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  <title>ぐーたら堂書店</title> 
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  <description>小説を中心にオススメの本を集めています。
この中からあなたのお気に入りの一冊が見つかることを祈っています。</description> 
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  <title>チェンジリング [DVD]</title> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/513Q1kgcsGL._SL160_.jpg" /><p>派手さはないが演技力確かなキャストによる、静かな中にはがねのような強さを持つ映画である。

1929年、大恐慌時代のアメリカ。シングルマザーの女性が仕事に行っている間に1人息子が家から忽然と消えた。数ヵ月後息子が発見されたといって警察がつれてきたのは息子とはまったく違う子供だった。母親は息子ではないと主張するのだが、警察はまったく相手にせず･･･

息子ではない子供を息子だといわれた女性と警察との戦いの映画かと思っていた。だが「警察との戦い」ではなく、「いなくなった息子を取り戻すための戦い」だった。これが真実の話ということが驚きだし、とても怖い。

まず息子の振りをする子供も空恐ろしいが、子供が最初から息子をかたるわけもなく、はなから本人でない子供を仕立て上げた警察のなんと言う非情さか。そして警察が自分たちの意に沿わない女性たちにとった「行為」は信じがたく、反吐が出るほど許しがたい。最近伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』を読んだばかりだが、権力によるでっち上げをこうも見せ付けられると、本当に怖くなるし、社会や権力不信になりそうだ。

母親を演じたアンジェリーナ･ジョリーはこれまでも「強い女」を数々演じ、そうした印象が強い。しかし今作は体を張って戦う「強さ」ではなく、心の、信念の「強さ」を持った女性を演じている。いかに男が女を感情的で、論理的でないとけなそうとも母親ほど強い生き物はこの世にいないのだということがこの映画の根底にある。

アンジーは全体として抑えた演技の中に確固たる母親の強さがあり、数少ない感情をあらわにするシーンは実に真に迫る演技だった。この役は実際に母でもある彼女でなければ出来ない役であったように思う。

この映画ではまた「息子の事件」の真相という部分も描かれ、ミステリーの要素も含んでいる。私はこの「事件」についても描かれるとは思っていなかったのだが、その部分の描き始め方が実に上手い。母親が新たな局面に立たされようとするそのすぐ横で、さりげなく事件についてが語られ始めるのだ。この予想外の展開がかなりスリリングであった。

こうした予想外の要素に加え、本作は細部まで手の込んだつくりの作品だ。例えば終盤、アカデミー賞の授賞式の話題が出てくる。ここで作品賞に「ある夜の出来事」と「クレオパトラ」が挙げられていて、主人公はみんなは「クレオパトラ」だというが、「ある夜の出来事」こそ傑作だと評価する。本筋とは関係ないところでアカデミー賞のネタを持ってきて、作品についての意見を登場人物に述べさせたりするところに、監督のイーストウッドの遊び心を感じるというか心憎い演出だ。

そしてラストシーンからカメラをそのままにしてクレジットをかぶせていく終わり方が良い。ラストからかなり長く街の動きが流れていく。内容的には必要はないのだが、こんな事件が起きようとも、街は動き続け、時は流れ続けるのだなと静かな余韻に包まれる。とても素晴らしい終わりかただと思う。またイーストウッドの抑えた音楽（彼は音楽も自分でやる。何と多才！！）も実によく映像とマッチしていた。

観ていてけして楽しい映画でも、観終わって気分がよくなる映画でもないけれど、細部にまで目の行き届いた、静かな、しかし力強い良作である。</p>]]>
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  <dc:date>2011-02-19T21:44:18+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>映画</dc:subject> 
  <dc:creator>ぐーたらうりぼう</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4104596035"> 
  <title>ゴールデンスランバー</title> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ph7DdxhQL._SL160_.jpg" /><p>国家規模の「権力」によって首相暗殺の犯人に仕立て上げられた平凡な男の逃走劇、というまるで映画のようにスケールの大きなエンターテイメントを小説で見事にやってみせたのがこの作品。

逃げる男の緊迫感あふれる現在と、おだやかに時が流れていた大学時代の記憶を行ったりきたりしながら語られるストーリーは展開が速く、伏線ともなる細部までの緻密な描写とあいまって視覚的なイメージを呼び起こし、まるで映像作品を観ているような感覚に陥る。ページをめくるのがもどかしい。

しかしこの作品が秀逸なのは、男の逃走劇という本編の前に2つの章が置かれているところである。この2つの章はこの事件がメディアを通して国民にどう伝えられ、国民がどう受け取ったのか、そして事件後の顛末と20年後に客観的にこの事件がどう捉えられているかが描かれている。

