幸福をもたらすに足るものとは言い切れないという、ある種の自省的な感覚と見切り、そしてマチゲンガ族が辛うじて保つことができている純なるものや状態への決意のともなった愛情であり、先にふれた、ひとつの個として経験しているこの世界の原型にもしもふれることが出来るのなら、そうしてみたいという僕の願望とも微妙にかぶるような、今の僕にとっては静かに共感を呼び起こすものでもありました。

しかし同時に強く思い知らされるのが、僕にはとてもこのような生き方は出来ない、という、羨望と諦観、そして安堵が混ざり合った、夢から醒めたような感覚です。自然に恵まれた伊豆という場所に住みながら自然回帰的な情緒に親しみつつも、僕自身はもはや手放せない幾つもの便利さや物質の中で生きているのが現実であって、自然そのものも、既に人間の作り上げてきた社会の中に組み込み済みの資源や装置であるかのように捉えられつつある社会の中で、自然との関わりについて、利用者、さらに言えば簒奪者のようでもある人間の姿を自分自身も持っているということ、それを突きつけられたようにも感じました。

読みながら思ったことのは、「へえ〜、彼らの目にはこんな風に世界が見えるんだ」・・・という世界観の面白さでした。それは、もしもすべての記憶を消し去って、何もかもを白紙の状態に戻して世界を見つめたなら、どんな風に見えるだろう? という冒頭にふれた僕の最近の興味にも通ずる風景を見せてくれるものでもありました。

密林の住人たちが夢中になって耳を傾ける、語り部の口から止めど無く溢れてくる神話や昔話、ホラ話は、時系列もバラバラであたかも時空を自由自在に飛び回るように取りとめなく語られて、それはさながらジャングルの中で道に迷い、そのすがら幾つものビックリ箱に遭遇して驚かされるようなもので、筋道立てた論理を基にして考えることに慣れ、科学の知識や住み慣れた社会の常識から容易に外れることの出来ない現代人にとっては、今まで経験したことのない読書体験をもたらしてくれることと思います。

それでも、彼らの対岸で生きているに等しい僕にとって、それらの話は、読みながら時々とても意味深いものとして働きかけてくるように思えました。心にふれてきたのは、マチゲンガ族の人々にとり、目にするすべての光景は、今であると同時に過去を含んだプロセスそのもなのかもしれない・・・そう感じたことです。

すべてのものは、今とは異なるありさまの時期があり、すべての何かは且つては別の何かであった時を経て今という経験に至っているという世界観。太陽や月や星であれ、石や木や川であれ生き物であれ、そこには何かしらの道筋と物語があり、彼らはその物語に沿って目にする事象のあれこれへの敬意と畏れの念を抱き、空と大地と川に依り沿って生きるものとしての慎みと義務のようなものを育んでいるように思えたのです。

「大地が嘆いているのなら、何かしなければならない。どうしたら太陽や川の力になれるか?どうしたらこの世界と生きている者の力になれるか?」と、答えを求めるのでもなく問う語り部の言葉・・・アマゾンの密林に住む未開の人々が、このような精神性を持っているということ、その意味は、ごく〝普通〟に文化的生活を送っていると自認する現代人の日々の営みの在り方にも自問自答の機会を投げかけるものとして僕には感じられました。

どんな生き物にも、その種ごとにそれぞれ求められ、独自に表し得る〝らしさ〟というものがあると思います。鳥には鳥らしさ、犬には犬らしさ、ライオンにはライオンらしさ、という風に。では、人間が持つ素養に照らして、誰もが認められる人間らしさとして挙げられるのは、いったいどんなことだろう?

アマゾンの密林に住む未開の先住民の姿。人間らしく生きるということに本来と言っても良いような意味が何かあるとするなら、それをもう一度考えてみるようにと、より開かれ、文化的である故により賢明であるはずの現代人の認識に対して、彼らの存在そのものが改めて問いかけてくるように感じます。

博愛的な考え方をすれば、原始時代と変わらない生活を営む彼らを、僕らが当たり前のものとして享受している文明によってもたらされた利便性や物質の豊かさ、求めて当然と考える主張すべき権利についての気付きへと彼らを導き、より開かれた文明人となるように促すことが、彼らの為にはなるはず・・・流れとしてそう思えてもきます。でも、古くはスペイン人によるインカ帝国の滅亡にまで遡る西欧による南米に対する搾取に満ちた歴史(僕は甚だ勉強不足だけど)や、おそらく現代にも残っているかもしれない同様な風景を想像するに、本当にそうだろうか?とも思えてきます。(その逆についても同じことが言えるけど)

もし、すべての記憶や定義を消し去って、真っ白な状態で世界を見つめたらどんな風に見えるのだろう? 僕にとってマリオ・バルガス・リョサの作品は、この「密林の語り部」が初めて読んだ小説なのですが、伊豆に住みながら、日毎に目にする空や海の風景をいつも初めて見るような気持ちで見つめたいと思っていた僕には、密林の中を彷徨いながら、固定観念のタガを気持ちよく外してくれる経験を垣間見せてくれる恰好の読み物とりました。

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2013年1月28日
本棚登録日 : 2013年1月28日

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