ぶらり散策懐かしの昭和: 消えゆく昭和の建物をたずねて

著者 :
  • 扶桑社 (2001年4月1日発売)
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感想 : 3

 人はすぐに忘れてしまう。それが大切なことなのか、そうでないことなのか、それすらもわからないまま忘れてしまう。ちょうど砂をすくった指の問から、砂がどうしようもなくこぽれ落ちてしまうように、僕らはあらゆることを忘れてしまう。

『父のぬくもり』はそんな忘却に関する本だ。

 小渕恵三元首相が在職中に突然、死去して1年余り。この1年の問にも政治は動き、森喜朗首相を経て小泉純一郎首相の誕生となった。 この変動の中で、もはやメディアは小渕の名を忘れている。たった1年ほど前の出来事なのに小渕首相の存在ははるか遠くの出来事のように思えている。記録には残っている。けれど記憶はどこか曖昧だ。

では、その小渕氏の長女が父の思い出を綴ったこの本の中には彼の生前の姿が正確に記されているか? 

 それもまた疑問だ。ここにあるのは、手のひらの上に残った「思い出」という名の砂粒だ。それぞれをよく見ると白く、とても愛おしいように光り輝いている。親子で連れ立って『タイタニック』を見に行く項などはとても微笑ましい。けれどというか、だからというか、この本にはそうやって言葉にできないような部分は失われている。

 公の中の私、私の中の公。ほんとうはその公と私をつないでいる中間の部分に捉えることのできない現実が潜んでいるはずなのだ。公のことは記録に残る。個人的な思い出は私的な記憶に残る。『父のぬくもり』に書かれているのは、とても個人的な、でもそれ故に優しい気持ちになれるようなそんな記憶ばかりだ。

 ここに描かれた優しい父親像を読めば読むほど、ここに描かれることのなかった、公と私の狭間に生きていた小渕氏の言葉を改めて聞きたかったと思う。

 公と私。商店街の建物もまたその狭間にある存在だ。

 誰もが馴染みの古い酒屋が、ある日突然コンビニに変わって驚いた経験があるだろう。商店は確かに個人の持ち物だ。だが、商店街という風景は私でもなく公でもない不思議な風景なのだ。役所が保護するわけでもなく、個人もそれを維持しつづけることはできない。こうして、そんな昭和の風景もまた、指の間の砂のごとくサラサラとこぼれ落ちていってしまう。

 銭湯、百貨店、写真館。『ぶらり散策懐かしの昭和』では、そんな消えゆく昭和の建物の写真を眺めることができる。ここで取り上げた場所の多くは商店街のように個人と公が交錯する中間地点だ。

 銭湯で近所の人と裸のつき合いをし、百貨店でよそいきの服を買う。写真館ではそのよそいきで写真を撮影してもらう。個人が公の前に出るということを自覚するのが、この3つの場所だったのではないか。それは、より本格的な公の場所へ出る前の緩衝地域の役割を果たしていたに違いない。

 だが、時代と共にそんな緩衝地域は失われていく。現代人はテレビのマイクを向けられても機械的にソツのない答えがすぐできるぐらい、公の視点を自分のものにしてしまった。もはや、私と公の問にあった緩衝地域は不要なのだ。それが現代だ。

 人はすぐに忘れてしまう。かつては公と私の間にもう一つ世界があったことを。そこにある種の真実が含まれていたことを。そして自分たちがその真実を忘れてしまったことを。

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: 仕事
感想投稿日 : 2011年12月20日
本棚登録日 : 2011年12月20日

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