これらの章はまず後から始まる本編の巧妙に張られた伏線の役目を果たしている。そしてまたこれを先に提示しておくことで本編を読み進めるほどに、本当はこういうことだったのか、それがこうねじ曲げられたのかということがよりはっきりし、いかに「権力」が簡単に事件をでっち上げ、メディアがその嘘を伝えるのか。国民はいかに簡単にそれに踊らされるのかが浮かび上がる。それが本編の追い詰められていく怖さや緊張感を増しさせている。

こうしてみるとプロットもさることながら、いかにして物語を語るか。どのようにどういう順番で語るか、という構成の部分がこの作品の真髄であると感じる。そしてこの作品で著者はもう1つ別のことを読者に突きつけている。

この作品のように権力によって悪者にでっち上げられるということは、けしてありえないことでも他人事でもない。昨年には検察が証拠を捏造した事件が明るみに出たし、とある町で住人がこぞって選挙法違反で捕まえられ、しかし裁判で無罪となる事件もあった。権力によるでっち上げは私たちのすぐ隣に、いや私たち自身にも降りかからないとはいえないのだ。それなのに、冷静に見ればおかしなことであっても、国民はいとも簡単にそうした嘘に踊らされる。むしろ自分が当事者でなければそういう「事件」をアトラクションのように楽しみ、何処か進んでメディアに踊らされもするのだ。

著者はこのことについて、いいとも悪いとも、どうしろとも、どうすべきだとも言っていない。ただ淡々と権力によるでっち上げと、国民の「良識」の本当の姿を描いているだけである。だが、淡々と描かれるゆえに余計に背筋が冷たくなる。この作品、非常によく出来たエンターテイメントであるが、それだけに終わらない奥の深さがある。</p>]]>
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  <dc:date>2011-01-27T21:35:45+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>小説</dc:subject> 
  <dc:creator>ぐーたらうりぼう</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4102193057"> 
  <title>スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4102193057</link> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/61rCBfJEhkL._SL160_.jpg" /><p>まさに今の時期を舞台にした不思議な物語である。

いわずと知れた名作少年映画の原作である表題作のことではなく、一緒に収められているもう１つの短編、「マンハッタン奇譚クラブ」のことである。

そこ以外ではけして見つからない蔵書があったり、成り立ちも執事も建物も何もかもが謎に満ちた会員制の不思議なクラブでは、毎年クリスマス前にメンバーの誰かがとっておきの不思議な話を語る。ある年のクリスマスに語られたのは医師であるメンバーが若い頃に出会った未婚の妊婦の出産にまつわる不思議な話だった･･･

スティーブン･キングといえばホラーという人も多いだろうが、私はむしろホラーというくくりに縛られない作品のほうがキングのストーリーテーラーとしての才能を感じる。現に本書の原書は四季それぞれを舞台にした必ずしもホラーではない（私は夏の編はある種ホラーだと感じたが）中短編集だが、その中の３本が映画化されている。そしてそのうちの１本が「スタンド･バイ･ミー」で、１本はおそらくキング原作の映画では最も名作であろう「ショーシャンクの空に」である。

さて、本当に恐ろしいのは人の心の中にあることをキングのホラーは描いているが、ホラーに限らず彼は人が誰しも心に持ち、そして隠している影の部分を描くことに長けている。悪意、嘘、心のキズ、迷い、苦悩、葛藤。それらが描かれるがゆえに彼の作品にはホラーでなくとも何か良くないことがおきるような、不安定、不穏な独特の緊張感が漂う。

そしてまた「説明のつかない」不思議なことも彼の作品ではよく扱われる。しかしその不思議なこと＝「幻想」を、人の「影」の部分の描写という「現実」と上手く混ぜ合わせることで、そういうこともあるだろうな、と自然に受け入れさせてしまうところもまた彼のすごさである。

説明のつかない不思議なことを、彼特有の不穏な香りを漂わせながら描いたこの短編は、ホラーではないのだが、私は「幻想」と「現実」が上手く練りあがった、非常にキングらしい作品のように感じた。もしここで語られる妊婦の話それだけでストーリーが作られていたら、おそらくちょっとありえない話として、さして面白くもない物になっていたように思う。しかしこれまた説明のつかない不思議なクラブで語られたという枠組みを持たせたことで、こういうこともあるかもとすんなり受け入れられてしまう。

私はこの作品においては語られた妊婦の奇譚がむしろ挿話で、暗くじめじめしたロンドンとマッチした、シャーロック・ホームズや、切り裂きジャックの物語のような雰囲気をかもし出した、「箱」の役目をしているこのクラブについてのストーリーこそメインであったかのように感じた。だから読後に思ったことはこのクラブを舞台にした別の話、むしろこのクラブそのものの話が読みたいということだった。

こんな風に誰もが普段の社会的な立場を横にどけて、好きなように酒を飲み、本を読んだり、遊んだり、落ち着いて好きなように一時を過ごせる場所があったらどんなにいいだろう。

あっという間に外は暗くなり、最近はめっきり寒くなってきた。こんな季節にぴったりの不思議な味のある短編である。最後にこの短編だけでも読む価値はあるが、もちろん「スタンド･バイ･ミー」も良作であることを付け加えておく。</p>]]>
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  <dc:date>2010-12-26T22:51:47+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>小説</dc:subject> 
  <dc:creator>ぐーたらうりぼう</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4167111284"> 
  <title>ボローニャ紀行 (文春文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4167111284</link> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51aggd-oaML._SL160_.jpg" /><p>イタリアといえば思い浮かべる都市は？
ローマ、ミラノ、フィレンツェ、ヴェネチアがまず挙がるだろう。私の場合その後に続くのは、ナポリ、トリノ・・・。

ボローニャ。聞けば「あぁ」となるが、なかなかこの都市の名は出て来ない。ボローニャと聞いて思い浮かぶのはミートソースのスパゲッティで、これはボローニャで誕生したので正しくはボロネーゼ（つまりボロニャー風）という。あとはイタリアには大抵どこの都市にもサッカーチームがあるのは知っているけれど、本文に中田英寿選手が在籍した話が出てきても、ボローニャというチームのことはちっとも記憶になかった（私の記憶はパルマ止まり）。

本書は、そんな日本人には知名度がイマイチな気もするボローニャに永らく恋をして、ついにそこを訪れた井上ひさしさんの紀行文。

ボローニャといえば、映画のフィルムの保存、修復などを手がける「ネチテカ」という組合会社が良く知られているそうだ（ちなみに私は知らなかった。いくら古い映画はあまり観ないからといって、これでは映画好きを自認するには恥ずかしいと痛感）。この「ネチテカ」ももちろん、ボローニャには「ボローニャ式」という、ボローニャ独特の文化、スポーツなどに対する支援体制が存在する。

市民が何か新しいことを始めようとする。彼らは組合会社を作り、そうすることで軌道に乗るまで税金は払わなくていいし、市や県、そして企業はこういう団体に惜しげもなく資金援助を行なう。場所だって、市は使わなくなった古い建物などをただ同然で貸し出してくれる。「ネチテカ」もそうやって援助を受けて最初は小規模にフィルムの修復などを始めたが、やがて世界中の映画配給会社からフィルムが持ち込まれるようになり、今やその分野を一手に引き受け、ボローニャの町にも多額の利益をもたらしている。

こうした背景には日本とは異なるイタリアのメセナ（文化の保護、支援活動）意識があり、小規模な企業であっても積極的にこうした活動に資金を提供している。特に最大のスポンサーとなっているのが金融機関で、利益の50パーセントはその地域の文化活動などに使い、利益を利用者である人々に還元するよう法律で定められている。

これだと例えどんなに金融機関がもうけても、半分は私たちにもプラスになる活動に使われるし、ちょっとうがった見方をすれば、私たちのお金を右から左に動かすだけで、何も生み出すことなく利益を得ている金融機関に少しは親近感もわこうというものです。世界中の金融機関がこのような利益を人々に還元するという感覚を持っていたのなら、一部の役員の法外な報酬や、リーマンショックは起きなかったかもしれません。

ボローニャ式として、この本では知的障害のある子供たちの働く農園、そしてレストランも紹介されていますが、社会的弱者も含めて、みんなが働けて、安心して暮らせる街。古きを維持しながら、積極的に新しいものに挑戦する街。どこに行かなくても街で、家族や友達とおしゃべりをし、街で手に入る食材で美味しい食べ物に舌鼓を打ち、映画を観て、街のスポーツチームを応援し、街の劇場でお芝居を見る。そんな街に住んでいることを想像しただけで、ワクワクするのは私だけだろうか？

本書の中で井上さんは、「日常の中に楽しみを、そして人生の目的を見つけること。」と書いている。非日常の方法でしか楽しめないのは少しおかしいのではないかと。とすると、日本人のように楽しむ為にわざわざ何処かへ行くなんて事をやっているということは、それだけ日常が楽しくなくて、楽しみをもたらしてくれるような素敵な街に住んではいないということなのかもしれない。


紀行文というのはこれまで読んだことがありませんでしたが、何処かへ旅するとき、ただそこの有名な観光地を巡っただけで、その町を知った気になるのは間違っているように感じていました。今回初めて紀行文というものに触れてみて、やはりその町の歴史や今やいろんなことを知った上でその街を訪れ、観光スポットにとどまらずにその街に触れてみてこそ本当の「旅」であるように思います。

今年この本の作者で、作家、劇作家、作詞家など多方面で活躍されていた井上ひさしさんがお亡くなりになりました。私はこれまでお名前以上のことはほとんど存じ上げていませんでした。この本からは井上さんのボローニャへの深い愛と共に、市井の人々とこの社会への暖かな眼差しが感じられます。それは戦中、戦後を生きてきた井上さんの実体験に大いによるところなのかもしれません。さらにこの本からは勉強熱心で博識でいらっしゃったことも伺え、また一人知識人と呼ぶにふさわしい方が亡くなられたように感じます。心からご冥福をお祈りいたします。</p>]]>
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  <dc:date>2010-12-23T22:46:37+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>エッセイ</dc:subject> 
  <dc:creator>ぐーたらうりぼう</dc:creator> 
</item> 
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  <title>阪急電車 (幻冬舎文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4344415132</link> 
  <description>
<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51VGr6y-u6L._SL160_.jpg" /><p>いつも何気なく乗っている電車は、実は見知らぬ人々がほんの一瞬交錯する場所だ。そこでは乗客のいろんなドラマの一端が繰り広げられている。そう考えると、電車に乗るのがなんと楽しくなることだろう。

すでに映画化が決定している本書は、関西にある片道15分ほどのローカルな路線、阪急今津線を舞台にした連作短編小説である。作者の有川浩は『図書館戦争』シリーズや現在ドラマが放映中の『フリーター、家を買う。』などで今注目の作家だ。これまでもその名は書店でよく見かけたのだが、これまではなんとなく手が伸びなかった。が、京都滞在が増えたせいか、『阪急電車』というタイトルに親しみを感じて思わず手に取った。

全編を通しての主人公ともいえるのが、宝塚から西宮北口を結ぶ阪急今津線だ。このローカル線は大学やホテル、住宅街や神社などを沿線に抱える、実に生活感あふれるかつ個性的な路線である。ゆえに乗客（登場人物）も自然と幅広くなる。

物語は最初は宝塚から出発して西北（西宮北口）まで、後半は折り返して西北から宝塚までの、今津線の各駅ごとに短編になっており、各編ある乗客の目線から語られている。主人公たる乗客たちは図書館に足しげく通う若い男女、元婚約者を寝取られた女性、孫にも容赦ない初老の女性、すぐに切れる彼氏と別れたいと思いながらなかなか別れられない女子大生、年上の男性と付き合っている女子高校生、偶然出会った同じ講義をとっている男女の大学生。

西北まで片道15分の今津線、とある日の車内で紡がれていくのは、応援したくなるようなピュアな恋のはじまりと悪い恋のおわり。しばらく経ったいつかの折り返し電車で、その後の顛末が語られてゆく。

描かれる3つの新たな恋の始まりはどれもうらやましいぐらいきらきらしている。同じ趣味が縁で始まる恋、年上のちょっとおバカな、でも自分を大事にしてくれる人との恋、お互いにとって初めての手探りの恋愛。いずれも自分もしてみたくなるようなみずみずしい恋だ。小説を読んでこれほど恋をしたくなったのは初めてかもしれない。

それから大学生のお互い初めての恋愛のエピソードが私は好きだ。女の子の毎日何か知らないことや面白いことを知り、その日のスペシャルを探すという習慣もすごく好感が持てた。

また本書が秀逸なのは、単に車内の乗客たちの短編が集められているというのではなく、短編間の「交錯」があるところだ。本書では駅ごとに編が変わり登場人物も変わるが、電車に乗った乗客は大抵何駅かは乗車する。そのため複数の編のストーリーがとっかえひっかえ、同じ車内で平行して起きている。ある編の出来事を別の編で別の乗客が第3者の視線で眺めていたり、時に乗客同士が接触を持ったりする。登場人物が乗ったり、降りたり、現れては消え、そのプロットの重層性があたかも自分もその電車に乗っているような心地よい臨場感をもたらすと共に、複数のストーリーを一本のお話に見事にまとめあげている。

そして本書を読んだら、とにかく舞台となっている阪急今津線に乗ってみたくなった。ムリでもなにか電車に乗りたい！！どこかへいくためにではなく電車に乗るために出かけたい！！

期せずして新しい作家の面白い本に出会うと、新しい世界への扉を開いたような気持ちになる。有川浩のほかの作品にも俄然興味がわく。

電車の中で出会うのは、人生のほんの一瞬だけ同じ時間を共有する見知らぬ、行きづりの人々だ。しかしそうであるにもかかわらず、あなたの人生に大きな影響を及ぼす人と出会うことがあるかもしれない。電車は何も言わずにそんな乗客たちをじっと見守り、目的地へと運んでゆく。

さぁ、今日はいつもの電車に乗ってどこへ行こう？</p>]]>
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  <dc:date>2010-11-29T23:10:02+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>小説</dc:subject> 
  <dc:creator>ぐーたらうりぼう</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4344415035"> 
  <title>パリでメシを食う。 (幻冬舎文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4344415035</link> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/416WqCB2tmL._SL160_.jpg" /><p>パリに暮らす10人の日本人を紹介した本である。
パリは多くの日本人にとって憧れの街だ。何しろ地球の反対側のこの街の、シンボルであるエッフェル塔を模した商品をそこかしこで売っているぐらいなのだから。毎年たくさんの日本人が旅行でこの街を訪れ、留学や駐在でこの街に暮らしている日本人も多い。しかしこの本で紹介されているのはそういった人々とは異なる、本物の”パリの住人”たちである。

三ツ星レストランで働いた女性料理人、芸術の最先端で絵を描く女性アーティスト、ヨーロッパ中を飛び回るプロのカメラマン、オペラ座の前に漫画喫茶を開いた男性、オートクチュールを作る女性テーラー、パリコレでも活躍する男性スタイリスト、サーカスで活躍するヨーヨー･アーティスト、夢はお嫁さんだったはずの女性国連職員、だまされてもめげない鍼灸師、凱旋門近くに店を構える花屋。

パリは人種のるつぼの街だ。しかしお隣のイギリスが移民を積極的に受け入れてきたのに対し、フランスはそれを制限してきた。多くの制約があり、外国人がこの街で職を得る事は簡単ではない。われわれのイメージに反して、現実のパリは意外によそ者を受け入れたがらない保守的な一面を持っている。

その街で、本書の10人は与えられたのではなく自らこの街に自分の居場所を”創った”。彼らこそまさに”借り暮らし”ではなく本物の”パリの住人”である。本書はそんな”パリの住人”たる日本人たちの、ここに至るまでの半生を時間をかけてじっくり訊きだしている。

10人の”パリの住人”にはこの街に恋焦がれ、あこがれてやってきた人もいれば、めぐり巡って、期せずしてやってきた人もいる。どちらにせよ、多くの人はこの街のイメージと現実のギャップを経験している。さまざまな面で日本のほうが「快適」で、それに比べるとパリでは理不尽なことも多い。しかしそういうパリのあまり良くない一面も、一面でしかない。

日本は「快適」だ。しかしそれは単純な型にはまった生き方を求める。型にはまっていれば「快適」だが、そのレールから外れようものならとたんに生きにくくなる。しかしパリではみんな好き勝手に暮らしている。「フランス人は行間を読むなんてまどろっこしいことはしない。思ったことはズバッと口に出すし、人前で起こることも、怒鳴ることも、そして愛しているということもためらわない」からだ。でもその方がずっと人間臭いし自然だと思う。そう、パリは「快適」ではないかもしれないけれど、ありのままでいることを認められた街なのだ。

だからこの街の住人となった登場人物たちは、みな日本で言えば型にははまっていない人たちだ。しかしみんな自分のしたいことをしている。楽しく暮らしている。型を外れることで、シンプルに生きられるようだ。それを”自由”というのだろうが、そこに至るまで、この人たちは誰ひとりとして一筋縄の人生ではなかった。スタイリストのメガネくんは言う。その仕事が自分に合ってるかどうかなんてすぐには分からない。いくら才能があってもある程度続けてみないとわからない、と。「楽しく生きるにもいろいろ努力が必要だし、壁にぶち当たることもある」のだ。

パリの人々は型なんかないから、自分の求める物を自由に求められる。だから生活はシンプルでゆったりと暮らしているように見える。だが自由にゆったりと暮らすことは、けして上昇することをあきらめることを意味しない。パリの芸術の最先端にいる日本人女性は、恋人や友人たちとゆっくりとした時間を過ごし、好きな絵を描いて自由に暮らしている。一方で彼女は人は上昇する為に生きていくのだと、「絵」について大きな夢を抱いている。ゆったり自由に暮らすことと、上昇や夢といった野心は共存できるのだ。「日常は決して平凡という意味ではない」。

型の沿って生きていれば「快適」だし、「安定」した生活をおくれる。そこから外れれば不安定になるし、困難にぶつかることもたくさんある。だが「快適」の中にいてはけして得ることが出来ないようなものを手にする可能性もあるのだ。人はどう生きてもいい。「時間やお金に縛られながらも、安定して生きるのも一生。サクレ･クール寺院を眺めながら、好きなことをして生きるのも一生」である。

本書で印象だったことばに、カメラマンのシュンさんの「子育ては実験だった」というのがある。だが本書を読んでいたら「人生が実験」なのかもしれないと思った。人間が生きていくうえで毎日積み重ねていくことが出来るものがあるとしたら「記憶と経験」だけだ。人生どうなるか分からない。だったら型なんか無視して、いろいろ試行錯誤して、いろんな「記憶と経験」を積み重ねたほうが、思わぬうれしい結果を得られるかもしれない。

ノーベル賞を受賞した日本人も言っていたもの、若者よ、日本の「快適」さから抜け出せ、ってね。</p>]]>
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  <dc:date>2010-11-13T22:09:17+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>ドキュメンタリー</dc:subject> 
  <dc:creator>ぐーたらうりぼう</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4758434034"> 
  <title>八朔の雪―みをつくし料理帖 (ハルキ文庫 た 19-1 時代小説文庫)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4758434034</link> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51e9Q5F9J%2BL._SL160_.jpg" /><p>人の優しさや思いやりを最近感じていますか？ 
自分以外のだれかに、優しさや思いやりを持って接していますか？ 
高田郁の『八朔の雪　みおつくし料理帳』は心までほんわかさせてくれる、やさしい時代小説だ。 

洪水で親や幼馴染を失った澪は、縁あって大阪の料理屋の使用人となる。その才能から女でありながら板場にも入るが、店は火事でなくなり、母とも慕う女将さんと江戸の長屋で暮らしている。澪は蕎麦屋で働いていたものの、主人から店をまかされ料理屋を始める。やがて店は評判になっていくが、有名な料理屋に料理を真似されたり妨害を受けていき・・、という連作時代小説。 

この作品、主人公は澪だが、もう1人の主人公とも言えるのが料理だ。澪は上方と江戸の味付け、素材の使い方や好みの違いに苦労するが、その上方と江戸の両方を上手く使うことで、新しい料理を生み出していく。その料理を考えていく過程もさることながら、何より料理そのものがとてもおいしそうで、読んでいて思わず生唾がわいてくる。巻末にはレシピも載せられているが、この目にも浮かぶ魅力的な料理が、この作品の第1の魅力といえるだろう。 

さらに澪をはじめ登場人物も魅力的だ。易者に苦労が尽きないといわれた澪は、次から次に試練に見舞われながらも健気に頑張る、まさにNHKの朝ドラ的とも言うべき、日本人が愛してきた典型的なヒロインだ。このキャラクターに「下がり眉」が加わることで、愛嬌もある愛すべき主人公となっている。 

さらにご寮さん、蕎麦屋の主の種市、近所のおりょうさん、源斉先生などの、そして彼らに対しての澪の、優しさや思いやりが、このせちがないご時勢にあって身にしみる。また澪と丁々発止のやり取りを見せるなぞの武士小松原や、澪の幼馴染の野江といった登場人物や敵役の登龍楼が作品に良いアクセントを加えている。 

読んでいて、『八朔の雪』にはこれまでのいくつかの人気作品を連想させるところがあるように感じた。上方と江戸の味の違いというのは、山本一力の『あかね空』を思い起こさせたし、料理屋の話というのは同じく『梅咲きぬ』に通じる。また吉原の花魁の登場は『坂崎磐音シリーズ』を髣髴とさせ、何より絶え間ない試練に立ち向かう料理人と魅力的な料理といえば、韓国ドラマ『宮廷女官　チャングムの誓い』を連想させた。 

このような人気作に見られる、いわば黄金のエッセンスが混ざり合った作品ということもできるかもしれない。しかし『八朔の雪』は、単にこうしたもののつぎはぎというのではなく、これらを澪の料理のごとく上手く混ぜ合わせて、今までの時代小説にない、独自の味を出す作品に仕上がっている。それはまさに澪の人柄とその料理のようにほんわかしている。 

澪の物語はすでに次巻『花散らしの雨』が発売されており、こちらも読み終えたが、今後『みおつくし料理帳シリーズ』となっていくことは疑いようもない。魅力的な登場人物と設定であり、時系列に沿ってストーリーを続けていくことができる。さらに『花散らしの雨』では、小松原や野江、登龍楼との関係だけでなく、新たな登場人物もあらわれ、さらにいまだ触れられていない江戸で行方不明となった大阪の店の跡継ぎのこともあり、シリーズ化していくには万全といえるだろう。 

今後さらに、心洗われるような、ほんわかとした『みおつくし料理帳シリーズ』が続いていくことを楽しみにしたい。</p>]]>
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  <dc:date>2010-01-29T22:14:57+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>小説</dc:subject> 
  <dc:creator>ぐーたらうりぼう</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4062126737"> 
  <title>幸福な食卓</title> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41PDE9WQN3L._SL160_.jpg" /><p>読み終わって時間が経ったあとに、ふと思い出し、また読みたくなる。そんな小説こそ、本当に他人にオススメできる小説なのではないかと思う。
瀬尾まいこの『幸福な食卓』は、そんな作品の一つだ。

この作品は物語の世界や登場人物をとても身近に感じられる。
登場人物は、受験や恋愛、学校生活の悩み、複雑な家族問題等々、部外者からみるとささやかでも、彼らにとっては重大な問題を抱えながら生活している。そう、私たちと同じように。私たちの日常なんて、世界から見るとちっぽけで、瑣末なものかもしれない。けれど誰もが、当人にとっては大ごとな悩みや事件を抱えているものだ。だから、読者はそんな登場人物を、自分のそばにもいる人のように感じることができるのだ。

また私たちの日常生活に欠かせないものといったら「食事」だ。私たちの生活の随分多くの時間が、食事を用意したり、食べたり、片付けたりするのに割かれている。この作品には、登場人物たちの普段の食べ物の描写や、食事風景がたくさん描かれている。それがまた物語の世界を身近に感じさせる。読んでいて、自分もその世界の中で、登場人物のすぐ隣で生活しているのではないかと錯覚する。

しかしこの物語には、現実世界のとげとげしさはなく、なんだかほっとする。現実社会では、いろいろ事件も起こるし、｢悪い人｣も多い。けれど、主人公は根が真面目で、気がいい。ほかのくせのある登場人物も、みんな人のよさがある。それがこの物語に、穢れのない、「爽やかさ」をもたらしている。

そしてなんだかんだと問題を抱える私たちの周りには、しかし見過ごしてしまっているだけの、手のひらサイズの幸せがいっぱいあることを認識させてくれる。

自分の気づかないところで、実は自分を守ってくれている、自分に寄り添ってくれている人や家族の存在。身近な人の喜ぶ姿やちょっとした仕草。一緒にいて安心できる、疲れない誰かと過ごす時間。好きな人の笑顔。

見方を変えれば、私たちの周りにはいっぱい、私たちを心地よくしてくれるものが、いっぱいあるのではないか？

『幸福な食卓』を初めて読んだ時、最後の思わぬ展開にショックを受けた。電車の中だったので、涙を見られないようにするのが大変だった。もう一度読んでも、やっぱり泣ける。哀しい、切ない。でもこの作品全体を包んでいるのは、あくまで陽だまりのようにやわらなかな、あたたかさだ。

たとえどんな悩みや問題を抱えていても、どんな哀しいことが起こっても、時は止まることなく流れる。そしてその中で、いつも何かが終わり、何かが始まっているのだ。小さいかもしれないけれど、そうやって何かが変わっていく。それが日常だ。

読者は、物語の中の、すぐそばにいるような身近な登場人物のそんな日常を覗き見しているような気分になる。
だから読み終わると、陽だまりのようなあったかな気持ちになる。そして、自分の人生、いや、日常生活も捨てたもんじゃないのではないか。またもうちょっとかんばろうかな。そんな気にさせてくれる。</p>]]>
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  <dc:date>2010-01-27T12:59:41+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>小説</dc:subject> 
  <dc:creator>ぐーたらうりぼう</dc:creator> 
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  <title>ニューヨークの魔法のことば (文春文庫)</title> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ZSgFkRXBL._SL160_.jpg" /><p>著者岡田さんによるニューヨークの人々との何気ない日常を切り取ったシリーズ第3弾。
これまでの2冊同様、世界一人間くさい大都市かもしれないニューヨークとそこに暮らす人々が生き生きと描かれている。暴力や危険がはびこる大都市ならではの一面も持ちながら、見ず知らずのその場に居合わせた人と会話を交わしたり、友達にもなってしまうというあけっぴろげな人との関わり方は、けして東京では見られない、ある意味（日本人の描く）アメリカらしさのように思う。

ニューヨークと東京の人との関わり方の差はどこから来るのか？その答えはすでに本文中に用意されている。
　「心を通わせようとすれば、人はそれに応えてくれる」
他人に心を開き、街で一度きり出会う人たちと、少し接し方を変えてみたなら、この東京でも他人との関わり方が変わって感じられるかもしれない。それなら試してみたい、そう思わせるだけ、この本に出てくる人々は個性的で楽しい。そして彼らは人生を知っている。

今回とても私の胸に響いたのは、アメリカ人が多用する「楽しむ」と言う言葉をかけられているうちに、著者の岡田さんが「ありがとう、という気持ちになると、楽しめるのだ」と気づいたというくだりだ。期待通りに行かない時も、ちょっとやだなと思う時も、その自分が置かれている状況で十分にありがたいこと、楽しいなと思えることに目を向けることができれば、それを楽しむことで大抵のことは楽しめる。そうすれば自然と幸せになっていけるというのは、とても納得できた。

特にそのあとの別のエピソードで、車椅子生活となった男性が、今日も自分でひげがそれる、あれが出来る、これも出来ると小さなことがうれしくて、生きていることがありがたい。人生は楽しい。人生っていいものだな。と思っているという話が紹介されて、よりいっそう自分の状況に感謝する、ありがとうという気持ちを持つことが、人生を楽しむ、幸せになる一番の秘訣のように感じた。

私は生きている。私は五体満足で、行動する上で何の制限もない。私には住む家がある。私は食べ物に不自由していない。私は暮らしていく上でお金に困っていない。これだけで私はもう十分ありがたい身の上だ。生きたくても生きられない人もいる。目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、歩けない人もいる。家のない人もいる。毎日の食料に事欠く人もいる。生きていくのにお金に困っている人もいる。ちょっといやなことがあったってそれがなに？今のこの身の上に感謝。</p>]]>
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  <dc:date>2010-02-20T22:44:33+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>エッセイ</dc:subject> 
  <dc:creator>ぐーたらうりぼう</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4163249206"> 
  <title>風に舞いあがるビニールシート</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/gu-tarauribou/archives/4163249206</link> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51CW3AHHEXL._SL160_.jpg" /><p>人は誰でも、自らの人生に他人に語れるようなストーリーを持っている。
なぜなら、誰しも人生の中で、自分にとっては大きな一歩を踏み出す時があるから。
それは十分に語るに足るストーリーのはずだ。
森絵都の直木賞受賞作、『風に舞い上がるビニールシート』はその、人が一歩を踏み出す瞬間を巧みに描いている。

私は読む本を選ぶ際に、芥川賞や直木賞といった文学賞にはまったく関心がない。逆にこうした受賞作であれば、なんとなく読むのを敬遠してしまう。しかし本作を読んで、直木賞もまんざらではないなと思った。6つの独立した短編からなる本作は、人が誰しも持ち、そして人によって違う「自分の人生で大きなもの」への迷いや葛藤を抱えた人々が、その人生におけるちょっと、あるいは大きな一歩を踏み出す瞬間を描いている。

この作品全体を通して、私は読んでいてまるでドキュメンタリー映像を見ているような感覚に陥った。その理由の一つは、物語の切り取り方ではないか。読者にとって始まりは唐突だ。読者はのっけから、主人公がその一歩を踏み出すちょっと前のシチュエーションにポンと投げ出される。読者は主人公がどんな人物で、いったいその前にどんなことがあってこの状況なのかさっぱりわからぬまま、主人公の戸惑いや苦悩、逡巡、焦りを目の当たりにするのだ。

そして事態が進む中で読者は主人公がおかれている状況をだんだんに理解していく。そうしてそのまま読者は主人公と一緒に彼、彼女が一歩を踏み出す瞬間に立会うのだ。この作品は何気ない日常を切り取っている小説とは違う。それまでとは違う新しい一歩を踏み出す瞬間、その部分だけを切り取っている。読者はその場面の目撃者のような感覚を味わうことになり、それがまるでドキュメンタリーを観たような気分につながるのではないだろうか。

さらにもう一つこの作品がドキュメンタリーのような感覚に陥らせる理由は、主人公たちの職業？によるだろう。サラリーマンが主人公の「ジェネレーションX」は除き、有名パティシエのアシスタント、捨て犬保護のボランティア、社会人大学生、仏像の修復師、難民保護の国連職員。存在は知っていてもその実態はなかなか計り知れないことをしている人々だ。仏像修復師を主人公にした｢鐘の音」は、私にはすこしとっつきにくかったが、こうした知ってるようで知らない、けれど｢今｣のこの現実を反映したような職業の人々の内情をリアルに感じられるあたりも、ドキュメンタリーぽいのだ。

そして、ドキュメンタリーを観た時のドキッとさせられる感覚もこの作品は備えている。

　「自分に何ができるのかと考えることは、自分の無力さと向かいあうことだ。だから恵利子は長いことそれを放棄していた。・・（略)・・そうして目をそむけていれば、恵利子の毎日はそこそこ平穏に、波風もなくゆるゆると通りすぎていった。・・（略)・・それでも心のどこかに、本当にこれでいいのかと、こうしてゆるゆると年だけを重ねていくのだろうかと、形にならない疑問がうごめいてもいた。」

　「自分には関係ない、と目をそむければすむ誰かやなにかのために、私はこれまで何をしたことがあるだろう？」
(以上「犬の散歩」より）

ドキッとした。幸運にも平和ボケしたこの国に生まれた私たちには、自分には関係ないと目をそむければ、それで済ませられることがいっぱいある。でもそれでいいのだろうか？

この部分に限らず、この作品は何かしら読者に人生について考えさせるだろう。</p>]]>
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  <dc:date>2010-01-29T13:03:24+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>小説</dc:subject> 
  <dc:creator>ぐーたらうりぼう</dc:creator> 
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